第49話 水鏡(すいきょう)先生
「きみは、居巣という地を知っているかね?」
広元が、襄陽で新たに通い始めた私塾の師・司馬徽から声を掛けられたのは、宛の乱が起きた同年の五月中頃であった。
「は、はい。居巣ですか」
言葉を交わしたことのない師からの、唐突な問。
広元はやや上擦った声で答える。
「地名と、地図上の位置だけは。江水系の湖、巣湖の東辺りにある、廬江郡の県ですね」
「ほう、知っておるか。好々」
司馬徽はにこにこと頷いた。
『居巣』という単語を広元が耳で聞き、また自ら口にしたのは、それが初であった。
広元と居巣とのつながりは、師とのこの会話から始まる。
……ただしその話の前に、広元が諸葛遺児のふたりを伴い襄陽に戻った時点から、語らねばなるまい。
司馬徽との会話に先んずること、三ヵ月前の二月。
戦のあった宛から、単身でなく同伴者を三名も連れ帰宅した息子に、石家両親は当然ながら喫驚した。
「諸葛氏の子息か。……うむ」
石家の父は気を落ち着け、広元の経緯説明に耳を傾ける。
義子と養父という血はつながらぬ間柄であるにもかかわらず、堅実な儒者でもある石の父は、素晴らしく度量が広い人物であった。
生死を案じていた息子が生還したことを何より喜び、また、不遇となった諸葛遺児を救った広元の行動を、しかと認めてくれたのだ。
趙雲を送り出したのち、広元は両親の承諾を得て先ず、珖明と子玖それぞれのための仮住まい室を、家屋内に用意した。
現在たった三人になってしまっている石一家であるが、以前は(楸瑛も含めて)もっと同居家族が住んでいた建物。
決して広いとは言えぬまでも、室数には多少の余裕があった。
諸葛ふたりの、取り敢えずの落ち着き場所を定めた広元は、次にひとつの大きな選択をする。
それまで在籍していた郡国学を、中途で辞めたのだ。
「漢の教育施政は、たしかに過去の王朝よりも飛躍的に充実したものだし、素晴らしいと言っていいと思う。……でも」
広元は、穎川時代からの幼馴染、徐福に本音を語る。
「でも、泰平と言えなくなった今となっては、残念だけど、本質的な機能を失いつつある制度だ。これからは、治世下の感覚では通用しないだろう」
初めての戦体験を経た広元の胸中には、己が学ぶべきと感じる別の形が、はっきり芽生えてきてしまっていた。
頭での理解と現場の実際。その差は動乱世になればなるほど大きい。
宛での体験で、広元はそこを決定的に見せつけられた。
机上の学問や知識は必須でも、それらは実地で活用出来て初めて、本物の価値を持つ。
王朝の施く公的教育機関にだけに身を置いていることは、極めて無防備というものではないか。
そこで関心を寄せたのが〈私塾〉の存在たある。
公教育とは別に、私塾が大流行りとなっていた。広元の周辺でも、通塾者が激増している。
私塾を開くことの出来る師は元々高名な儒者であり、中央政界との太い繋がりを持っている事例が多い。
名家に生まれついてもいず、特段の縁故も持たぬ一般の若人達にとって、それは自身の未来を築く、数少ない手段なのである。
「先生の覚えがめでたければ、思わぬ出世が出来るやもだぞ」
若者は期待に胸を膨らませ、人気塾を選んでは通いに精を出す。
殊に戦乱世となった昨今では、各地の戦禍を避けて、『比較的安定した地』と言われる荊州へと流入する学士数が、夥しい数にのぼっていた。
広元の選んだ塾師である襄陽の大学者・司馬徽も、そんな移入者のひとりだ。
襄陽の高名な月旦(人物鑑定家)、龐徳(龐公)から『水鏡』という号まで得た司馬徽の私塾は、短期間で、襄陽でも指折りの有名塾となっていた。
「いい選択じゃないか」
司馬徽の門を潜りたいと、広元から相談を受けた徐福は、感慨深げに頷く。
「水鏡先生は頭抜けた素晴らしい方だ。吾も先生に人生を救われたからな」
任侠心から殺人を犯し、囚われた獄牢から仲間内に救出されたという破天荒者の徐福は、その事件にて自らに思うところがあり、司馬徽の門下生となった。
その後本人が励んだ不断の努力により、いまや高弟とされる位置付けになっている男だ。
「広元、きみなら水鏡先生からの学びを、人並み以上に活かせるだろう。歓迎する」
「はは、大袈裟な評価だな。でもありがとう。元直(徐福の字)に追いつけるよう、努力するよ」
こうして広元は、司馬徽の門生となったのである。
人気私塾では、よほどの優等生として高弟にでも昇格しない限り、一般門弟が師と直接触れる機会など、基本無い。
徐福のような立場にいない門弟達は皆、
『先ずは師に名と顔を結び付けて貰うだけでも』
と、日々懸命に励んでいる。
「知ってるか、広元。水鏡先生、実は少傅(皇太子の教育係)であったという話だぞ」
噂好きの同門生が、実しやかに舌を湿らせる。
師に中央での伝があったりすれば、弟子の孝廉(地域から推挙される制度)推挙とて夢ではない。人生の扉が大きく開かれる一大事であった。
さて、そんな塾内での広元はといえば。
勉学には人一倍熱心なものの、もとより出世目的で司馬徽の門を叩いたのではなかったから、そちら方向への野心を、呆れるほど持っていない。
第一まだ新入過ぎて、師との関係までになぞ、意識が回らなかった。
そんな広元がどういうわけか、雲の上の存在とも言ってよい司馬徽の方から、
「きみは、居巣という地を知っているかね?」
などと、突然語りかけられたのである。
驚きとともに、いくら無欲の広元でも、さすがに抑えられぬ高揚感を持った。
「居巣県のある廬江郡は、現在袁術の支配下にあり、江東情勢とも絡んで、何かと不安定だと聞き及んでおります」
司馬徽との直接会話はもちろん初めてだ。
光栄だと感じるも、ただし、師がこちらを誰と認識して話しているのか、広元には判断が付かない。
「……ふむ」
司馬徽は思案気に、疎らな顎鬚を撫でた。
立場や話し振りから誤解されがちだが、この司馬徽、実はまだ二十代である。
「きみは、江東方面に強い興味があると聞いたが、そうかね?」
「! ……はい」
どこから聞いたのかはさておき、間違ってはいなかった。
つまり師は、きちんと広元に対して、話し掛けてきていることになる。
多くの門下生、しかも新入りである広元を認識しているというのは、広元が司馬徽と同じ潁川からの移住者だからか、広元の父の知人である龐公つながりからか……。
いずれにせよ、広元は自身にとって沸き立つ話題に、陽として明答を続けた。
「この国は、常に河水(黄河)を中心に文明が発展して来ましたが、これからは江東も含めた江水方面にも、目が向く時代になるかと思います」
『江東』とは江水下流域を指し、漢の地方制度区分でいう揚州にあたる。
広元が江東という地を強く意識し始めたのは、子玖から聞いた話 ―― 江東に行ったという子玖の従兄、諸葛瑾のことを聞いてからだ。
それまで、中原と称される中国のごく中心部しか知らなかった広元にとって、遠い風伝に聞く未知の江水流域世界には、若い好奇心を掻き立てる響きがあった。
以来広元は、江水地域への興味を膨らめている。
「ほう、江水方面。そうか。好々」
新入門下生の明瞭な解釈を聞き、師は上機嫌で肯く。
この『好』というのが、司馬徽の口癖らしい。
司馬徽は、やや悪戯っ気も含んだように細めた眼で、広元が思いも掛けないことを提案した。
「行ってみたくはないかね、江東に。広元くん?」
<次回〜 第50話 「稀代の変り者」>




