第67話 語られぬ姓名
「あなたは……市の列肆で、周県長と一緒におられた方ですね」
伯言は即時に認識した。
あの折、周瑜と共に部下とは違う毛色の青年二名。紹介された者はその内のひとりだ。
見間違えはない。若年からの一見でも、充分記憶に刷り込まれる美形さであった。
ただこの場では、その右袖がかなり大きな、麗姿におよそ似合わぬ物騒な色の染みに、汚されていることにも目がいく。
その血はいったい……?
困惑気に眉根を寄せている伯言に、周瑜が説明する。
「珖明は先ほど、腕に手箭瘡を負ったらしい」
「手箭瘡……!?」
思わず声が大になった。
精舎内の賊二名を斃したのは目前のこの白皙青年なのだ、という経緯をくみ取ったのだ。
「……」
伯言は息をひとつ飲み込むと、怪我人に気遣う言葉をかけた。
「それはご不運でした。だいぶん出血しているご様子ですが」
口調は平静さを装いつつも、相手の見目と精舎内で起きた事象との差異に、戸惑いは隠せないでいる。
武の色など欠片も見えぬこの人が、本当に賊二名を殺ったと……?
当の美麗な怪我人は、ほんのりと笑み返した。
「お気遣い痛み入ります。応急処置はしてありますから。ご心配には及びません」
「そうですか、ならばまずは……何よりです」
珖明の声色は、袖の汚れから推し測れる瘡を負っているにしては、不自然なほど飄々としている。
もしかしたら袖の血量、本人のものだけではないのかも知れない、と伯言は思い付いた。
精舎に踏み込んだとき、転がっている二体がすでに屍だと、伯言は一瞥で断じた。
なれど同時的にした外からの不穏気配に応じ、すぐに精舎外へ飛び出してしまったために、詳細状態までは確認していなかったのだ。
血染みが、もし賊のものならば。
―――― といって、それはそれで想像しづらい。
むろん、外見と刀技が釣り合うとは限らないが……。
盛んな思惟を伯言が駆使している中、珖明が唐突に。
「ところで伯言どの。盧江へは此度が初めてですか?」
およそこの場と直接には関連のないような問を振ってきた。
「? あ、いえ――」
即答しようとして、伯言は寸後ことばを止める。
「……」
質問者の静やかさに反した緊張が、彼の心内を走る。
うわべ平凡なその問い掛けが、実は己にとって、ある重要な指摘をもたらすものかも知れないと発想したのだ。
意図を勘ぐり、彼は返答を逡巡した。
と、助け舟を出したのは問主側。
「これは不躾でしたか。申し訳ない」
軽く詫び姿勢を示し、珖明はより和らいだ目顔で、些末事といったふうに語る。
「呉の人と聞いた割に、伯言どのの語り口にはあちら特有の色が薄い気がして、ついお聞きしただけなのですよ」
「……!」
伯言の胸襟が再度、驚きに揺れた。
中原から遠く離れた地、特に多くの異民族が住まう広大な江水以南地域では、漢の通語(標準語)も普及しているとはいえ、やはり東南諸方言が多い。
揚州間であっても通じにくいことは頻繁であるし、会話が成り立ったとて、発音の不一致はまず隠せないものである。
にもかかわらず、伯言の音吐が、この辺りのそれに対してほとんど違和がないということを、珖明は先日、ないしはここでの短い会話だけで気付いた。
……そう、言っているのだ。
「考えてみれば、呉も廬江と同じ揚州の地。何がしかの深い縁や覚えがあったとしても、不思議はないですね」
「……」
さらり流す口振りからは、特段別意を含んでいるようには感じられない。
……単に、耳がよいのか。
―――― ……違う。
手箭瘡のことも相まって、伯言はこの美貌主がどうも、ただひとでなさそうな印象を持った。
少年の深掘りに気付いたのかどうか、珖明は補いを以て会話を締める。
「お気にせず。わたしの勝手な感想なだけでしたから」
「……」
あくまで穏やかな姿勢に対し、ここでどう答えるべきか。
まさかの発音のことまで指摘されてしまったために、伯言は簡易な発声さえ塞がれた心緒を抱える。
そんなふたりの奇妙な間合いを切ったのは、やり取りを眺めていた周瑜だ。
「さて、ここの後始末はこちらでするとして。どうであろう、伯言どの」
話題を変えた上で、敢えて申し入れの語り口。
「これから珖明を、腕治療のために庁舎まで連れて行くのだが……よければ共に、庁舎に参ってはくれぬかな」
「……!?」
伯言は、先ほどより連続させられている喫驚顔を、今度は周瑜に当てた。
周瑜の目顔は柔らかい。なれど眼光に、確と力がある。
「あらためて、賊討伐加勢の礼もしたいゆえな」
伯言の感取は正解である。
周瑜の申し出には、感謝以外の念いがあったのだ。
高価品である馬を所有し旅をする庶民など、そもそも少ない。
その上に、賊相手に振るっていた伯言の刀も実は相当な名刀品であることを、刃合わせの一瞬で、周瑜は見抜いていた。
