第55話 周瑜
江水系支流・濡須水に繋がる巣湖は、中国五大淡水湖の一つに数えられる大きな湖である。
多くの河川が流れ込む水量豊富なこの湖には、いくつもの島が浮かび、それらが景勝を形作っていた。
湖の北一帯には、豊かな田園が続く皖中平原。
水と地の織りなす静かな雄大さは、人の心に感嘆と癒しを贈る。
巣湖の東ほとりにある居巣県は、水郷地帯且つ湿潤気候なためもあって、空気が水分を多く含んでいる地だ。
夏冬の寒暖差が激しく、急に気温が下がるなどの条件が揃うと、先日のような濃霧が発生することがあった。
一昨日まで一面を覆っていた濃霧が散じた、晴天の午正刻(正午)過ぎ。
ひとつの馬影が、洗われた清涼空気の覆う大地を、颯爽と駆けていた。
仲秋の蒼空には一羽の鷹 ―― 魚を専門に捕食する魚鷹(ミサゴ)であろう。
比較的低空飛行で旋回しながら、疾走する馬を慕うが如く、付かず離れず後を追っている。
馬上の青年は、居巣県長・周瑜。
鎧も付けず武具もわずかな軽装でありながら、その逞しい体格は、戦時とはまた違った雄々しさを放っていた。
辺りに他の人影はなく、彼一騎なのが惜しくも思える。
もし誰かその姿を見留めていたとしたら、きっと言葉を忘れ、見惚れてしまっていたに違いない。
二十三歳の周瑜は、そんな、今を盛りの若さと美丈夫振りに輝いていた。
されど、これまで輝かしい武勲に名を響かせている彼も、この二年ほどは戦場に出ていなかった。
孫策と共闘して、揚州刺史(州監督官)・劉繇を破った後、周瑜は丹陽太守(郡長官)を任じられた叔父の周尚と共に、現地に赴任した。
それも束の間、主筋の袁術から突如、袁術の本拠地・寿春に呼び戻される。
「どうだ、周瑜。余の許に残らんか。将軍に引き立てようぞ」
そのとき袁術から示された好条件の誘いを、周瑜は低姿勢で辞退し、替わりに、寿春にも近い居巣県長を自ら願い出たのだ。
そのまま、現在に至っていた。……
「ヤッ! ハッ!」
力強い掛け声に、地を軽快に弾く蹄音が呼応する。
身体が鈍らぬよう、時間を見つけては騎乗訓練をするのが、居巣での周瑜の日課だ。
ひとしきり走り、周瑜はよく訪れる少し開けた場所に出た。
そこにある小さな丘の上には、一本の楡の樹が立っている。
高さ五丈半(約12.7m)ほどで、開花はもう少し先……といっても、咲いたところで率直、美しさには劣る種であって、華やかさはない。
それでも、枝振りは格別に見目よい樹である。
広大な地に孤高で佇むその景観を、周瑜は殊に気に入っていた。
彼は馬足を停め、まだ距離がある見慣れた丘を眺め遣る。
……すると。
「? 馬……?」
人家や農地からだいぶん離れているこの場所には、普段、人の姿はほとんど見られない。
それがこの日、その樹に珍しく馬が一頭繋がれているのが周瑜の目に入った。
……旅人か。
折り返し前の休憩もしたいところ。周瑜は下馬し、馬を引きつつ丘を登って、木陰を作っている樹の真下まで来た。
―――― 魯粛の所有馬だ。
つながれた馬の馬具からわかる。
周瑜は頭上を仰いだ。
「……」
中腹の一本の枝上に、人ひとりの影があった。
不安定な場所だろうに、器用に腰掛けている細白い長身姿。
周瑜はふっと口角を上げる。
―――― ……珖明だ。
◇◇◇
「そこで、何をしてる」
留まっている樹上の仙人に、周瑜は下から声をかけた。
届いていないのか、返事はない。……が、しばらくして清かな声が降りる。
「泰山の空が見えます」
「泰山?」
泰山郡は、居巣から遠く、北方の兗州に属している。
泰山郡にある泰山山脈の主峰・泰山は、過去の皇帝達が封禅の儀式を行った聖地だ。
また、死者の霊魂が集う地ともされ、『亡者はそこで生前の行いを裁かれる』と人々に広く信じられていた。
―――― 珖明の父親は、亡くなるまで泰山郡の丞(副長官)をしていたのだったな。
