表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
68/69

第68話  異郷の琴夜〈1〉

 ―――― きん……?


 牀台上で目を覚ました珖明は、横になった姿勢に届くその音色に耳を傾けた。


 しめやかなは、昼間の賊乱騒ぎを沈め込ませようとしているかのように、邸内の隅々までを満たしている。


 ここは県庁舎に併設される周瑜邸の一室。珖明の休息のためにと、周瑜が当てがった室である。


 日中、他の負傷者と合わせて珖明の腕の手当をした軍医は、疲労の汗を拭いながら診断を語った。


「幸い骨に損傷はなく、に毒も塗られていなかったと思われます。ですが手入れのされていないものだったのでしょうな、やじりの質が悪く、瘡口が酷く荒い。これは引き抜いたときにも相当に痛んだでしょう。よく……」


 言いながら医者は、直視を避けつつ患者の反応を探る。


 その患者の際立って見目よい外貌も、当然ながら血色は悪い。

 しかし面様おもようはといえば、単に我慢強いのか、もしくは痛覚が極端に鈍いのか、眉ひとつ動かさず、治療中もその箇所をじっと凝視し続け、相応の痛みを伴うはずの処置にも、一切声を発しなかった。


 治療側としては対応しやすいものの、こうなると感心というより、返って多少気味悪さも感じるところである。


「……膏薬こうやくを都度施し、当て布も毎日お取り替えを。瘡口の大きさの割に出血も多かったようなので、しばらくはご無理なさらぬようにしてください。すでに少し発熱しておられますし、高熱が出るやも知れません」


