第66話 手箭瘡(てやきず)
片膝を地につけた姿勢の珖明は、野犬の眼光に真っ直ぐ臨んでいた。
明白な緊迫場面。にもかかわらず、珖明の気には、獣への怯えといったものがまったく存在していない。
むしろその貌は、深い凪に満たされているようにさえ見える。
だが対向側は違った。
唾液を垂らす長い舌を揺らし、高まる野性に比例して、呼気を荒げている。
唸りの響きが濁りを増した。
突っ張って伸ばした前脚の中に頭を沈め、攻撃の最終準備体制をとった次の間、黒野犬は正対者目掛け、後肢を蹴った!
〝 ギャン!〟
上がった甲高い悲鳴、と同時の一連は瞬きひとつの間で起きた。
珖明に向かい跳びかかったはずの黒犬の体が、一転、導線に対して直角方向に弾き飛ぶ。
ザン、と地に落ちた場所で薙ぎ倒された草音。
樹々上部から中型の一羽の鳥が、枝葉を揺らせ上空へ発つ。
……
一区切り、動きが静まった。風に揺られた草が、サワサワと音を奏でる。
珖明の眼が、ほど近い草間に消えた犬を追った。
地に横たわる黒い躰の首付け根あたりに、貫通した一本の矢が立っている。
だらりと舌を出した大きな体躯はひくひくと、断末魔の短い息に震えていた。
「……」
珖明は屈み姿のまま、犬とは真逆、矢が発射された方向に目線を移す。
そこには、機先の矢を放った弓を手にした、周瑜。
「珖明!」
大股に歩み寄って来た周瑜が、責め含みの声をあげる。
「どういうつもりだ。犬とは言っても野生、獰猛獣だぞ」
「……」
珖明はいったん上げた周瑜への視線を、自身の右手数歩先の地に動かなくなった躰へと、もう一度落とした。
すう、と立ち上がりそちらに歩むと、こと切れたまだ温かい死骸を前に膝を付き、固化した頭部にそっと掌を添える。
その不可解な行動に、周瑜は意になく慍っとしてしまった。
あわやを救ってやったというのに、何やらこちらが非を受けているような奇妙な感覚ではないか。
「珖 ――」
不満を重ねようとしたときだ。
周瑜は犬の頭に差し出されている珖明の右手首に伝う、血筋数本をとらえた。
「!?」
抗議を忘れ、すかさず細白い手首を掴む。
「まさか、噛まれたのか!?」
動物の犠牲になる人命例は、江東地域に限らず少なくない。
虎や熊級の野獣がその場の一撃で人を殺めてしまうのに対し、それほどの牙を持たぬ中型以下の動物達は、与えた咬傷(咬み傷)から発症させる〈謎の病〉で人を殺す。
特に、猟・防犯・戦闘・食用としても人に近い存在である、犬による犠牲は顕著だ。
対人だけでなく馬や牛への被害も多い。まさに致命傷たる危険な攻撃であった。
「違います。この瘡は、犬とは関係ありません」
動揺を現す周瑜に、珖明の平淡な声音。相手を落ち着かせようとしている。
「賊の片割れが手箭(手で投げる矢。近距離戦の武器)打ちの手練れあったようです。闇がりで少々、目測を誤りました」
「手箭だと……?」
珖明の手首を取ったまま、周瑜は起きた事態を頭中で整理する。
『賊』とは、精舎内で骸となっている二名のことであろう。少女の言った『賊を倒した者』は、周瑜が発想した通り、珖明だったのだ。
そして此度は珖明も、己の仕業であることをはぐらかす気はないようである。
珖明の右下腕辺りの袖には、少量とはいえぬ血染みが広がっていた。
周瑜は袖をめくって確かめる。箭の抜かれた箇所には、簡易な止血布が巻かれている。……本人で処置したのか。
ひとまず安堵した周瑜だったが、すぐ渋面に変える。
怪我人の顔色からして、瘡自体は深手でなさそうか。とはいえ袖を染めた血量からすれば、軽傷でもないだろう。
それに……。
「来たまえ」
周瑜は珖明の左肘を掴み、無理やり立ち上がらせた。
「県庁舎に刃瘡治療に長けた軍医が詰めている。この騒ぎですでに怪我人を診ているだろう」
言うや、片手で珖明を引っ張るようにして歩き出した。
途中、木立に繋いであった二頭の馬の手綱を解き、もう片方の手に取って、同じく引いて行く。
「周県長」
有無を言わさず引き進む周瑜に、珖明が冷めた声をかける。
「懸念には及びません。毒矢ではない」
周瑜は歩を止めぬまま、横目でじろりと珖明を眄た。
「どうして、そうと言い切れる」
毒には多々種類がある。
武具に使う毒が、鳥兜(トリカブト)といった即効系を求めるのは当然ながら、実際は必ずしもそういう類ばかりとは限らなかった。猛毒であればあるほど、扱いが難しいからだ。
使用量を注意深く加減することで、生薬利用をされているものもある。また、時間を置いて効果を発生する遅効性毒物もあった。
祖郎軍がどのようなものを利用しているかは、わからないないのだ。
珖明は口を閉ざす。
それでもその口もとが、まだ余裕を含んでいる態に周瑜には映った。
「……」
歩を進めながら、周瑜は己がやや苛立っていることに気付いている。
……何故か。
―――― 危機という概念が、こやつにはないのか。
犬の件といい、手箭の件といい。
危殆事態に面する珖明の平然に過ぎる態度は、どうにも、周瑜の癇に障るのだ。
◇◇◇
精舎前に待たせていた部下と呉の少年の場に戻ってきた周瑜は、引いてきた二頭の馬を少年の前に寄せた。
「伯言。一頭はもしや、そなたの馬か?」
『伯言』とは、つい先刻名を尋ねた周瑜に対する、少年の返答である。
伯言は字と思われたが、少年が答えたのはそれのみ。
つまり少年は大胆にも、県長である周瑜に対して、通常ならば名乗るべき〈姓名〉を口にしなかったわけだ。
何かしらの訳合いがある……周瑜はそう推知しつつ、敢えて追求をしていなかった。
馬について諾した伯言に周瑜は馬手綱を引き渡すと、珖明を隣に連れ寄せ、引き合わせる。
「この少年は伯言。外の賊を独りで倒した、若いながらなかなかの腕利きだ。伯言、こちらは諸葛珖明という」
紹介され拱手し合った直後、伯言は相手に目を見開いた。
「あなたは……」
<次回〜 第67話「語られぬ姓名」>




