表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
55/69

第55話 周瑜

 江水系支流・濡須じゅす水に繋がる巣湖そうこは、中国五大淡水湖の一つに数えられる大きな湖である。


 多くの河川が流れ込む水量豊富なこの湖には、いくつもの島が浮かび、それらが景勝を形作っていた。

 湖の北一帯には、豊かな田園が続く皖中かんちゅう平原。

 水と地の織りなす静かな雄大さは、人の心に感嘆といやしを贈る。


 巣湖の東ほとりにある居巣県は、水郷地帯且つ湿潤気候なためもあって、空気が水分を多く含んでいる地だ。

 夏冬の寒暖差が激しく、急に気温が下がるなどの条件が揃うと、先日のような濃霧が発生することがあった。


 一昨日まで一面を覆っていた濃霧が散じた、晴天の(うし)正刻(せいこく)(正午)過ぎ。

 ひとつの馬影が、洗われた清涼空気の覆う大地を、颯爽さっそうと駆けていた。


 仲秋の蒼空(あおぞら)には一羽の鷹 ―― 魚を専門に捕食する魚鷹うおたか(ミサゴ)であろう。

 比較的低空飛行で旋回しながら、疾走する馬を慕うが如く、付かず離れず後を追っている。


 馬上の青年は、居巣県長・周瑜しゅうゆ

 鎧も付けず武具もわずかな軽装でありながら、その(たくま)しい体格は、戦時とはまた違った雄々しさを放っていた。


 辺りに他の人影はなく、彼一騎なのが惜しくも思える。

 もし誰かその姿を見留めていたとしたら、きっと言葉を忘れ、見惚れてしまっていたに違いない。

 二十三歳の周瑜は、そんな、今を盛りの若さと美丈夫振りに輝いていた。


 されど、これまで輝かしい武勲に名を響かせている彼も、この二年ほどは戦場に出ていなかった。


 孫策(そんさく)と共闘して、揚州刺史(しし)(州監督官)・劉繇りゅうようを破った後、周瑜は丹陽たんよう太守(郡長官)を任じられた叔父の周尚しゅうしょうと共に、現地に赴任した。


 それも束の間、主筋の袁術から突如、袁術の本拠地・寿春(じゅしゅん)に呼び戻される。


「どうだ、周瑜。の許に残らんか。将軍に引き立てようぞ」


 そのとき袁術から示された好条件の誘いを、周瑜は低姿勢で辞退し、替わりに、寿春にも近い居巣県長を自ら願い出たのだ。

 そのまま、現在に至っていた。……



「ヤッ! ハッ!」


 力強い掛け声に、地を軽快に弾く蹄音が呼応する。

 身体が鈍らぬよう、時間を見つけては騎乗訓練をするのが、居巣での周瑜の日課だ。


 ひとしきり走り、周瑜はよく訪れる少し開けた場所に出た。

 そこにある小さな丘の上には、一本のにれの樹が立っている。

 高さ五丈半(約12.7m)ほどで、開花はもう少し先……といっても、咲いたところで率直、美しさには劣る種であって、華やかさはない。


 それでも、枝振りは格別に見目よい樹である。

 広大な地に孤高で佇むその景観を、周瑜は殊に気に入っていた。


 彼は馬足を停め、まだ距離がある見慣れた丘を眺め遣る。

 ……すると。


「? 馬……?」


 人家や農地からだいぶん離れているこの場所には、普段、人の姿はほとんど見られない。

 それがこの日、その樹に珍しく馬が一頭繋がれているのが周瑜の目に入った。

 ……旅人か。


 折り返し前の休憩もしたいところ。周瑜は下馬し、馬を引きつつ丘を登って、木陰を作っている樹の真下まで来た。


 ―――― 魯粛(ろしゅく)の所有馬だ。


 つながれた馬の馬具からわかる。

 周瑜は頭上を仰いだ。


「……」


 中腹の一本の枝上に、人ひとりの影があった。

 不安定な場所だろうに、器用に腰掛けている細白い長身姿。


 周瑜はふっと口角を上げる。


 ―――― ……珖明あいつだ。


◇◇◇


「そこで、何をしてる」


 留まっている樹上の仙人に、周瑜は下から声をかけた。

 届いていないのか、返事はない。……が、しばらくしてさやかな声が降りる。


泰山たいざんの空が見えます」

「泰山?」 


 泰山郡は、居巣(ここ)から遠く、北方の兗州えんしゅうに属している。

 泰山郡にある泰山山脈の主峰・泰山は、過去の皇帝達が封禅の儀式を行った聖地だ。

 また、死者の霊魂が集う地ともされ、『亡者はそこで生前の行いを裁かれる』と人々に広く信じられていた。


 ―――― 珖明の父親は、亡くなるまで泰山郡のじょう(副長官)をしていたのだったな。


 そのことは数日前に魯粛邸を訪った際、珖明本人から聞いていた。

 当主が郡丞であったということは、諸葛家の官吏身分としては、中流の上といったところか。

 もっとも珖明本人は、


「当主を(うしな)って故郷から逃れた難民。わたしは布衣ほい(無位無官の者)でしかありせん」


 淡白にそう、自らを格付けていたが。


 心地よい森閑の風が、秋化粧の樹葉を揺らせる。

 いつまでも続きそうな沈黙に、辛抱のできなくなった周瑜が、再度言を投げた。


「降りて来ぬか。少し話をしたい」


 珖明はやっと、下にいる周瑜に視線を落とした。その(かお)は薄く笑んでいる。


「ではここまで来ては、県長様。霧がやっと晴れて、今日はとても見通しが良い」

「ばかを言え」


 笑み返しながら、周瑜が咎める。


われはそなたのように、身軽ではないぞ」


 訴えに頬をもう少しだけほころばせ、珖明は器用に枝を伝って、周瑜の前にすとん、と降りて来た。


 ―――― それにしても、身軽い。


 あんな枝まで登っていたことからもわかるが、この珖明という者、とにかく動作が動物並みに軽やかだ。

 見目が野生さとあまりに対極であるから、周瑜は不可思議なものを見る感覚に陥ってしまうのだった。



「よろしいのですか。県長様がこのような場所で、寄り道をしていて」


 互いに幹に背をもたれさせながら、珖明が本気とも揶揄からかいともとれる口振りをした。

 ふたりの身分差からすれば、なかなか不躾な態度と言ってよい。


「やるべき勤めはしているぞ。……だがここの役人仕事は、やはり我にはなんとも、向かぬな」 


 不遜さなど、周瑜はまったく気にしない気軽な(てい)でいる。

 珖明は流し目加減に。


「袁術どのからの将軍話を断って、ご自身から小邑しょうゆうの県長職を申し出られたのでしょう」

「……まあ、そうだが」


 腕組みした周瑜の苦笑い。

 事情は珖明も知っているだろうに、児戯いたずらっぽく嫌味を入れたか。


 だが不思議と、周瑜に不快感は生まれない。


「ふふん。現在いまどきの官吏任命など、ほとんど表向きの形式が引き継がれているだけだ」


 その言葉どおり、漢王朝中央の地方行政機能は、現実的にほぼ瓦解がかいしていた。


 政府を無視した諸将が、己に都合のいい人物を勝手に官任命するなぞは、茶飯事。

 だが当然、中央としてもなんとか威厳を保つため、本来の任命権を施行しようとする。


 朝廷、または己の主君、それぞれから命を受けた者が現地で牴牾ていごしたとき、どう決着を付けるかは、現場本人の取捨選択か、実力行使か。


 それが戦乱期の不文律(ふぶんりつ)だ。


 そして今年の正月早々、とうとう究極のことが起きた。

 周瑜や孫策の一応の主筋であった袁術が、なんと自ら『皇帝僭称(せんしょう)』を豪語したのだ。


 居巣で報を聞いた周瑜も、これには開いた口が塞がらなかった。


 ―――― 袁術を主とするのは、もう無理だ。


 以前より心密かに袁術を見限っていた周瑜は、その報で、名門御曹司・袁術の終焉を確信する。


 ―――― もとより、二年前に袁術が我を強引に呼び寄せたのも、孫策の勢いをひどくおそれたからなだけだ。


 猛進する孫策が怖くなった袁術は、孫策の懐刀(ふところがたな)であった周瑜を、何とか孫策から引き剥がそうとしたのである。


 そんな相手の小心が見抜けぬ周瑜ではない。

 とはいえ、まだそれなりに力のある袁術。謀反まがいの疑いを持たれては厄介やっかいだ。


 そこで考えた。

 わざわざ袁術のいる寿春にも近い居巣の長赴任を、周瑜は自ら申し出る。

 そのことで表面上袁術を安心させ、取り敢えず袁術から、()便()()離れることに成功したのだった。


 後は、己の目的決行の時機のみ。

 居巣と、孫策のいる江水南岸は近い。

 ……


「それで、()子敬(しけい)どのは承諾したのですか? 孫公への訪問を」

「なに……?」


 意表を突かれた周瑜は、思わず幹から背を浮かせた。



<次回〜 第56話 「謎の竹箭」>

【用語解説】

◆封禅の儀:帝王が天と地に王の即位を知らせ、天下が泰平であることを感謝する儀式。

◆邑: 城壁で囲まれた集落。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