第64話 賊乱〈1〉
広元達との宴を終えたその夜。
県長邸は、初冬らしい冷え込みと静寂に包まれている。
周瑜は私房の牀台に横になりながら、無機質な天井を見つめていた。
両親を十代の頃に相次いで亡くした彼は、妻子も妾もまだ持っておらず、眠りもこうして独り静かに過すのが常である。
無風無月の寧静……されど周瑜の頭中は常に、明日、さらにその先に向けての己の道を探り、休む事なく回転していた。
〝 魯粛を、孫策の許へ 〟
それが周瑜の果たすべき必須事項であり、揺るがぬもの。
魯粛という大器は、必ずや我らの力となる。そう、周瑜は信じている。
加え……ここへ来て、彼の中には新たな興味が生まれていた。ある種の〈慾〉と言い換えてもよい。
諸葛亮。いったいあれは、何者か。
石韜(広元)と諸葛亮の出会い経緯は、ふたりから極簡素な説明を聞いた。
彼らの付き合いはまだ一年ほどだというから、時間的には浅い。
曹操対張繍の戦いとなった宛城戦については、当時すでに偵察部からの報告を受けていた。
張繍の裏切り策により、曹操が嫡男を失うほどに完敗したとされる激戦だ。
―――― それほど激しい戦時下で、あの広元が諸葛兄弟を救ったと?
刀もろくに振り回せそうにない本人印象からすると、どうも納得がしにくい。
勇猛友人が協力してくれたからだとは言っていた。
そうだとしても、あのふたりの話には、やや不明瞭過ぎる点があるように感じている。
美傑と称される濃黒の瞳が、さらに室天井の暗闇を映し込む。
彼は半身を起こした。
立片膝に肘を掛け、短く嘆息。
―――― まあこの際、そんな過去事情はどうでも良い。
疑問をおさめ、切り替える。
肝心なのは未来だ。
周瑜は一見風采の上がらぬ風貌の龐統にも、未知数懸念があるとはいえ、己の駒として活かす可能性を見出している。
……では果たして、諸葛亮はどうか。
龐徳公のことは言うにあらず、司馬徽についても、周瑜は名声を仄聞している。
その名士ふたりに見込まれたという広元も、人格誠実、平均点以上の才覚を持ち合わせているだろう点に疑いはない。
そこは認めるにせよ、諸葛亮の持つ才覚は、桁が一段違っている気がしてならないのだ。
―――― 単にあの麗質と特異な雰囲気が、助長させているのかも知れぬが。
賊との疑惑な一件も無視する心算はなかった。あれが本当に諸葛亮の仕業だとしたら、尋常ならぬ危険人物の可能性もある。
「……」
眼を閉じた周瑜は肺深くに空気を吸い込み、全身に巡らせる時間をおいてから、ゆっくりと吐き出す。
いずれにせよ。
孫策に合流する過程の一時繋ぎに過ぎなかったこの地滞在が、長くなり過ぎてしまっている。
中原では、曹操が『奉戴』と称し天子を抑え、遷都を強行して権力簒奪を目論んでいる。
その曹操と、目下最強実力者とされる冀州牧・袁紹との対立は激化の一途。
情勢は一触即発であった。
―――― 一刻も早く、我らも対抗する力を持たねば。
時の猶予はない。
……
戸外の草木が柔らかな葉擦り音を奏でた。過ぎ去った秋を惜しむ風が静かに渡ってゆく。
迫る厳冬の気配に静まり返る闇は、やがて来るべきであろうその時を、深い身の内にじっと、潜め隠しているかのようであった。
◇◇◇
「緊急にご報告いたしますっ!」
駆け込んできた部下の叫び。
周瑜が慌ただしい報せを受けたのは、広元と龐統を引き合わせた日から三日後の朝、登庁直後である。
現場から遣わされた亭吏(亭勤務の役人)は、声まで汗だくにした様相で叫んだ。
「郊外が襲われておりますっ! 賊の人数は七、八十はいるかとっ! 此度は相当てこずっておりましてっ」
孫策の登壇で変化し始めているとはいえ、山岳や海を砦とする不服従民や、地方豪族が割拠する江東江南近辺では、賊騒ぎなど、古来より日常茶飯事であった。
あまつさえ現今は、王朝の統治が不安定なのだ。
重ねて孫策はこの夏、朝廷より袁術討伐の詔勅を受け、完全に袁術と敵対関係位置をとった。
そうなった原因は、勝手に皇帝僭称をした袁術にある。
されど当の袁術本人はそう思わない。袁術という者、世界は己中心に成り立っていると考えているのだ。
袁術の意識としての孫策は、若くして父親を喪ったときに輔け、息子のように愛でてやったつもりの子飼い臣下。
その子飼い分際が、恩人たる朕(皇帝の一人称)に敵対するとは何事ぞ!