 そのたてを耳にした周瑜が、


「今宵は医者も居合わせるここで休むとよい」


 と、治療を終えて帰路に着こうとした珖明を強く引き留めたのである。


子敬しけい魯粛ろしゅく)へは使いを送って知らせてある。気兼ねはいらぬぞ」

「……」


 何か気に入らぬのか、珖明は周瑜の配慮に対し、ありがたそうな気色も見せず、黙ったままである。


 相変わらずの無愛嬌さ。それでも周瑜は不快感を出さない。昼の経験で『この相手にはいらついても無駄』と学んだのだ。


「賊への加勢がためにそなたまで重篤になったとあっては、《《相方どの》》に申し訳が立たんからな」


 本気か冷やかしか、広元を引き合いに出して、周瑜は口角を上げる。

 無邪気ともとれるていに降参した珖明は、匿笑とくしょうした。


「お心遣い、有難く。では、ご厚意に甘えさせて頂きます」


 やっと礼を述べた。


 周瑜のお仕着せ感はあれど、医者の見立ては正しかったらしい。

 診察直後から、珖明は楽に起き上がれぬ程度に発熱した。

 半刻あまりうなされながらいつしか眠りにつき、月が光を放ち始めたころ、邸を満たすきんの音で、目覚めたのである。


◇◇◇


 そうかれ、珖明は衾褥きんじょく(夜具)から半身を起こした。


 首筋に手を当てる。

 熱はだいぶん下がっていたが、気怠けだるさに加え、頭痛がいくらか残っている。


 ―――― どこで弾いているか……遠くはなさそうだが。


 体の不調よりも、珖明は琴音を優先した。


 弾き手は誰であろう。

 かなり卓越な技術を想わせるそのかなでは、上質で耳に心地よい。 


 牀台から足を降ろした珖明は、音のする方へ誘われるまま歩を運んだ。


 季節は仲秋の八月末。

 襄陽のそれと大差ないであろうこの時期の涼やかな空気が、歩廊を歩く珖明の肌を柔らかく包む。


 やがて珖明は、琴音が最も近くなった場所 ―― 奏者のいる間に至った。

 外との扉が放たれた広間の中央、琴を前にひとり、男が坐している。


「……」


 珖明の注ぐ静やかな眼差しの先。

 弦の上を流れ滑る指から、珖明を引き寄せる風雅を生み出しているのは、邸の主人……周瑜。


◇◇◇


 文化人のたしなみとされる琴の歴史は古い。

 がく(音楽)は政治の重要要素である祭祀に不可欠であり、楽に通じることは高い教養の証である。


 漢王朝が国教とした儒教の思想から、数多の楽器中でも琴は儒者に最も尊ばれ、士大夫したいふ(知識人階級)たる者は、身につけることが重要視されていた。


 単に音を楽しむといった道具ではなく、内面精神を表す手段として確立していたのである。


 歩廊に立つ珖明は、周瑜がかき撫でている琴を視一視しいっしした。


 ―――― 七弦琴しちげんこん


 七弦琴は、士大夫内で広く流通している楽器だ。

 桐胴長さは三尺七寸(約110cm)ほど。七本の弦を左手で押え、右手で弾いて奏でる。


 周瑜の手中のものは、弾き手に相応しく、表面に見事なうるし塗りが施されていた。

 平衣へいい姿の周瑜は、目を伏せた全身を曲に委ね、まさしく琴と自身を一体化させている。


 珖明は呂律りょりつ(音階・音律)に、より深く耳を傾けた。


 ―――― ……(伝統的な祭祀音楽)の部類のようだ。


 周瑜の奏している曲は、礼楽れいがく(儒教思想からくる音楽)に沿った、古風で硬い楽。

 漢屈指の名門貴公子育ちである、彼らしい演奏だ。

 それでも南方風土の影響からか、どことなく明るい開放感が見え隠れしている。


『演奏者としての公瑾どのは、武勇面以上の美しさですぞ』


 魯粛がそう賛辞を述べていたのを珖明は思い出す。

 正統派の剣技が見事と周囲から称されている周瑜が、楽にも人一倍長けている、という周囲の評価は、どうやら真実のようだ。


 ――――『瑜』も『瑾』も、〈美しい珠〉という意だったか。


 周瑜のいみなあざなに使われている文字。

 名家でさぞ慈しみ育てられたであろう彼は、名に劣らぬ美貌と才質に恵まれた青年に成長した。


 本来なら、家系代々の栄光を継いで中央高官に昇り、漢を支える英傑となる人生を約束されていたに違いない。


 ……董卓とうたくによる、周氏への暴虐災禍さえなければ。


 周瑜の指の動きが、それまでの穏やかな調べから次第に速さを増していく。

 高まる曲調……弦を激しく震わせ昇りつめていく琴線は、周瑜が抱えている奥底の情熱を語っているのか。


 そして迎えた頂点、琴の弦声は射放たれた鏑矢かぶらや(合戦開始合図の音矢)さながらに、強く高く弾き上がった!


 ……終焉。

 余韻の響が、邸内に長いこだまを呼ぶ。

 ……


 奏じ終えた周瑜は、ひとつの事を成し遂げた大息を吐いた。

 そこで初めて訪問者に気付き、驚いた眸を上げる。


「何をしてる、今宵は休んでいろと……いや、この音で起こしてしまったか」


 珖明は首を左右に振り、唇を弧にする。


「熱は下がりました。琴音はむしろ薬効で」


 室内に歩を進め、周瑜の対面に腰をおろした。


「周郎の楽才は抜きん出る、そう魯子敬どのから聞いておりましたが……まことですね。驚きました」


 これは世辞ではない。


「そうか? 本来は琵琶びわの方が得手えてなのだが」


 謙遜の脇で何気に自慢を含ませるあたり、周瑜らしい可愛げが見える。


「琴はるのか?」


 優越感を感じたのか、周瑜は機嫌良く尋ねた。

 楽について、周瑜は特に絶対的自信を持っている。


「いいえ」


 珖明の控えめな返し。


「幼少の頃、その時期たまたま泰山郡に滞在していた琴名手と言われる方に、ほんの一時手習いを受けた経験があるだけで、それきり久しく触れておりません。いつか腕を上げたいと願ってはいるのですが」


 いつになく素直な相手の姿勢に、周瑜はますます嬉色になる。


「ほほう、最初の師は泰山の名手か。泰山で高名な方だったのか?」


 珖明は視線を遠い記憶にたどり仰げた。


「泰山の方ではなく……当時京師(けいし)(都)から亡命中の名士で、泰山郡のよう氏を頼っておられたとか」

「羊氏か。泰山の有力豪族だな」

「師とはそれきりでしたが、その後まもなく京師に戻られたそうです。なれどその京師で……お気の毒にも、不遇に死されたと聞き及んでおります」

「不遇とは」

「獄死させられたと。……王允おういんの命で」

「王允だと?」


 周瑜は眼を見開き、次に唇を引き締めた。

 羊氏、さらに王允の名から、珖明の初師範が誰なのかを察したのだ。



<次回〜 第69話「異郷の琴夜〈2〉」>

【用語説明】

礼楽(らいがく):儒教思想において、社会秩序と人心教化の根本原理とされた「礼」「楽」二つの要素を組み合わせた概念。

(よう)氏:泰山郡を本貫とする、漢代から唐代にかけて約500年間にわたり繁栄した名門貴族。

王允(おういん):中国後漢末期の政治家。呂布と共謀して董卓を殺害したが、その部下に逆襲されて殺害された。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