そのことは数日前に魯粛邸を訪った際、珖明本人から聞いていた。
当主が郡丞であったということは、諸葛家の官吏身分としては、中流の上といったところか。
もっとも珖明本人は、
「当主を喪って故郷から逃れた難民。わたしは布衣(無位無官の者)でしかありせん」
淡白にそう、自らを格付けていたが。
心地よい森閑の風が、秋化粧の樹葉を揺らせる。
いつまでも続きそうな沈黙に、辛抱のできなくなった周瑜が、再度言を投げた。
「降りて来ぬか。少し話をしたい」
珖明はやっと、下にいる周瑜に視線を落とした。その貌は薄く笑んでいる。
「ではここまで来ては、県長様。霧がやっと晴れて、今日はとても見通しが良い」
「ばかを言え」
笑み返しながら、周瑜が咎める。
「我はそなたのように、身軽ではないぞ」
訴えに頬をもう少しだけ綻ばせ、珖明は器用に枝を伝って、周瑜の前にすとん、と降りて来た。
―――― それにしても、身軽い。
あんな枝まで登っていたことからもわかるが、この珖明という者、とにかく動作が動物並みに軽やかだ。
見目が野生さとあまりに対極であるから、周瑜は不可思議なものを見る感覚に陥ってしまうのだった。
「よろしいのですか。県長様がこのような場所で、寄り道をしていて」
互いに幹に背を凭れさせながら、珖明が本気とも揶揄いともとれる口振りをした。
ふたりの身分差からすれば、なかなか不躾な態度と言ってよい。
「やるべき勤めはしているぞ。……だがここの役人仕事は、やはり我にはなんとも、向かぬな」
不遜さなど、周瑜はまったく気にしない気軽な態でいる。
珖明は流し目加減に。
「袁術どのからの将軍話を断って、ご自身から小邑の県長職を申し出られたのでしょう」
「……まあ、そうだが」
腕組みした周瑜の苦笑い。
事情は珖明も知っているだろうに、児戯っぽく嫌味を入れたか。
だが不思議と、周瑜に不快感は生まれない。
「ふふん。現在どきの官吏任命など、ほとんど表向きの形式が引き継がれているだけだ」
その言葉どおり、漢王朝中央の地方行政機能は、現実的にほぼ瓦解していた。
政府を無視した諸将が、己に都合のいい人物を勝手に官任命するなぞは、茶飯事。
だが当然、中央としてもなんとか威厳を保つため、本来の任命権を施行しようとする。
朝廷、または己の主君、それぞれから命を受けた者が現地で牴牾したとき、どう決着を付けるかは、現場本人の取捨選択か、実力行使か。
それが戦乱期の不文律だ。
そして今年の正月早々、とうとう究極のことが起きた。
周瑜や孫策の一応の主筋であった袁術が、なんと自ら『皇帝僭称』を豪語したのだ。
居巣で報を聞いた周瑜も、これには開いた口が塞がらなかった。
―――― 袁術を主とするのは、もう無理だ。
以前より心密かに袁術を見限っていた周瑜は、その報で、名門御曹司・袁術の終焉を確信する。
―――― もとより、二年前に袁術が我を強引に呼び寄せたのも、孫策の勢いをひどく懼れたからなだけだ。
猛進する孫策が怖くなった袁術は、孫策の懐刀であった周瑜を、何とか孫策から引き剥がそうとしたのである。
そんな相手の小心が見抜けぬ周瑜ではない。
とはいえ、まだそれなりに力のある袁術。謀反まがいの疑いを持たれては厄介だ。
そこで考えた。
わざわざ袁術のいる寿春にも近い居巣の長赴任を、周瑜は自ら申し出る。
そのことで表面上袁術を安心させ、取り敢えず袁術から、穏便に離れることに成功したのだった。
後は、己の目的決行の時機のみ。
居巣と、孫策のいる江水南岸は近い。
……
「それで、魯子敬どのは承諾したのですか? 孫公への訪問を」
「なに……?」
意表を突かれた周瑜は、思わず幹から背を浮かせた。
<次回〜 第56話 「謎の竹箭」>
【用語解説】
◆封禅の儀:帝王が天と地に王の即位を知らせ、天下が泰平であることを感謝する儀式。
◆邑: 城壁で囲まれた集落。




