第61話 江東の箒星(そうせい)
「わざわざここまで出向いてくれたのだし、士元ともゆっくり語るのが良いだろう」
庁舎に併設の周瑜自邸で用意するという一餐を、広元達は甘んじて受けることになった。
宴にはやや早い時刻。そこで広元が、我にとっては初めての居巣の邑、遅ればせながらこの機に、少し歩いて見物してから伺いたい、と希望を述べたところ、
「では、わたしが邑をひと通り案内しよう」
なんと県長直々、居巣城郭内を案内すると言い出す。
「あ! いえ、そのような」
遠慮しようとした広元の口上より先に、
「たまに己の邑を視察するのも必要だしな」
言うが早いか、周瑜は護衛部下の手配を申しつけた。
有無を言わさぬこのあたり、彼の持つ押し強い個性が垣間見える。
本日の主役である龐統は、どうしても急ぎ片付けねばならない案件がひとつあり、宴には追って参加するとのことであった。
「では、早速参ろう」
先頭切って庁舎出口へと歩み出す周瑜に広元と珖明が、その後には護衛よろしく、大柄体格の男二名が続く。
屈強男達に挟まれて、どう見ても庶民の散策には見えない一行。拾い足気分のつもりだった広元の発言が、ずいぶんと大袈裟な展開となってしまった。
―――― まあ、有難いか。
もしかすると、龐統のことを長期間焦らせた詫びの気持ちが周瑜にあるのかもしれない。
ここは素直に厚意を受ければよいだろう。
それはいいとして。
―――― ……護衛、か。
広元はチラと浮かんだ想いに、心裏でくすりとしてしまった。
県長に護衛が付くのは当然なのだろうが……果たしてこの周瑜に護衛なぞ、必要なのだろうか?
◇◇◇
居巣城郭の規模は、襄陽に比すればだいぶん小さい。とはいえ寂れた邑でもなく、土地柄なのか全体の空気感には、中原とは違う特有の明るさが見られた。
―――― 子敬どの話は、どうやら真実みたいだな。
邑の市の区画入口付近から全体を眺めながら、広元は魯粛との会話を思い起こしている。
ひと月以上この地に滞在している広元が、江東について知らされたことのひとつ。
『江東江南の治安は最悪』という認識が、正しくはなかったという事実である。
「江水が天然障壁となって、中原で起きた黄巾の影響もほとんど及んで来ておりませんからな。徐州のような虐殺も起きていない。実際に避難民が荊州同様、揚州にも相当数流れてきているのですよ」
故郷の徐州を捨てた魯粛が、先日、詳しく語ってくれた。
「とはいえ、江東がこれまで決して安泰地だったのではありません。地元豪族の争いに加え、山岳には雑多な不服従民、海には海賊。反乱、殺人、略奪が頻発していた。あなた方を襲った輩のようにね」
私兵軍を養っているという魯粛の言葉には真実味がある。
「治安が改善され始めたのは、箒星(彗星)が現れてからですな」
「箒星?」
「孫策のことです」
「!?」
眉がおぼえず上がった広元。意表外だったのだ。
「それは……孫策が江東を安定させた、と?」
孫策の概要については、広元も情報として知っている。
短期間に凄まじい勢いで江東三郡を制圧し、ここへ来て一気に名を馳せた若き勇将。
その進撃の苛烈さゆえ、
『江東の住民は、孫策の名を聞いただけで誰もが震え隠れる』
中原では孫策について、そんなふうに伝えられていた。
要するに、血の気の多い過激な男という印象であって、治安を安定させているという事象とは結びつかないのだ。
「はは、なるほど。たしかに年がら年中戦をしている方ですから、武神と畏れる者もおりましょう。わたしはお会いしたことがないので、彼の性質までは言えませんが」
周瑜の親友のことだからなのか、魯粛の語り口は、袁術に対するものとはまったく違う。
「ですが戦で大切なのは、その目的と信義、統率力、そして事後の統治です。同じ戦でも、そこが歪んでいるかいないかで別物となります。孫策が目指しているのは江東の安定統一であって、破壊と混乱のためではありません」
「……」