賊との乱場に居合わせた経緯も含め、この大人びた少年について、周瑜は確かめたい事項がある。
……
「県長様」
しばし間をとった伯言は、畏まった態に背をただした。
「卑賤のわたくしごときに、至極勿体なき御言葉です」
続いていた驚きを伯言は自身に収めている。周瑜からの申し出で、返って己のすべき対応を取り戻した形だ。年端に見合わぬ落ち着きで、目上の高官に応じた。
「ですが、湊に人を待たせております。病の親族のためにも、早急に帰着に発たねばなりません。どうかご無礼をお許しいただき、わたしはこの場で失礼を願いたく存じます」
詫び、深々と叉手(丁寧なお辞儀)を示した。
傍にいた周瑜の部下が瞠目する。
口振り自体は丁寧であれ、命令と同等である県長直々の慫めを、一般人、まして子どものような若輩者が断るとは、どういう了見か。
もちろん周瑜とて、同感想を持った。だがそれ以上に、本筋目的を得られないことの方が重要だ。
「伯言 ――」
なおも言いかけ……だが、そこで引いた。
少年の態度は決して無体なものではない。しかもここは、無理強いしてはならぬ気がする……。
「……そうか。残念だが仕方ないな。ともあれ民を守ってくれたことは、心より感謝する」
咎めることなく、勇敢な少年へと礼姿勢を表す。
「いつかまた会える事を願う。……故に聞かせてくれ」
周瑜は、それまでより厳しい視線で伯言を見据えた。
「貴君の姓は、何という」
伯言の眸が引き締まった。
「……」
此度はさすがに、避けられぬ空気。
伯言は目端で珖明を瞥る。
なるほど。先刻の吾への振りは、このための前座であったのか。……
伯言は再び真っ直ぐな拱手姿勢をとる。細く鋭利な眼元に力を込め、答えた。
「姓は陸、名は議。わたしは呉県の、陸議と申します」
―――― 呉の、陸氏。
その名乗りに、周瑜とそして珖明のふたりだけが、眼に緊張の光を宿らせた。
『陸』姓。
廬江ではそれだけで、その者がある重大過去を背負っている可能性を示唆している。
少年がこれまで姓を秘した理由は、おそらくそこにあったのだろう。
……
「陸……伯言どのか。憶えておくぞ」
おもむろに、一度だけ周瑜は頷いた。
伯言に向けられている眼の力強さは変えていないが、名乗りを求めた先ほどのような威圧感は消されている。
「飢饉により、東は治安が酷く悪い。呉は遠方、気を付けて行かれよ。まこと、道中の無事を願っている」
「恐れ入ります」
周瑜の別辞に少年は丁寧な辞去の礼をすると、騎乗し、江水方面へと去って行った。
太陽が影を東に伸びばし始めている。
朝から激動であったこの日も、夕刻をむかえる準備にさしかかっていた。
血跡が生々しく残る周瑜達の足元を清風が撫で、草原の揺れ波を描いてゆく。
土は人血を己にまぶし込み、草葉を染めた朱も、すぐに乾いてしまうだろう。
長いこと伯言の背姿を見送っていた周瑜は、やがて小さく嘆息すると、この場の処理指示を迅速に済ませ、珖明を連れて帰城途についた。
◇◇◇
―――― 陸議……あの陸康の一族だったか。
帰城の馬上で、周瑜は勘案を巡らせていた。
陸氏は、呉の四姓(朱・張・顧・陸)と呼ばれる、江東では最有力豪族の中のひとつである。
三年弱の前、当時の廬江太守であった陸氏当主・陸康は、袁術の命を受けた武将によって城を攻め落とされた。
敗れた一族は離散し、飢えに晒され、半数以上が死したという非業の氏だ。
そして……彼らを壊滅させた袁術側の武将が、他ならぬ孫策であった。
対陸康の戦に、周瑜は参加していない。
しかし現在、周瑜は陸康一族を討った張本人、孫策の最大協力者なのは周知の事実なのだ。
陸議が陸康に近い身内だとしたら。いやそれどころか、陸康と共に廬江に住んでいた可能性もある。
であれば、珖明の指摘した発音の由縁につながるではないか。
もし仮に、そうだとして。
―――― なぜ、呉から遐い、しかもわざわざ我の赴任している今、居巣を訪れたのか。
陸氏にとっては最大仇敵の同盟者である周瑜。
その男が眼前に現れたと知ってもなお、何ら語ることなく、此度のような対応をした陸議の意図は、何なのか。
「……」
城までの道中、周瑜の瞼裏からは、陸議少年の影が、いつまでも消えなかった。
……
呉郡の陸議、のちに諱を「遜」と改める彼のこのときの意を、周瑜は数年後に知ることになる。
陸遜、字・伯言。
三国鼎立の一角となる呉国に生き、三国の均衡に大きな波紋を及ぼすことになる陸遜は、このとき周瑜と珖明の前で、瀕死一族を抱えるまだ年端十五の、無名の少年であった。
<次回〜 第68話「異郷の琴夜〈1〉」>
【用語解説】
◆陸康:廬江太守。孫策との間に軋轢があり、袁術配下だった孫策に敗れた後、病に斃れ死去した。




