第50話 稀代の変り者
目覚めたとき、広元は見知らぬ天井の室の牀台(寝台)に寝かされていた。
―――― ここ……は?
頭に鉛でも乗せられているのか。全身も酷く怠い。
まだ半覚醒状態のようで、自身のいる場所が現実なのか夢の中なのか判断がつけられずに、しばし混乱する。
充分な思考が働かない中、広元は目だけを動かして、室内を見渡した。
美しい白壁で囲われた窓のないそこは、比較的広く小綺麗にされており、一見して、下層民の家屋ではないことは読み取れる。
やがて広元の意識が、急速に記憶を取り戻し始めた。
そうだ。居巣に着いた直後賊に追われて、己は瘡を負ったのだ。
そして見知らぬ武士に、救われた……?
「……」
共にいた珖明はどうしたのか。
最後に顔を見たとき、怪我はないと言っていた気はするが……。
まずは身を起こそうと、動いた途端。
「うっ! 痛う」
左上半身に走った激痛に、広元は左右眉を激しく歪めた。
肩と脇腹。……ああ、そうか。
動かせる右手をどうにか這わせ探ると、瘡は二箇所とも、丁寧な手当てがされていた。
痛みに抗って、懸命に身を動かそうとする。が、どうにもならない。
何日か身体を固定でもされていたのだろうか。全身が牀に張り付いたようだ。
「まあ! お目覚めになりましたか?」
不意にした声方向に、広元は首を回す。
「丸三日間も高熱でうなされていたのですよ。一時はどうなることかと。本当によろしゅうございました」
室に入って来た、膨よかな体つきの中年の女。
丸みある声色で広元に語りかけ、盆上に持ってきた小さな器を、枕辺の卓に置く。
「お気が付かれたのであれば、まずはお薬を。痛みが楽になります」
女は広元の首筋を支え起こし、匙を使ってゆっくりと口に含ませた。
かなり苦いその薬湯を、広元は時間をかけ服み下す。
「……かたじけない」
礼を述べた広元は、苦みのせいもあって幾度か咳き込んだ。詰まらせた喉から、懸命に声を絞り出す。
「あの……友がひとり、一緒にいたはずなのですが」
ここが何処か、彼女が誰かより先に、その確認への気持ちが早る。
女は空器を卓に置き、広元の頭を優しく寝かせ戻しながら、ふわりと笑んだ。
「お連れの方も、別室でお眠みになっておられます。あなた様の熱が引かぬ間、ずっと休まず付きっきりでおられまして。昨夜半、容態が落ち着かれたとのことで、やっとご自身もお眠みになられたのですよ」
「……」
「お気が付かれたと、こちらの旦那様にお伝え致しましょう」
珖明の所在を知って取り敢えず安堵を得た広元は、ふう、とひと息吐いてから、あらためてこの状況を考えた。
彼女は身なりから察して、おそらくこの家の下女と思われる。
言葉遣いから所作から、よく出来た資質だ。下は上を語る。今彼女が言った『旦那様』は、こういう下女を従える格の人なのか。
あれからどういう流れで、こうなったのだろう…?
ともあれ、この邸の主人が己の手当をしてくれたことは理解する。
「多大なお世話をおかけいたしました。それで……失礼ですが『旦那様』とは」
女はより目を細め、口許を綻ばせた。
「はい。魯子敬様、でございますよ」
◇◇◇
「おやあんた、魯粛の本家、魯氏を知らんのかい。下邳国東城県(安徽省滁州市定遠県)の魯氏といやぁ、素封家(財産家)として知られる、徐州南部じゃ一番有名な豪族だよ」
旅途中の逆旅(宿)でたまたま居合わせた、徐州下邳国出身の船乗りが大仰な声を上げる。
広元が、魯粛、字を子敬という人物の名を耳にしたのは、その船乗りからが最初であった。
「ははあ。そんなに大金持ちなんですか」
豪族というものに対する広元の認識といえば、地域利益を搾取する守銭奴印象が強い。しかし船男によれば『魯氏はその辺の豪族とは毛色が違う』と言う。
「魯氏の名が最近やたらと広まった理由はさ。父親が逝って家督を引き継いだ若当主、魯粛からなんだよ」
三十代半ばほどに見える船乗りは、教えてやろうとばかり、得意げに手首で鼻を撫で上げ、語り始める。
「魯粛は二十代の若さで富豪家を継いだ。で、彼が当主になってまず何をしたかってえとな。本筋家業はそっちのけして、有り余る家財貨を郷里の貧しい庶民に惜しみなく施し放出する、ってことを繰り返した。それこそ私有地を売り払うまでしてね」
「売ってまで? それはまた奇特な」
儒教を国教としている国であるから、そういった話は度々聞くものの、魯粛の例は極端だろう。
他人から見れば善行にしろ、身内にとっては本音、有難くないことかも知れない。
「その上にだ。本人は馬術、剣術、弓矢が大好きで、挙句、身近な若者を集めた私兵団まで作っちまって、独自の軍事訓練に明け暮れた」
「私兵団ですか。まあ、それほど武を好む商人なんて、確かにそう多くはないでしょうねえ」
見方によっては、かなりな危険人物ともとれる。
しかしながら、施与に励んできたという姿勢から考えると、単なる武芸好きからやっているわけではないかも知れないな、とも広元は思った。
船男は杯を手に取る。
「そういうあんまり度を超えた奇抜行動に、周囲連中は魯粛のことを指して『魯家にとうとう気狂いが出た』と揶揄したんだと」
そこまでを語って杯をグイと空け、手持ちの竹筒から酒を注いでまた一気にあおった。
すでに目が若干泳いでいる。今日は非番なのだろう……いやそうでないと、これから船を利用する予定の客側としては困る。
「おれゃあ同じ下邳でも、魯氏の地元の東城住まいじゃなかったからな。そこらへんの話は、下邳からここへ移った後、人伝に聞いたんだがね」
顔に濃朱をさした船乗りは、広元という熱心な聞き手を得て、だいぶ上機嫌になっているようだ。舌にさらに油がのる。
「さて。当初は変人がられた魯粛だが、実は結果的に得難い別財産を得ていたのよ。ほら、世人の言う信頼とか人望っていうやつだ」
「なるほど」
「実際魯粛の名は名士として東城県外にまで広く伝わった。それで大貴族・袁氏の有力者の袁術から、とうとう東城県の県長(知事)までも任じられたんだぜ」
「県長? いきなり?」
官吏(役人)になるためには、一般的に孝廉を経る必要がある。
その孝廉資格を得るのにさえ、士大夫(支配階級)家系でもない者となると、地方の属吏(下役人)から始めて十年ほども、コツコツと実績を積まねばならない。
いくら素封豪族でも身分は低く若い魯粛にとって、故郷の県長という官吏職就任は異例であり、名誉ある出世話であっただろう。
「ところがだ! こっからがまた驚きよ」
酔いの補佐を得た船男は、ここだとばかり自身の腿を打つ。
「魯粛はな、なんと大胆にもその任官を断った。しかも何を思ったか、一族と遊侠者を三百余名も引き連れて、故郷の徐州東城から隣の揚州へ、強引に移住しちまった!」
痛快そうな声が昂ぶる。
「理由がまた凄い。『袁術を酷く嫌ったから』だと。信じられるか? あの袁術をだぞ」
「え!?」
ここまで比較的落ち着いて聞いていた広元も、これには思わず高い喫驚声を返した。
袁術は後漢王朝の名門中の名門・袁氏の御曹司で、東城界隈の実質的支配者である。身分格差の明瞭な社会構造、常識からすれば誰も逆えない相手なのだ。
船男は、魯粛の起こした事象の具体的詳細を付け加えた。
魯粛一行が揚州を前にした川を渡河する際、岸まで追ってきた袁術配下の一軍に、魯粛は自身の弓技まで披露して凄み、高らかに説諭。
遂に、争うことなく追い返してしまったのだ、と。
「だから魯粛の武勇伝は、今じゃあの辺り一帯で、語り草になってるのさ」
『稀代の変わり者』
魯粛は東城界隈の人々の間で、本人の去った今でも、そう渾名されているらしい。
「まあ、確かに奇天烈な男だがね、やることは一端の武将並みに思い切りがいい。こんな時代に合った相当な大物かも知れんと、おれゃあ思うね」
同郷人のことを語る男は、真っ赤に染めた顔に誇らしげな面様を浮かべて、竹筒の残り酒を空けた。
―――― 下邳国……徐州か。
その場にゴロリとくたばり、大いびきをかき始めた男の脇で、広元は思惟した。
船男と魯粛の故郷である下邳国(国は郡と同等)は、広元の目指す居巣より北位置にあって、徐州に属す。船男が現在働いているこの場所からは、そこそこに距離のある地だ。
男の口振りからして、彼が今でも、故郷の下邳に強い愛着を持っているのが伝わる。
……それでも男は、その故郷を離れたのだ。
そうなった経緯の推測は、他州人の広元にもそれほど難しくなかった。
下邳国は例の徐州大虐殺の、まさに中心地なのである。
―――― 魯粛が徐州を出たのも、そのためだろうか……?
それにしても、一族一派それほど多くの民を引き連れ、しかも追手兵を振り切ったとは。とても常人の行動とは思えない実行力である。
魯粛。
まこと、興味深い人物。
―――― 会ってみたい。その『稀代』に。
それは思いつきの望みのようで、実は不可能でもないことを広元は知っている。
船男がもうひとつ、重要な情報を与えてくれていたからだ。
「聞き伝えだけどな。東城を出て揚州に渡った魯粛は、居巣方面に向かったらしいって話があったな」
司馬徽から広元が受けた一声目の地名、居巣。この旅の第一目的地であった。
ややざっくりとした範囲とはいえ、居巣は襄陽より小さな県、何がしかの繋がりが得られる可能性もあろう。
そこはさておくとして。
そもそも広元達は広い江東の中で、何故に居巣を目指しているのだろうか。
師に焚き付けられて始まった広元の遠路旅は、単に彼の江東方面への向学心を満たすことだけが、目的ではなかった。
広元は司馬徽を通し、ある〈依頼〉を請け負っていたのである。
<次回〜 第51話 「龐氏の尋ね人」>
【用語解説】
◆儒教:孔子の教えを基にした宗教的な側面や倫理的な教え。
◆県長:中小規模県を統治する官吏。




