第68話 異郷の琴夜〈1〉
―――― 琴……?
牀台上で目を覚ました珖明は、横になった姿勢に届くその音色に耳を傾けた。
しめやかな音は、昼間の賊乱騒ぎを沈め込ませようとしているかのように、邸内の隅々までを満たしている。
ここは県庁舎に併設される周瑜邸の一室。珖明の休息のためにと、周瑜が当てがった室である。
日中、他の負傷者と合わせて珖明の腕の手当をした軍医は、疲労の汗を拭いながら診断を語った。
「幸い骨に損傷はなく、箭に毒も塗られていなかったと思われます。ですが手入れのされていないものだったのでしょうな、鏃の質が悪く、瘡口が酷く荒い。これは引き抜いたときにも相当に痛んだでしょう。よく……」
言いながら医者は、直視を避けつつ患者の反応を探る。
その患者の際立って見目よい外貌も、当然ながら血色は悪い。
しかし面様はといえば、単に我慢強いのか、もしくは痛覚が極端に鈍いのか、眉ひとつ動かさず、治療中もその箇所をじっと凝視し続け、相応の痛みを伴うはずの処置にも、一切声を発しなかった。
治療側としては対応しやすいものの、こうなると感心というより、返って多少気味悪さも感じるところである。
「……膏薬を都度施し、当て布も毎日お取り替えを。瘡口の大きさの割に出血も多かったようなので、しばらくはご無理なさらぬようにしてください。すでに少し発熱しておられますし、高熱が出るやも知れません」
その診たてを耳にした周瑜が、
「今宵は医者も居合わせるここで休むとよい」
と、治療を終えて帰路に着こうとした珖明を強く引き留めたのである。
「子敬(魯粛)へは使いを送って知らせてある。気兼ねはいらぬぞ」
「……」
何か気に入らぬのか、珖明は周瑜の配慮に対し、ありがたそうな気色も見せず、黙ったままである。
相変わらずの無愛嬌さ。それでも周瑜は不快感を出さない。昼の経験で『この相手には苛ついても無駄』と学んだのだ。
「賊への加勢がためにそなたまで重篤になったとあっては、《《相方どの》》に申し訳が立たんからな」
本気か冷やかしか、広元を引き合いに出して、周瑜は口角を上げる。
無邪気ともとれる態に降参した珖明は、匿笑した。
「お心遣い、有難く。では、ご厚意に甘えさせて頂きます」
やっと礼を述べた。
周瑜のお仕着せ感はあれど、医者の見立ては正しかったらしい。
診察直後から、珖明は楽に起き上がれぬ程度に発熱した。
半刻あまりうなされながらいつしか眠りにつき、月が光を放ち始めたころ、邸を満たす琴の音で、目覚めたのである。
◇◇◇
奏に惹かれ、珖明は衾褥(夜具)から半身を起こした。
首筋に手を当てる。
熱はだいぶん下がっていたが、気怠さに加え、頭痛がいくらか残っている。
―――― どこで弾いているか……遠くはなさそうだが。
体の不調よりも、珖明は琴音を優先した。
弾き手は誰であろう。
かなり卓越な技術を想わせるその奏は、上質で耳に心地よい。
牀台から足を降ろした珖明は、音のする方へ誘われるまま歩を運んだ。
季節は仲秋の八月末。
襄陽のそれと大差ないであろうこの時期の涼やかな空気が、歩廊を歩く珖明の肌を柔らかく包む。
やがて珖明は、琴音が最も近くなった場所 ―― 奏者のいる間に至った。
外との扉が放たれた広間の中央、琴を前にひとり、男が坐している。
「……」
珖明の注ぐ静やかな眼差しの先。
弦の上を流れ滑る指から、珖明を引き寄せる風雅を生み出しているのは、邸の主人……周瑜。
◇◇◇
文化人の嗜みとされる琴の歴史は古い。
楽(音楽)は政治の重要要素である祭祀に不可欠であり、楽に通じることは高い教養の証である。
漢王朝が国教とした儒教の思想から、数多の楽器中でも琴は儒者に最も尊ばれ、士大夫(知識人階級)たる者は、身につけることが重要視されていた。
単に音を楽しむといった道具ではなく、内面精神を表す手段として確立していたのである。
歩廊に立つ珖明は、周瑜がかき撫でている琴を視一視した。
―――― 七弦琴。
七弦琴は、士大夫内で広く流通している楽器だ。
桐胴長さは三尺七寸(約110cm)ほど。七本の弦を左手で押え、右手で弾いて奏でる。
周瑜の手中のものは、弾き手に相応しく、表面に見事な漆塗りが施されていた。
平衣姿の周瑜は、目を伏せた全身を曲に委ね、まさしく琴と自身を一体化させている。
珖明は呂律(音階・音律)に、より深く耳を傾けた。
―――― ……雅(伝統的な祭祀音楽)の部類のようだ。
周瑜の奏している曲は、礼楽(儒教思想からくる音楽)に沿った、古風で硬い楽。
漢屈指の名門貴公子育ちである、彼らしい演奏だ。
それでも南方風土の影響からか、どことなく明るい開放感が見え隠れしている。
『演奏者としての公瑾どのは、武勇面以上の美しさですぞ』
魯粛がそう賛辞を述べていたのを珖明は思い出す。
正統派の剣技が見事と周囲から称されている周瑜が、楽にも人一倍長けている、という周囲の評価は、どうやら真実のようだ。
――――『瑜』も『瑾』も、〈美しい珠〉という意だったか。
周瑜の諱と字に使われている文字。
名家でさぞ慈しみ育てられたであろう彼は、名に劣らぬ美貌と才質に恵まれた青年に成長した。
本来なら、家系代々の栄光を継いで中央高官に昇り、漢を支える英傑となる人生を約束されていたに違いない。
……董卓による、周氏への暴虐災禍さえなければ。
周瑜の指の動きが、それまでの穏やかな調べから次第に速さを増していく。
高まる曲調……弦を激しく震わせ昇りつめていく琴線は、周瑜が抱えている奥底の情熱を語っているのか。
そして迎えた頂点、琴の弦声は射放たれた鏑矢(合戦開始合図の音矢)さながらに、強く高く弾き上がった!
……終焉。
余韻の響が、邸内に長い谺を呼ぶ。
……
奏じ終えた周瑜は、ひとつの事を成し遂げた大息を吐いた。
そこで初めて訪問者に気付き、驚いた眸を上げる。
「何をしてる、今宵は休んでいろと……いや、この音で起こしてしまったか」
珖明は首を左右に振り、唇を弧にする。
「熱は下がりました。琴音はむしろ薬効で」
室内に歩を進め、周瑜の対面に腰をおろした。
「周郎の楽才は抜きん出る、そう魯子敬どのから聞いておりましたが……真ですね。驚きました」
これは世辞ではない。
「そうか? 本来は琵琶の方が得手なのだが」
謙遜の脇で何気に自慢を含ませるあたり、周瑜らしい可愛げが見える。
「琴は弾るのか?」
優越感を感じたのか、周瑜は機嫌良く尋ねた。
楽について、周瑜は特に絶対的自信を持っている。
「いいえ」
珖明の控えめな返し。
「幼少の頃、その時期たまたま泰山郡に滞在していた琴名手と言われる方に、ほんの一時手習いを受けた経験があるだけで、それきり久しく触れておりません。いつか腕を上げたいと願ってはいるのですが」
いつになく素直な相手の姿勢に、周瑜はますます嬉色になる。
「ほほう、最初の師は泰山の名手か。泰山で高名な方だったのか?」
珖明は視線を遠い記憶に遡り仰げた。
「泰山の方ではなく……当時京師(都)から亡命中の名士で、泰山郡の羊氏を頼っておられたとか」
「羊氏か。泰山の有力豪族だな」
「師とはそれきりでしたが、その後まもなく京師に戻られたそうです。なれどその京師で……お気の毒にも、不遇に死されたと聞き及んでおります」
「不遇とは」
「獄死させられたと。……王允の命で」
「王允だと?」
周瑜は眼を見開き、次に唇を引き締めた。
羊氏、さらに王允の名から、珖明の初師範が誰なのかを察したのだ。
<次回〜 第69話「異郷の琴夜〈2〉」>
【用語説明】
◆礼楽:儒教思想において、社会秩序と人心教化の根本原理とされた「礼」「楽」二つの要素を組み合わせた概念。
◆羊氏:泰山郡を本貫とする、漢代から唐代にかけて約500年間にわたり繁栄した名門貴族。
◆王允:中国後漢末期の政治家。呂布と共謀して董卓を殺害したが、その部下に逆襲されて殺害された。




