第63話 茜の馬車
「さすが公瑾どのだな。即席にあれほど鮮やかな対応をされるとは」
揺られる馬車内で、広元がこの日昼間に市で目撃した一連を回顧し、感嘆を零した。
周瑜邸でのもてなしを受け終え、広元と珖明は魯粛邸への帰路についている。
車は、周瑜が気遣いで用意してくれたものだ。
―――― ……そういえばあの子、名乗らなかったな。
少年が明らかにしたのは『呉から来た』ということだけ。
県長且つ恩人を前にした対応としては、少々違和感を持った広元である。
とはいえ周瑜側もそれ以上訊ねなかったのだし、それより少年の最後に見せた強い眼力が、広元には印象深かった。
あのときあの子は、周瑜に何かもっと伝えたいことがあるようにも見えたが……。
馬車を囲む一帯が夕暮れに差し掛かる。
いくらか雲の多いこの日、茜に染まっていく西雲が、夕陽の美を誇示するかのような奥深い画を描き始めていた。
同乗の珖明は広元の周瑜評に何も返さず、側壁の小窓から西空の光景を眺めている。
陽の朱を受ける端麗な横顔……普段見慣れているはずの広元でも、その性を知るからか、こんな場面ではおぼえずどきりとしてしまう。
広元は一度息を飲み込んで、湧いたものを自身にはぐらかすと、別の話題を振った。
「珖明。龐士元どののこと、どこかで聞いていたのか?」
庁舎での龐統との初見の折、珖明が龐統に対し発した言のことである。
若干十七歳ながら、珖明はすでに抜き出た才覚者たる要素を周囲に感じさせていた。
その怜悧さ故によく自らすべき説明を略してしまい、人から見たとき、余計な謎が多くなっている。
ために広元は、こちらから出来るだけ話を引き出そうと、常、心掛けていた。
問われた珖明は、切れ長な眸を広元に返す。
「何、おかしなことを言ってる。出発前に、きみが水鏡先生に引き合わせてくれたろう」
「え? ……あ、あのときか」
「目的の尋ね人を知らぬはずがなかろう」
「……そうだな」
旅にあたって広元は、仲介役の司馬徽、通称水鏡先生に、同行希望の珖明を一度会わせた。
龐統の名は会話に出ていたし、旅中、広元も幾度もその名を口にしている。
―――― それはそうなんだが……。
広元は胸中で小首をかしげる。
―――― 『龐統が逸材』なんていう評を、水鏡先生は言われたことがあったかな。
少なくとも自分は聞いていない。
……と思いつつ、どうであったろう?
未知の旅への高揚に心定かでなかった、当時の記憶への自信が明瞭にはないかと自認する。
きまりの悪さを繕って、広元は話題への触れ方を変えた。
「しかし……龐士元どのが周県長の食客になっていたとは。まったく思いもしなかったよ」
◇◇◇
「本日まさかお会いできるとは予想せずで……申し訳ございません、お預かりしている御母堂からの文は、明日にでもお届けいたします」
先刻の宴席で広元が龐統に伝えると、龐統は礼と合わせ、自身の返し文を即座に認めお渡しする、と返してきた。
「はい……承知しました」
返答しながら広元は察する。
通常手段で文が届かないから、広元達が今ここにいるのだ。厳冬に入る前、近々帰路に発つであろう広元に、龐統が自身の返信を託すということは、
―――― 共には荊州に戻らないってことか。
広元からすれば、正直、困惑の展開となった。
『龐統の生存と近況を確かめ、家族からの便りを伝える』という基本目的は成したにせよ、依頼主の心緒を思うと、旅の全面援助まで受けた広元としては、申し訳が立たない心情に支配される。
本人から預かる文だけで、許されるものかどうか。
かといって、これだけ実行力のある龐統本人の意向を、あかの他人が曲げさせるのは厳しいであろう。
結果を腹底に覚悟しつつ、広元は龐統に今後のことを尋ねてみる。
「この先をどうなさるか、決めているのですか?」
「ふむ。この先、ですか」
龐統は手中の耳杯をぐっと飲み干す。
「さて、どうなることやら。手前にもまだ、見えませぬなあ」
そう言って、無類の酒好きだと言って屈託なく酒杯を上げる赤面の龐統は、齢に見合う、自由奔放な若者そのものに見えた。
◇◇◇
広元と珖明を乗せた車は城門を出た。
城外は城内に比して道がずっと悪い。増した揺れが瘡に伝わり、広元は眉を歪める。
不意に、珖明の呟き。
「周瑜は、なかなかの人材蒐集家のようだな」
「人材蒐集家?」
どきりとする広元。それは遠回しのようで、実は広元の心情を見透かした言だったのだ。
龐統と引き合わせてくれた周瑜について、広元は感謝の他方で、あることを気色取っていた。
こちらの目的が龐統を連れ戻すことであることを、広元は周瑜に当初から告げている。
そして庁舎での紹介時の会話。続き宴での周瑜と龐統。
互いを認め合う関係を醸し出すふたりから、ある濃い推察が過ぎった。
―――― もしや、周瑜は。
周囲に口止めをしての今日までの間が、周瑜の時間稼ぎであったと考えるのは、穿ち過ぎだろうか。
仮にそれが正しいとしたとき、考えられる周瑜の行動動機……それは。
―――― もしや周瑜は、龐統を手放したくないのではないか……?
勘ぐった思いを秘め、広元は珖明に返す。
「人材って……じゃあ士元どのも子敬どのも、周県長の配下になると?」
「さあな」
珖明は遠くのものを眺るように、目を細める。
「だがまあ、龐統を今回我々と共に連れ戻すのは、諦めるよりなかろうよ」
そうしていつもの無風面で、眼を閉じる。
広元は含笑した。恐らくこれでも珖明なりに、大怪我までして依頼を遂行した我を労ってくれているのかも知れない。
そう考えると、気が少し温かくなった。
朱を増した光の帯が車内奥まで刺し込んでいる。
城壁からさほど遠くない魯粛邸はもうそこだ。揺れの辛抱も、もう少し。
今日はやはり疲れたかな……広元が、心中で軽く洩らしたとき。
『周瑜は、なかなかの人材蒐集家のようだな』
つい先ほど珖明が呟いた言の葉が、脳裏に反復された。
「……」
広元は対面の珖明を視る。
眼を閉じている珖明は、揺れに身を任せ、うたた寝をし始めているようであった。
―――― 人材蒐集……。
がくん! と、大き目な衝撃が車を弾ませた。肩の瘡に歪が響く。
広元は手で、瘡を押さえた。
<次回〜 第64話「賊乱〈1〉」>




