第52話 魁偉(かいい)当主
―――― 目利きに自信があるわけじゃないけど……どれもこれも、かなり上等な一品みたいだな。
客間らしいやや広めの一室に、広元は案内されている。
室内には、派手さとは違う趣味の良い品々が、全体の調和も考えて配置されていた。
目覚めてから数日。
何とか起き上がれるまでになった広元は、この日ようやく、主人の魯粛に面会する事になった。
手負いの身には、まだすこぶる無理がある。とはいえ相手は初対面の、しかも命の恩人なのだ。
「牀台上からでは見苦しく、失礼ですから」
そう広元から強く願い、正座での別室対面としてもらった。
幸い脇腹の瘡は深くない。肩瘡にさえ注意すれば、挨拶くらいは出来るだろう。
目に入る高価そうな家具やら調度品やらを前に待つ間、広元はこれらの持ち主――『徐州の稀代の変わり者』と呼ばれている人物にまつわる、数々の伝説的行為に思慮を巡らせた。
―――― 実際、どんな方なんだろう。
かつて『豊穣の地』と称された徐州は、昨今、北から南下する戦乱にひどく蝕まれている。
魯氏祖先の眠る故郷ではあれど、もはや己の骨を埋める地ではなくなっていると、魯粛は思い切ったのか。
―――― 本人の真意はともかく……試みた選択は、人生を掛けた〈大博打〉だな。
多大な危険を孕んだ挑戦。
だとしても、常人の及ばぬあっぱれ果断な身のこなしであったと、充二分に評価できる。
当面続くであろう戦乱の世で、その度胸は大きく活きる力なのかも知れない。
そんな、あの船乗り同様の感想を広元があらためて感じていると。
「いやはや、お待たせしましたかな」
室口から、太い声。
「重傷の身に申し訳ない。起き上がって、本当に大事ないですか?」
入ってきた当主・魯粛と思われる男は、若干濁りのある、しかし聞き取りやすい滑舌で、まずは怪我人を気遣った。
広元が几案に付いた手で体を支えて、立ち上がろうとすると、
「ああ、いけません、そのままそのまま! 瘡口が開いては一大事」
魯粛が前方に伸ばした両掌を振って、広元の動きを制す。
広元は恐縮しつつも、
「恐れ入ります。では大変失礼ではございますが、お言葉に甘えて……坐姿勢にて、どうぞお許しください」
詫びたのち、腰を座に下ろし戻した。
こちらから牀を避けておきながら恥ずかしいものだが、立ち姿勢が正直、思ったよりも身に堪えていたのだ。
邸主人は屈託ない気色で添える。
「どうぞ無理なく。辛くなりましたら、遠慮なくおっしゃってくださいよ」
魯粛は広元と向き合って置かれた几案の奥に、ゆったりと腰を落ち着けた。
―――― この方が、魯粛……。
登場者が入室から坐すまで、広元の視線はその姿に釘付けになっている。
想像を超えてきた容貌に、すっかり押されてしまったのだ。
声音に比例する人並みはずれた大柄な体躯。衣服の下も、おそらく筋骨隆々だと推察できる。
直線だけで描けるほど角ばった顔は、一般平均よりかなり大きい。
圧倒される魁偉さであった。
武を好むと聞いていたとはいえ、なるほどこれは、ただの商人には見えない。
『追手兵士どもをひとりで追い返した』
船男から聞いた武勇伝は、どうやら真実のようだ。
広元は魯粛に向け、痛めていない右方の手で、揖(丁寧な挨拶)を施した。
「魯家ご当主様に拝顔叶い、光栄に存じます。荊州襄陽より旅途中の書生で、石韜、字を広元と申します」
諱(本名)で自身を称することは、親や主君に対して以外にほとんどしない、特別な姿勢である。
名聞高い人物との、あまりに想定外状況下となった会遇。
広元は心中に直と汗をかく己を自覚しながら、声が上擦らぬよう努めた。
「これほどご挨拶が遅れましたこと、心よりお詫び申し上げます」
「いえいえ。襄陽とは、ずいぶんと遠方よりでしたね」
