第54話 珖明の秘事
広元の容態の落ち着き後から眠り続けていた珖明は、この日の夜明け頃にようやく身を起こしたと、下女から聞いていた。
だが、広元の室には来ていない。
魯粛との面会を最優先に意識していた広元は、邸で結局まだ、珖明の顔を見てはいなかった。
「ご友人、諸葛珖明どのと申されましたかな。貴君の容体が芳しくない間、ずっと付きっきりでいて。安定したとわかってからやっと、眠まれたようでしたが」
魯粛は濃い目に生えた顎鬚を撫でながら、感心するかのように目を細める。
「その後あちらも、それこそ微動だにせずひたすら眠っておりましたな。途中、息をしていないのではと婢女が案ずるほどで。……はは、よほど疲れていたとみえますなあ」
口振りからしても、予期せぬ訪問者が二名も訪れたことを、この主人はまったく不快に思っていないようであった。
「珖明どのも、若いが口数の少ない、とても落ち着いた青年の様子で。……それにしても」
魯粛はそこでやや卓上に身を乗り出し、声量を下げる。
「珖明どのは、ずいぶんと美しい貌立ちをされていますな。丈高ですが華奢だし、最初お見受けしたときはつい、男の格好をした女子かと思ってしまいましたよ」
ぴくと、広元の頰が微小に緊張した。
◇◇◇
「今後も男として生きる」
宛の乱で、本人にとっては不本意であったかも知れぬ〈生〉を選んだ珖明は、広元に対し、最初にそう告げた。
「……」
覚悟していたとはいえ、広元が受けた衝撃は小さくない。
それでも彼が返したのは、ひとことだけ。
「そうか。わかった」
珖明がそこまでしてそうあろうとする由縁は、いっさい訊ねなかった。
『秘は必ず守る』と約したからだ。
以来広元は、珖明の意を尊重し続けている。
諸葛のふたりを迎え入れてくれた石の家族や、子玖にさえ、広元は徹底して秘すことに心を配った。
龐氏依頼の旅に珖明の同行を願った理由も、石家から珖明を離れさせるための、よい手段と考えたからである。
襄陽を離れたことで、身近な周囲への気遣いから、取り敢えず解放された広元であったというのに、直後にまた難題が来た。
『もう二名の門下生と旅を一緒に』
そう司馬徽から言われてしまったのだ。
二名共、広元とは親しい間柄の友人であったし、条件付きで依頼を引き受けた以上、師の勧めを断れるはずもない。
新たな状況に、これまた広元、旅の道中も気が気ではなくなった。
ひとりひやひやする場面も多々。そもそも珖明は、外貌が目立ち過ぎる。
……ところが。
やがて広元は悟った。己の思い煩いなぞ、ほとんど必要なかったと。
―――― 隙が、ない。
珖明本人の本性隠し対応には、先ず以って、まったく抜けがなかった。
意識過多の広元からしても、特にこれという不自然ささえ、感じさせないのだ。
立場的に珖明を庇い守る心持ちでいた広元は、拍子抜けした上に、時折、感心さえしてしまう。
『幼少期から男子として育てられた』という、信じ難い話の真実味がいやがおうにも増すほど、それは一種の、訓練された離れ業のようだった。
結果的に、旅中での徐福も孟建も、珖明の性には気付かなかったのである。
◇◇◇
「ああ広元どの、これは無遠慮過ぎる表現でしたな、失敬失敬」
魯粛はからからと俗っぽく笑いながら、掌で軽く自分の後頭部を叩いて詫びた。
その笑いに、広元も頰の硬さをいくらか解く。
己が評されたわけでもないのに、少し照れたように指で額を摩った。
広元の心裏などに気付くことはない魯粛は、変わらず閑やかに語る。
「公瑾どのも、この辺り一の美傑で知られるのですが……同じ美しさでも、様々毛色の違う形があるものですねえ」
周瑜の貌は、広元も一度目にしている。
とはいえあんな状況下、明瞭な記憶がない。
「救っていただいた折は霧が濃くて、お貌をよく拝見出来ずに。ですが体躯は素晴らしく立派な方だとお見受けいたしました」
「ええ、公瑾どのはまさに文武両刀の美丈夫です。まぁ私などからすれば、武も美も、持って生まれた羨ましい才華の限りですがね、はっはっは」
魯粛は軽快に笑い、荼湯の替えを呼ぶ。
広元は自身の茶器の残り湯を飲み干すと、控えめに尋ねた。
「それでその……友人はまだ、室で休ませていただいておりますか」
時刻はもう牛刻(13時)を過ぎている。
魯粛は窓外の日差しに目を移す。
「ふむ、珖明どのは今朝方、廐舎近くを歩いておられるのをちらと見かけましたが……そう言えば、それきり姿が」
手を顎にあて、首を傾げた。
「はて、どちらへ」
<次回〜 第55話 「周瑜」>




