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第53話 豪放男子

周瑜しゅうゆ……どの?」


 広元はまた、真似返ししてしまった。


「ええ、そうです。ご存知ですかな?」

「……」


 ご存知も、何も。

 周瑜、字を公瑾こうきん

 少なくとも、今南方に興味を持ち時勢を学んでいて、その名を知らぬ者はいないだろう。


 廬江ろこうの周氏といえば、つい直近にも二世三公(最高位に位置する三官職)を輩出した、漢王朝指折りの名家である。


 江水・淮水わいすい流域で人望を集めていた周氏であったが、当時の朝廷を仕切っていた独裁暴虐者・董卓とうたくは、周氏の人気を危惧し、一方的に当主格の周暉しゅうきを捕え、処刑してしまった。


「董卓の横暴のために、周氏の勢力は急速に後退してしまいましてね。現今は、寿春を占拠する袁術の臣従に甘んじています。本来ならば、もっと上層に立つべき家柄であったとうのに。……まったく、忍び難き世情です」


 魯粛の眼には、暴挙への怒りと周氏への同情が篭っている。


「そういう理不尽な経緯一族の中で、ひとり公瑾どのは、抜きん出た武勇と才知を戦乱世に発揮しました。彼の活躍ぶりは、広元どのも聞き及んでおりましょうか」

「ええ。孫堅そんけん嫡子の孫策そんさくと共に、破竹の勢いで勝利を重ねたのですよね」


 武功で名を轟かせた『江東の虎』こと孫堅。その嫡子・孫策と周瑜は無二の親友となり、孫策をたすけながら、揚州方面を中心に数々の功績を積み上げていた。


 魯粛は深々とうべなう。


「彼の名声を伝え聞いた多くの総帥そうすい達が、何とかこの若い知将を己の陣営に引き抜こうと、招聘しょうへいに動きました。『周瑜を我が帷幕に迎えよ』とね。今の彼の主格である袁術も、そのひとりですな」

「……」

「袁術は孫策の許より公瑾どのを呼び戻し、姑息にも高将の位を授けて、直属の臣下に取立てようと試みた」


 船男の言にあった通り、魯粛の口調からは、袁術を嫌っているのがよくわかる。


「しかし公瑾どのは、その策には乗らなかった。位を固辞し、故郷の廬江郡にある城市、居巣県の県長赴任を、自ら申し出たのです」


 つまり周瑜は現在、ここ居巣の若き県長なのである。


「公瑾どのが、怪我を負った貴君をここまで運んで来られたのですよ。今回、端なくも彼が現場を通りかかったのは、つくづく好運でしたね」

「……はい。まことに」


 広元は、事件時最後に見た、わずかな画を憶い返す。


 ―――― どおりで……。 


 霧中の一瞥いちべつながらも、どおりで()()()武人には見えなかったわけだ。


 魯粛は荼をひと口運んで、舌を湿らせる。


「わたしと公瑾どのとは、以前より深い親交がありましてね。彼はこの邸にも、よくおいでになります」

「そうでしたか……」


 周瑜が重傷の広元を真っ先に運んで来た事からしても、ふたりがかなり近しいとわかる。


 ―――― そう言えば、魯粛と周瑜の友誼のことは、あの船乗りも少し触れていたな。


 船男が語ったのは、魯粛の例の大盤振る舞い癖の恩恵を周瑜も預かったひとりだ、という余話だ。


 周瑜が県長赴任をした直後のこと。

 新県長の周瑜は、百余人もの部下を引き連れて面識もない魯粛の邸を訪れ、いきなり己への支援を要請した。


 不遜とも取れる周瑜のこの行動は、実は横風を振りかざしたものではなく、噂の名士、魯粛への〈値踏み〉が目的であったといわれる。


 なかなか放胆な手段だが、受けた魯粛の対応はもっと上を行った。

 魯粛は魯家が所有していた二つの大蔵の前に周瑜を案内すると、内ひとつを指して、


「では、あちらをどうぞ」


 なんとひと蔵丸ごと、あっさり提供したというのだ。


 初対面の若い将に、財産のほぼ半分を、即決で無償提供したことになる。

 言い換うれば、それだけ魯粛が周瑜を見込んだという証であった。


「はっは、その話ですか。まあはたからみたら驚嘆ごとだったかもしれませんがね。けれどもそれを機に、こうして名将と親交を深められているのですから、よしというものです」


 本気で惜しげも無い風に語る魯粛は、自身の伯楽はくらく力(人物を見抜く力)に自信を持っているようである。


「……」


 広元は敬意を持つと同時に、強い畏縮を感じてしまった。


 魯粛。周瑜。

 両名とも、その器量度量が豪放極まっている。

 これまで学問界で感銘を受けた人物は広元にもいたが、そういった人達とは別物な気がした。


 この部屋で話題に上がった逸話や余話の内容は、広元がすでに人伝情報として得ていたものだ。

 にもかかわらず、実物の気というものなのか、受けた感覚衝撃度が格段に違っている。


 『百聞一見に如かず』

 約九十年前に漢の名臣、趙充国が言ったとされる言葉の威力は、戦同様、人対象にも言えるのだと知る広元である。


 もちろん魯粛にしろ周瑜にしろ、広元はまだ寸瞬触れ合っただけでしかなく、その人柄を探求できているわけではない。

 されど、彼らがこれまで接したことのない、途方もなく大きな概念を持って生きている人物ではないかと、広元には思えた。


 ……その『概念』がどんなものなのかは、説明出来ないのであるが。


 ―――― そういう方々に、われは命を救われたわけか。


 世間に知られる本物の英傑と、ふたり一度に、あまつさえこれほど驚きの形で遭遇した奇跡。

 『会ってみたい』などと安易に考えた己の心的準備のなさ、ここにある境遇の重さをいまさらながら強烈に覚り、胃のあたりがぎゅうっと縮んだ。


 見合う恩返しなど到底叶うものでもなく……いやそれ以前に、自分は彼らと、どう接すればよいのだろう……?


「広元どの?」


 ()()と固化してしまった相手の顔を、魯粛は覗き込んだ。


 そして即解する。

 この真面目そうな若者は、果報よりもおどろきの方が勝って、途惑っているのだ。


 ―――― まあ無理もないか。周瑜の名まで出てはな。


 若く真直な反応に好感を得、魯粛は心内でほっこりとする。


「気兼ねは無用ですよ、広元どの。瘡がえるまでしばらくはかかるでしょう、それまでこの邸でゆっくり療養いただいて、まったく構いませんのです」

「⁉︎ あ……そのような」

「公瑾どのには、後日あらためてご紹介します。彼も貴君と話したいでしょうからね。伝え聴く武勇ほど、怖い方ではありませんよ」


 そう言って、緊張を和らげてやるつもりか、強面な容貌に似合わぬ朗笑をした。

 気っの良い親分肌の大富豪は、周囲の有望青年で私兵団を作るほどに、自身も含めた未来ある若人が好きなのだ。


「子敬様、その……何から何まで、まことに恐れ入ります」


 ここまで親切にされては、広元としてはもう、気が引けるなどという自己のせせこましい感情などに、とらわれている段階ではない。

 ひたすら厚情をありがたく受け取ることしか出来ないというものだ。


 広元は肩の力を抜き、素直になって表情をやわらげる。その反応に喜色を浮かべ、魯粛は続けた。


「公瑾どのは、貴君のお連れにもかなり興味がある様子でしたからね。貴君の看病の合間にも、よく話しかけていましたよ」

「え。珖明に?」


 思わぬ話題に、広元の関心が切り替わった。



<次回〜 第54話 「珖明の秘事」>

【用語解説】

◆董卓:混乱に乗じ、朝廷権力を私物化した後漢末期最悪の暴君

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