魯粛側も偉ぶることなく、正しい姿勢で応じる。
「もう聞いておられるでしょうが、わたしは魯粛、字は子敬です。どうぞ子敬とお呼びください」
逸話や見目には釣り合わぬと言ってもよい、柔らかさであった。
「恐縮です。……子敬様、この度はまこと、感謝の言葉もございません」
予告なく現われた見ず知らずの者に対して、手厚い治療と看護までしてくれた救い主に、広元は頭を低くして心からの謝意を述べた。
「今は一介書生の身で何の恩返しも叶わず、汗顔の至りです。……ご恩はこの韜、生涯忘れません」
余計な飾り立てをせずの、誠実な礼。
魯粛は雅量豊かな笑貌を返す。
「身をお崩しください。外傷と高熱に一時は憂いましたが、思ったより早く快方に向かって何よりでした。若さとはやはり、財産ですな」
そう言う魯粛とて、
―――― 聞いた話では、まだ二十代央ばのはずなんだが。
額を上げた広元には、正直、相手が実齢よりかなり歳上に見えている。
声や見かけのせいだけではない。天性のものなのかどうか……推し測れぬ、謂わば余裕のようなものが伝わってくるのだ。
―――― 水鏡先生とは、また違った貫禄だな。
まだ数言しか交わしていないのに、この人は吾の倍も生きてきたのではないか、と広元は思えてしまう。
同時その眼光には、言葉遣いの穏やかさとは比例せぬ、独特の〈侮れない強さ〉が秘められている色も、否定できぬ感があった。
魯粛は、先ほど童僕がふたりそれぞれの几案上に置いていった、小さな器に注がれた薄茶色の、広元が見慣れぬ湯状の飲料すすめた。
「これは、益州(四川盆地と漢中盆地一帯)原産の〈荼〉という葉を煮た湯ものです」
「荼、ですか」
「荼は江水沿いに江南地方に伝わったとか。益州では古くからこんなふうに、荼を喫する習慣があるそうですよ」
「喫する?」
広元には初聞きの言葉。
『荼』という食材名は耳にしたことがあるものの、相当な高級品で、上流社会でしか出回っていないのだと、いつだったか、食通の学生が言っていた。
もちろん、広元に賞味経験はない。
「益州の……」
『巴蜀』とも呼ばれる益州は、荊州の西側に面する、荊州よりも広大な州である。
漢の高祖(劉邦)が漢王朝を起した地であり、『天府の国』と称されていた。
ただし、極めて険しい山岳に囲まれているという地理的隔絶さから、中原からすればやはり、遥かな遠地と言ってよい。
言わずもがな広元とて、机上知識でしか知らない地域。江東江南が〈南の異郷〉なら、益州は彼にすれば〈西の異郷〉であった。
―――― さすが江水流域。中原では一般に見られない、珍しい代物が出回っているんだな。
心中感嘆している広元の前で、魯粛が荼の小器を手に取る。
「黄巾が平定されたとはいえ物騒な世。本当に危ないところでしたな。怪我は禍難でしたが、命を落とさなくて、広元どのはなかなか、強い運をお持ちのようだ」
『運』と言われて、広元は荼器を口に運ぶ手を止めた。
そうだ。通りがかりに救ってくれた、あの凄腕の剣士。
自分はあの時すぐ気を失してしまい、その後の記憶がない。
広元は当初、『あの武人が魯粛ではないか』という発想もしていた。
なにせ民間私兵団を作り、袁術の兵を追い負かしたというほどの男である。
しかし下女との会話からそういった要素は見られず、また今目の前に見る魯粛の姿は、朧げに記憶している武人姿とは、明らかに違っていた。
「……あの」
明瞭な憶えがないことに負目を感じながら、広元は尋ねる。
「わたしを賊から輔けてくださった、武将風の方は……」
「ああ、公瑾どのですね」
朗らかな魯粛の答。
「公瑾どの?」
「公瑾は字で。お名は周瑜です」
その姓名を耳にした広元は、手にしていた器を落としそうになった。
周瑜、だって?
<次回〜 第53話 「豪放男子」>




