第62話 呉から来た少年
「悪いが、いくら何でもその銭では無理だ。あれは特別品なんだよ」
白毛混じりの中年男は、渋顔からの嗄れ声を少年に浴びせている。
少年は頭を低くし、懇願した。
「失礼は重々承知いたしております。ただ今年は地元も飢饉に見舞われ、ここではこれが手一杯なのです。後日必ずお支払いしますので、取り敢えず今はこれで、譲ってはいただけませんか」
どうやら少年の買い求めたい品の対価が、少年の手持ちでは足らぬ次第らしい。
「いい加減にしてくれ、こっちも商売なんでね」
しつこく食い下がる少年の態度に商人男も苛つき、それこそ少年を突き飛ばしそうな気配。
加え、大柄な男が二人現れて少年を挟んだ。二名共、どう見ても無頼者の類である。
市には、犯罪の温床場所という側面がある。
そのため城郭内の市場には市楼(犯罪を取り締まる建物)が置かれ、役人が詰めて、市の犯罪を取り締まっていた。
市楼の役人には市場の安全を保つ義務があるわけだが、現実には、汚職も含めた事情が蔓延しているのが暗黙の了解。
土地土地の有力者、中には官僚に雇われた無法な輩が、『遊侠(男だて)』を自称し、恐喝、取立て、窃盗、殺人までも犯しながら、我が物顔で市を闊歩していた。
襄陽のような大都市でもそれらは見られるし、中規模以下の、とりわけ地方での実態がどれほどかは、広元にも想像がつくところだ。
少年を囲んだ居巣の遊侠のひとりが、少年の襟を掴んだ。次の展開は目に見えている。
―――― 子ども相手に……!
広元持ち前の無謀癖が出た。
揉め事の場に近寄ろうとするその肘を、珖明が掴む。
「!?」
もちろん止めたのではあろうが、振り返った広元の見た珖明の面様は、極めて静やかだ。
無言の眸で、『あれを見ろ』と広元にうながす。
「……」
その目線の先を、広元が観直すと……。
◇◇◇
「どうしたのかな?」
いつの間にか、現場に踏み込んでいたのは周瑜。
少年、主人、無頼者、そこにいた全員が一斉に、割り込んできた周瑜へと面を向けた。
「……」
誰も寸刻、言葉を発しない。
庶民が県長の顔など知る由もなく、その場の誰も、割り込み者が誰なのかを識別できていないのだ。
それでも放つその風格が尋常でないことは、皆、感じ取ったようである。
周瑜は余裕の面持ちで各々を見やり、渦中の少年に眼を合わせ止めて、再度問う。
「どうした?」
「……」
十代半ばほどに見える少年は、足下が土汚れた地味身形ではあるものの、佩刀(腰に刀をさした姿)をしていた。
みすぼらしい印象はないものの体格も中柄以下で、武将にも、また齢からして官吏にも見えなかった。
数歩離れた所に、大荷物を背負った従僕らしき者が一名、怯えた姿勢で控えている。
少年は、南方出身者らしからぬ上がり気味の目尻を持つ眼を上げ、説明した。
「呉県(江蘇省蘇州市)にいる病の親族の為、清水の豊富なこの辺りで評判の薬酒を求めたいと思ったのですが、存外に高価で……。しかし病状を考えますと何とか今回持ち帰りたく、無体は承知なれど、主人にお願いをしていたのです」
その口調は、見た目の歳歯とは合わぬ、整然とした落ち着きを保っている。
「呉から来たのか?」
周瑜は軽い衝撃を受けたふうに、手を顎に当てた。
―――― 『呉』だって?
護衛達と側から様子をうかがっていた広元は、自身の地図知識を動員する。
呉県は、居巣より江水を隔てた更に東の果て、東海(東シナ海)に面する揚州呉郡の治所である。
居巣との距離もなかなかな上に、何より江水渡河が一大事であろう。江水の下流幅は、川というより、もはや遼か対岸の見えぬ〈海〉であると聴く。
とはいえ、海を見たことのない広元にとってその広大さ認識は、あくまで想像範疇でしかないのだが。
顎から手を外した周瑜は、列肆主人に対した。
「主人、彼の欲しているものを我が買おう。いくらだ」
「……へ?」
いきなりの申し出に、主人の黒目が点状になる。
周瑜の護衛も仰天反射で、つい口を滑らせた。
「周県長、それは……」
「げっ……け、県長様!?」
列肆主人の顔が一気に蒼ざめる。
よもや県長が、徒でこんな場に居合すとは考えもしない。
しかも違法な無頼者を雇っている、という現場を抑えられてしまったのであるから、その動転ぶりは押して図るべしだ。
主人の狼狽を無視し、周瑜は重ねて押した。
「いくらなのだ。言い値で良いぞ」
「は! はい、いえ……県長様からお代を戴くなど滅相も無い。品は手前より献上させて頂きますので」
この場をなんとか切り抜けようと、主人は咄嗟に思いついた口上を述べる。息はもう細切れだ。
「何を言っている。今しがた『こちらも商売だ』と言い切ったばかりではないか」
滑稽なほど取り乱している主人に、周瑜の口許がにんまりと弧を得る。
「案ずるな、何も咎めはせん。商売は商売、正当な対価は必要だからな。ただこの少年にも深い事情があるようだ。遠路遥々来て身内を思うその孝心に、我から気持ちばかりの援助をしよう」
薬酒壺を買い求めた周瑜は、それをそのまま少年に差し出した。
「お身内の快癒が叶うのを祈る。呉への道程、くれぐれも要心してな」
「……」
急展開に言葉がみつからないのか、少年は周瑜が何者とわかってからひと言も発していない。
壷を受け取ってもただじっと、周瑜の顔を視つめている。
周瑜は少年に微笑を渡すと、広元と珖明にくるりと振り向いた。
「お待たせした。そろそろ邸に参ろう」
落着した場を背に帰途し始める一行。……と、数呼吸間を空けて。
「県長様!」
少年の高い声。広元達が見返る。
少年はまだ列肆前にひとり立ったまま、薬酒壺を手にこちらへと ―― おそらくは周瑜一点へと、目見を固定していた。
―――― なんて強い眼差しだろう……?
広元にも届く、少年の深い目色。
一件に対する謝恩だけでない、何か別の複雑な心情が混じっているようにさえ、広元には受け取れた。
「有難うございます。ご恩は決して忘れません。……周様」
謝意を述べ深々と揖礼(丁寧な挨拶)する少年に、周瑜は大きな肯きで応えた。
<次回〜 第63話「茜の馬車」>




