第7話 流浪の貴族
「父の諸葛珪は、泰山郡(山東省中部)の丞(次官)を勤めていたんですが……三年前の冬に起きた、土着民の反乱で亡くなりました」
一日分の学習をやっと終えた子玖が、自身の一家の経緯を控えめな音量で語る。
———— 三年前の冬というと、初平四年(193年)か。
頭中で年表を合わせた広元は、思い至るや息を呑み込んだ。
———— 四年……《《あの》》年か!
初平四年から五年にかけて起きた一大事件、〈徐州大虐殺〉。
子玖の言う泰山郡での乱は、兗州牧・曹操の敢行した、悪名高いかの所業と時期が一致している。
「父の死後、ぼくの一家は叔父上を頼っていたんです。でも翌年の夏に」
「うん……」
翌、初平五年、夏。
前年に続いての二度目となる曹操の徐州攻撃が、今度は子玖一家の故郷、瑯琊から始まった。
しかもそれは尋常でない凄惨さを極めた、前例を見ぬ大殺戮だったのである。
———— 曹操軍は、兵だけでなく民から家畜に至るまで、徐州の生命一切を皆殺しにした……。
いくら戦乱世とはいえ、伝え聞く限りのそれは、あまりに行き過ぎた悪所業であった。
そうまでになった理由は、曹操の目的が領土拡大などではなく、彼自身の持つ凄まじい復讐心からであったためだとされている。
「瑯琊から出たぼくたちは、南へ向かいました。揚州の寿春県にいる、叔父上の知人だという袁術様を頼って逃げたんです。同じような人達が、本当にたくさんいました」
背筋の凍る状況を体験してきたはずであるのに、語る子玖の口調は比較的淡々としている。
体験年齢が幼すぎたからなのか。声にも顔色にも、さほどの悲壮色がみられない。
「寿春に着いてから、叔父上は豫章太守の任に就いたんですけど、間も無く戻ってきて。それから直ぐに一家で寿春を発って、この荊州に来ました」
「そうか……。ずいぶんと、長旅だったね」
瑯琊から寿春、そして宛。短期間に凄まじい距離移動だ。
———— まだ幼い身なのに。
ことさら平穏風に話す少年の様子を前に、広元には本心からのいたわりが湧く。
実は広元も過去、似たような経験をしていた。
住んでいた潁川郡(河南省中部)の擾乱から逃れるため、一家で荊州の襄陽に移住したのだ。
今の子玖と近い、十ニ歳の頃。
広元の事情を知らぬ子玖は、変わらず穏やかに継ぐ。
「瑯琊を出てからずっと旅続きでつらかったですけど……でも、家族と一緒でしたから」
健気な頬付き。
「宛に着いてから、ぼくの勉強は兄の諸葛瑾がいつもみてくれたんです。でも、ぼくは兄上と違って出来が良くないから、いつもがっかりさせてしまって」
子どもなりの苦笑を浮かべ、子玖は首筋を摩る。
「はは、そう。優秀な兄君なんだね」
聞けば、子玖が兄と呼んでいる、字を子瑜という諸葛瑾は、家系的には子玖の父、諸葛珪の兄の子で、早くに両親を失ったために諸葛珪が引き取った、家系的には子玖の従兄とのことだった。
子玖は歳の離れた諸葛瑾を、実の兄同様に慕っているようであるが、その諸葛瑾、今は宛にいないという。
「この秋に江東へ発ちました。友人がいるのだとかで、そちらで出仕するつもりだと言って」
「江東……」
最近になって度々耳にするようになった地域名に、広元は反応した。
「江東というと、江水(長江)の下流にある一帯だね」
「ご存知ですか! 兄が言うには、その江水って凄まじく巨大で、向こう岸が全然見えないんだそうです。まるで海のようだって」
広元は微少に笑みこぼす。
直に見たことはなくとも、郡国大生が江水についての基本を知らなかったら落第ものだろう。
この国第一の大河といえば、中原地帯を畝る河水(黄河)。
それに匹敵する規模とされるのが、南部の大地を東西に走る江水である。
荊州から遙か東方、その巨大河川の下流地域は、行政区分で言えば揚州にあたり、『江東六郡』とも呼ばれる。
「『江東の虎』が出てきたおかげで、最近あの辺りはだいぶ様相が変わったね」
「虎!? 江東に虎が出たんですか?」
「あ、いや、獣の方じゃなくて人の渾名だよ。孫堅って、江東出身の凄い勇士がいたんだ」
虎は古くから、権力と勇猛さの象徴としてされている獣の中の王。人々から憧れと同時に恐れられ、神格化されている。
北部に多く生息しているといわれるが、南方にもいるのだろう。
「孫堅の活躍で、江東江南地域は新興勢力になった。彼は五年前、襄陽で横死してしまったけどね」
「それは……。でもそんな渾名が付くなんて、凄まじく勇ましい方だったんですねえ」
想像力をいっぱいに働かせた画を、子玖は頭に描いている。実物の虎を目にすることは一般的にそうそうないから、知識や画でしか知らないのが普通だ。
もっとも、獣であれそれに例えられる人であれ、なるべく遭遇したくはない相手ではある。
「孫堅の死後は、嫡子の孫策が父親を凌ぐ勢いで領土拡大に邁進してると。人材登用にも熱心だと聞くし……それで子瑜どのは、江東に行ったのかもしれない」
子玖の従兄・諸葛瑾は、華北人でありながら、遠く南方の新天地に自身の未来を求めたのではないか。
詳しい事情はわからぬにせよ、勇気ある行動には違いなかった。
「信念のある従兄君なんだね。じゃあ、錫青の元主人は子瑜どのか。あの瑯琊の謡も、子瑜どのから教わった?」
子玖の次の返答に、ほんの少し間が空く。
「ええ。子瑜兄様はぼくより十二も歳上だし、凄く頭も良いから、きっと一人でもちゃんと生活してると思います」
そう話す子玖の声が、気のせいか、広元にはやや、くぐもっているように聴こえた。
<次回〜 第8話 「幾望月」>
【用語解説】
◆曹操:兗州牧。西暦196年、時の皇帝・献帝を保護し、都を許(潁川)に遷す。
◆徐州大虐殺:西暦193年、194年の2度にかけて断行された、曹操による徐州への侵攻。徐州民が徹底的に殺戮され、後世まで「曹操最悪の汚点」と評される。
◆袁術:後漢時代の名門袁氏一族出身の実力者。同族の袁紹と対立している。