表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

7/47

第7話 流浪の貴族

「父の諸葛(けい)は、泰山たいざん郡(山東省中部)のじょう(次官)を勤めていたんですが……三年前の冬に起きた、土着民の反乱で亡くなりました」 


 一日分の学習をやっと終えた子玖が、自身の一家の経緯を控えめな音量で語る。


 ———— 三年前の冬というと、初平四年(193年)か。


 頭中で年表を合わせた広元は、思い至るや息を呑み込んだ。


 ———— 四年……《《あの》》年か!


 初平四年から五年にかけて起きた一大事件、〈徐州大虐殺〉。

 子玖の言う泰山郡での乱は、兗州えんしゅうぼく曹操そうそうの敢行した、悪名高いかの所業と時期が一致している。


「父の死後、ぼくの一家は叔父上を頼っていたんです。でも翌年の夏に」

「うん……」


 翌、初平五年、夏。

 前年に続いての二度目となる曹操の徐州攻撃が、今度は子玖一家の故郷、瑯琊ろうやから始まった。

 しかもそれは尋常でない凄惨さを極めた、前例を見ぬ大殺戮(さつりく)だったのである。


 ———— 曹操軍は、兵だけでなく民から家畜に至るまで、徐州の生命一切を皆殺しにした……。


 いくら戦乱世とはいえ、伝え聞く限りのそれは、あまりに行き過ぎた悪所業であった。


 そうまでになった理由は、曹操の目的が領土拡大などではなく、彼自身の持つ凄まじい復讐心からであったためだとされている。


「瑯琊から出たぼくたちは、南へ向かいました。揚州の寿春県にいる、叔父上の知人だという袁術様を頼って逃げたんです。同じような人達が、本当にたくさんいました」


 背筋の凍る状況を体験してきたはずであるのに、語る子玖の口調は比較的淡々としている。

 体験年齢が幼すぎたからなのか。声にも顔色にも、さほどの悲壮色がみられない。


「寿春に着いてから、叔父上は豫章太守の任に就いたんですけど、間も無く戻ってきて。それから直ぐに一家で寿春を発って、この荊州に来ました」

「そうか……。ずいぶんと、長旅だったね」


 瑯琊から寿春、そして宛。短期間に凄まじい距離移動だ。


 ———— まだ幼い身なのに。


 ことさら平穏風に話す少年の様子を前に、広元には本心からのいたわりが湧く。


 実は広元も過去、似たような経験をしていた。

 住んでいた潁川えいせん郡(河南省中部)の擾乱じょうらんから逃れるため、一家で荊州の襄陽に移住したのだ。

 今の子玖と近い、十ニ歳の頃。


 広元の事情を知らぬ子玖は、変わらず穏やかに継ぐ。


「瑯琊を出てからずっと旅続きでつらかったですけど……でも、家族と一緒でしたから」


 健気な頬付き。


「宛に着いてから、ぼくの勉強は兄の諸葛(きん)がいつもみてくれたんです。でも、ぼくは兄上と違って出来が良くないから、いつもがっかりさせてしまって」


 子どもなりの苦笑を浮かべ、子玖は首筋を摩る。


「はは、そう。優秀な兄君なんだね」


 聞けば、子玖が兄と呼んでいる、あざな子瑜しゆという諸葛(きん)は、家系的には子玖の父、諸葛珪の兄の子で、早くに両親を失ったために諸葛珪が引き取った、家系的には子玖の従兄とのことだった。


 子玖は歳の離れた諸葛瑾を、実の兄同様に慕っているようであるが、その諸葛瑾、今は宛にいないという。


「この秋に江東へ発ちました。友人がいるのだとかで、そちらで出仕するつもりだと言って」

「江東……」


 最近になって度々耳にするようになった地域名に、広元は反応した。


「江東というと、江水こうすい(長江)の下流にある一帯だね」

「ご存知ですか! 兄が言うには、その江水って凄まじく巨大で、向こう岸が全然見えないんだそうです。まるで海のようだって」


 広元は微少に笑みこぼす。

 直に見たことはなくとも、郡国大生が江水についての基本を知らなかったら落第ものだろう。


 この国第一の大河といえば、中原地帯をうね河水かすい(黄河)。

 それに匹敵する規模とされるのが、南部の大地を東西に走る江水である。

 

 荊州から遙か東方、その巨大河川の下流地域は、行政区分で言えば揚州にあたり、『江東六郡』とも呼ばれる。


「『江東の虎』が出てきたおかげで、最近あの辺りはだいぶ様相が変わったね」

「虎!? 江東に虎が出たんですか?」

「あ、いや、獣の方じゃなくて人の渾名あだなだよ。孫堅そんけんって、江東出身の凄い勇士がいたんだ」


 虎は古くから、権力と勇猛さの象徴としてされている獣の中の王。人々から憧れと同時に恐れられ、神格化されている。

 北部に多く生息しているといわれるが、南方にもいるのだろう。


「孫堅の活躍で、江東江南地域は新興勢力になった。彼は五年前、襄陽で横死してしまったけどね」

「それは……。でもそんな渾名が付くなんて、凄まじく勇ましい方だったんですねえ」


 想像力をいっぱいに働かせた画を、子玖は頭に描いている。実物の虎を目にすることは一般的にそうそうないから、知識や画でしか知らないのが普通だ。

 もっとも、獣であれそれに例えられる人であれ、なるべく遭遇したくはない相手ではある。


「孫堅の死後は、嫡子ちゃくし孫策そんさくが父親をしのぐ勢いで領土拡大に邁進まいしんしてると。人材登用にも熱心だと聞くし……それで子瑜どのは、江東に行ったのかもしれない」


 子玖の従兄あに・諸葛瑾は、華北人でありながら、遠く南方の新天地に自身の未来を求めたのではないか。

 詳しい事情はわからぬにせよ、勇気ある行動には違いなかった。


「信念のある従兄君なんだね。じゃあ、錫青せきせいの元主人は子瑜どのか。あの瑯琊の謡も、子瑜どのから教わった?」


 子玖の次の返答に、ほんの少し間が空く。


「ええ。子瑜兄様はぼくより十二も歳上だし、凄く頭も良いから、きっと一人でもちゃんと生活してると思います」


 そう話す子玖の声が、気のせいか、広元にはやや、くぐもっているように聴こえた。



<次回〜 第8話 「幾望きぼう月」>

【用語解説】

◆曹操:兗州牧。西暦196年、時の皇帝・献帝を保護し、都を許(潁川)に遷す。

◆徐州大虐殺:西暦193年、194年の2度にかけて断行された、曹操による徐州への侵攻。徐州民が徹底的に殺戮され、後世まで「曹操最悪の汚点」と評される。

◆袁術:後漢時代の名門袁氏一族出身の実力者。同族の袁紹と対立している。

評価をするにはログインしてください。
この作品をシェア
Twitter LINEで送る
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