「実際、彼の統治下となった地では、誰かれ分け隔てなく厳しい法が施行され、よくある軍の略奪暴行などもないそうです。ま、不埒者らには不自由でしょうがね」
「法統治……ですか」
「治安維持は畏れと表裏一体なのです。ただし二者の均衡が重要だ。かつての秦国は、それで失敗しましたからな」
西の強国だった秦は、広大な中国を初統一したものの、その行き過ぎた法支配により短命で滅んだ、との認識がある。
漢は秦の反省を活かしたことで、長期政権を維持できてきたのだとも言われていた。
―――― 子敬どのの見識は大きくて深い。まるで一国の政治家のようだ。
周瑜が魯粛に目をつけたのは財力だけではないことが、広元にも得心できた。
あの船乗りの言葉どおり、魯粛は本物の〈名士〉なのだ。
感銘とともに、広元は風聞と思い込みの危うさを受け取る。
己の目と耳を使い現場で確認したものこそが、真実に即した判断を生むのだ。
◇◇◇
県長率いる一行は、居巣の市を連れ立って見物した。
居巣城内を歩きながら魯粛との会話を想起していた広元は、この地方が、中原や河北とは違う恩恵を受けているという実態を、その目肌で得られている。
「気候のせいもあるのでしょうが、全体に明るくて穏やかな邑ですね」
孫策の件には敢えて触れずに、広元は周瑜の背に感想を述べた。
集合体として自然に構築される人々の雰囲気は、深掘り努力をせずとも感取できてしまうもの。
肩越しに振り返った周瑜の横顔が答える。
「北に比べればそうかもな。だが今年は旱魃と蝗害(バッタ災害)が酷かったのだ。淮水(淮河)一帯に、大規模な飢饉が発生した」
秀麗な眉間が曇る。
「居巣辺りはまだいいが、廬江以東全般、深刻な状態だ。故に治安もより悪化している」
統治者らしい苦悩。
―――― そうか……だから。
周瑜が自ら広元達の案内を申し出たのは、そういった治安事情を考慮したからであったことを、広元は知る。
さすが周瑜の配意は、常、手抜かりがない。
さて。
飢饉という危急下ではあるらしいものの、城内の店頭には、広元が目にした事のない類ばかりが並んでいた。
市の区画は、扱う品物別にまとまって配置されており、買い物するにも見物するにも、わかりやすくなっている。
見学にいそしむ広元の興味は、自然、高揚していった。
例えば食材。
そもそも主食が北と南では違っている。河北の主食は小麦で、南方の主食は米だ。
襄陽辺りではどちらも流通しているが、南へ旅を進める中で、より米が主体になって行くのがわかった。それに合わせての見知らぬ副菜文化にも、触れる事が増えていく。
「南方は稲作が盛んなのですね。魚も種類が豊富で……江水の恵みは、本当に大きい」
斜め前を歩む周瑜に感想を伝えつつ、広元は再びあの魯粛贔屓の船乗りを思い出した。
生業も食も文化も、河南生活の糧は江水を中心に成り立っているのだ。
広元はこれまで、
〝 天下の文明は、すべて河水(黄河)流域を中心として隆盛している 〟
という教育を受けてきている。
しかし人は皆、己の生きている場所こそが、己の中心地であろう。
実際この地での〈母なる川〉は、河水ではなく江水なのである。
中国が統一されて以降、帝国の中心地が中原とされている以上、距離的に離れた地域への認識に蔑視感が存在してしまうのは、致し方ないかもしれない。
だがそこに一方的な優劣をつけるのは、時の支配者の勝手な定義ではないのか。
江水流域地域でも河水地域と同じく、人は活き活きと生きているのだ。
またそれは、ここよりさらに南、漢が『南蛮』と蔑んでいる地域にも、もしや当てはまるのではないか……?
目にする周囲の景観と、湧き出る思惟に夢中になっていた広元は、横見をしながら歩いていたそのまま、珖明の背にぶつかった。
「あ、すまない」
詫びた広元の鼻先で立ち止まっていたる珖明。じっと一方向を視ている。
「……?」
つられるように広元も視野を移した先には。
ひとりの小柄な少年と、列肆(店舗)の商人らしき男が、列肆先でなにやら揉めている様子があった。
<次回〜 第62話「呉から来た少年」>