……となるのは、予想に難のいらぬ反応であった。
怒り心頭に発した袁術は、孫策殲滅のため手段を選ばぬ手に出た。
廬江と隣接する丹陽界隈に長年勢力を張っていた、宗部一揆(宗教共同体)の大帥・祖郎を取り込み、さらに不服従民の山越を煽動して、孫策攻撃を始めさせたのである。
そういった事情も絡み、この地域の動乱具合は、このところ一段と激しくなっていた。
「それで、賊の正体は?」
出動準備を始めながら周瑜が問う。行動は素早くも、声色は極めて落ち着いていた。
「はっ! そ……それがその、よくわからずっ」
「わからず?」
睨まれた亭吏は拝跪する。
「てっ、敵は武器装備もかなりしており! 頭目もいる組織だった形で、応戦も一進一退の模様っ!」
必要のない怒鳴り声。
ここに着いたときより汗が増えているのではないか。下っ端亭吏とはいえ兵士の端くれだろうに、報告者は呆れるほど動揺していた。
―――― 組織……祖郎一派か。
祖郎はかつて、孫策を大敗に追い込んだこともある、曰く付きの宿敵である。
とはいえ、いまや飛ぶ鳥を落とす勢いの孫策。すでに祖郎などは敵ではなくなっていた。月日を経るごとに、孫策から追い詰められた祖郎軍は、じり貧に弱小化しているのが実情だ。
―――― それでも一度肥大化した組織は、必ず枝分かれするもの。
居巣の地は、祖郎勢力域からいくらか離れているものの、今回居巣城郊外を襲った一団は、人数規模からして、そこから出た一党かも知れない。
「そうか、了解した。少し落ち着け」
狼狽周章の亭吏を、周瑜は宥める声音を作って指示を渡す。
「わたしも直ぐ出る。馬を表へ」
「はいっ! かしこまりましたっ!」
転びそうな勢いで駆けて行く亭吏の背を目に、周瑜は舌打ちした。
―――― 賊のたかが七十やそこらで、あの慌てぶりか。
居巣赴任をしてからというもの、こんな度に、現王朝の弱体化を感じずにはいられない周瑜である。
今から約百九十年前、謀略を重ねて漢の帝位を簒奪した〈新〉と名乗る王朝があった。
光武帝(劉秀)がそれを倒し、漢は再興を遂げた。現在の王朝である。
その後二百年近くに渡る治世で、漢王朝は徐々に、各所の軍備解体を進めていっていた。
当然の結果、武器の使い方もろくに知らぬような者の集合体が『官軍』と称して、警備や戦に対しているのが実情だ。
安泰の証と見ればそれもよかろうが、昨今の、国であれ賊であれ独自の訓練兵軍を持つ諸群雄に、それらが能うるはずもない。
中央官僚の腐敗と合わせ戦乱世になるのは、必然の流れだとも言えたのである。
武装を終え、周瑜は馬上の人となった。
―――― 現場は魯粛邸の近くかも知れん。
報告からするとその可能性が高い。
懸念を胸に、彼は馬を駆けさせた。
◇◇◇
「おお、公瑾の兄上。いらしてくださったか」
到着現場で居合わせたのは、周峻。字を元嵩という。
周瑜の歳の離れた兄の長子で、齢歯まだ十六という若さでありながら、馬術や剣技に優れる頼もしい武者である。
若叔父の周瑜を敬愛する彼は周瑜を兄と慕い、今回の周瑜の居巣赴任にも伴って、何かと手助けをしていた。
「元嵩、遅くなった。現状はどうだ」
「はい。ご覧いただいてお判りいただけると思いますが」
周峻の言葉に周瑜はぐるり、首を回す。
周瑜への報告自体が遅れたのか、あれほど騒がしかった亭吏の口調に反して、事はもう粗方、片が付いている模様であった。
「魯子敬どのの若手も、賊に対応してくれたようです。こちらにも多少の犠牲はありましたが」
「子敬の?」
見れば、そこかしこに転がる幾つかの賊とおぼわしき屍。自衛軍を養っていたという魯粛の成果がそこにあった。
「ですが、兄上」
賊を抑えた形にもかかわらず、周峻は眉根を曇らせている。
「聞けばどうも、賊の主目的は人攫いであったようです。この辺りの女、童子をかき集めて、東南方向へ逃げて行ったらしいと」
周峻の指した方角に、周瑜は視線を遣る。
「わかった。ここを頼む」
若い従子にそう残すと、直属の手練れ五騎を引き連れ、東南へ向け馬腹を蹴った。
<次回〜 第65話「賊乱〈2〉」>
【用語解説】
◆新王朝:漢の王位を簒奪した王莽が8年に開いた王朝。前漢と後漢の間に15年だけ存在した。
◆祖郎:丹陽郡の宗教指導者。一揆の頭目。孫策はかつて彼に大敗した。
◆山越:後漢末から三国時代にかけて現れる江南の異民族、不服従民。人種については諸説あり。




