第48話 白霧
中国の母なる川、河水(黄河)。その河水よりも大河川である江水(長江)は、漢時代の政治中央地・中原からは遠い。
そのため江東江南と称される江水下流域も、王朝の管轄下にはあれど、重要性の認識はまだ薄かった。
後漢末の混乱期、江東で立ち上がった『江東の虎』こと、孫堅の率いる孫氏によって、その地は、中原に対峙する大きな脈を打ち始める。
孫堅の唐突な死の後、嫡子の孫策が父を凌ぐ彗星の如き活躍を見せ、江東の存在感は増していった。
しかしながらその孫策も二十八で横死。江東の勢いは、一気に失速してしまう。
……かに、見えたのであるが。
虎は、死さなかった。
かつて江水中下流域を支配していた大国・楚の記憶遺伝子を受け継ぐ者達は、来るべき時期を見据えてじっと息を殺し、己が爪を研いでいたのである。
そんな南東の大地に、遠く荊州の地より訪れたふたりの青年が、今、足を踏み入れていた。
……
まるで、白い液体の中を踠き息喘いでいるようであった。
重さを感じるような空気が、追手から逃げ走る青年の身体を押し戻そうとするが如く、ひたすらまとわりついてくる。
「二手に別れたか? ったく、ひでえ霧だ、一寸先も見えやしねえ。獲物ら、どこ行きやがった」
青年の耳に、背後で彼を探しまわる複数の男の声が届く。
―――― まだ、近い。
空気中の水分に反響してか、発声場所がはっきりしないが、逃げおおせると言えるほどの距離は、取れていないと思われた。
つかえる呼吸に苦しみながら、青年はひたすら脚を前へ繰り出す。
寒い朝であった。
早朝だからとしても、秋にしては異常な低温。昨日に比しての急激な温度差からだろう、未明に発生した濃霧が、四方八面を覆っている。
東空低くから射し始めたばかりの陽光を受け、辺りはほんのり明るくなっていた。
にもかかわらず、視界はほとんど効かない。ただただ、真白な闇が地上を覆うばかりである。
追われている青年の左肩、そして左脇腹には、赤黒い血が滲んでいる。
―――― 肩はともかく、脇腹はまずいか。
彼はいったん、死角になりそうな草陰に身を置いた。
手持ちの布で取りあえず瘡口の止血をする。思いの外出血していたが、『ここを逃れなければ』という意識が先立っていて、痛みを感じる余裕がない。
応急処置を終え、青年は息を殺したまま周囲の気配を窺った。
―――― 珖明はどこだ……無事だろうか。
彼、石韜、字(通り名)・広元は、一緒にいたはずの友人、諸葛亮の安否を案じた。『珖明』は諸葛亮の字だ。
建安二年(西暦197年)仲秋八月。
広元は揚州廬江郡居巣県(安徽省巣湖市)にいた。
居巣は大陸の南東方角に位置し、中国きっての大河、江水(長江)の下流域に入る地である。
広元と珖明は、荊州南郡襄陽県(湖北省襄陽市)からの遊学書生として、この地を訪れていた。
居巣は襄陽からかなり遠方地。ふたりは長旅の末、やっと目的地であるこの居巣に着いたばかりのところを、折悪しく、野盗に襲われてしまったのだ。
―――― まったく……護衛が一番、逃げ足が速いとは。
居巣に入った時分の彼らには、もう一名、襄陽から一緒だった専属従者がいた。
従者は護衛役も兼ねていたはずであるのに、この肝心の場でその者は、なんと広元達を放り、いち早くどこぞへ消えてしまった。
広元も刀を振りまわす相手から必死に逃げているうち、いつの間にか珖明ともはぐれてしまった、という現状である。
隠れている広元の脇には、じっとりと汗が滲んでいる。賊が複数であるというだけでなく、自身の武の腕がはなはだ心許ないことを、彼は充分自覚しているのだ。
―――― 元直が一緒なら、よかったんだが。
速まる心悸に堪えながら、広元はこの場にいないもうひとりの友人を思い浮かべ、口中で嘆いた。
『元直』とは、広元と同世代旧友の字で、姓名は徐福という。
普段、謙虚姿勢を貫いている徐福は、知る人ぞ知る剣撃名手であった。過去には持ち前の任侠気質も手伝って一度人を殺め、投獄された経歴まである曰く付き者だ。
徐福と広元とは穎川での幼馴染で、この夏の終わりに襄陽を共に出発した、旅の連れ仲間であった。
徐福には広元とは別の目的地があって途中で別れたため、居巣には入っていないのである。
徐福連れだったときには、皮肉にも、さして危険な目に遭わなかったというのに。
―――― ……まいったな。
落ち着かせに、広元はあえて若干、軽妙な口振りを心中に呟いてみる。
護衛の任務放棄にも、元直抜きで賊に出くわしたことにも恨み言は尽きない。
今が不運なのか、これまでが幸運だったのか……。
ふと、ひとつの単語が彼に過った。
〝 末造〟……つまり〝 時代の末期 〟
ここでいう時代とは、繁栄を極めたひとつの大きな時代、すなわち、四百年の栄華を誇った漢王朝を指す。
その支配が遂に、終焉を危惧させる様相を態しているのだ。
巨大反乱組織・黄巾がやっと平定されたというのに、一度うねり出した大波は、鎮まることを知らなかった。
触発された者たちが、国中のいたる地にて、大小きり無き数の禍乱を勃発させている。
すでに法も人道も秩序基準は消失し、あらゆるものが野放図な世相であった。
暗道なら当然警戒するのだが、夜も明け、辺りが白み出した時刻だったことで、多少油断したかも知れない。
……とにもかくにも。
―――― 無いものを強請ったところで詮はなし、だ。
気を無理やり奮わせ、広元は腹底深くまで入れた吸気を、音を出さずに吐いた。
どうにかここを乗り切って、早く珖明を見つけねば。
ザザッと、草を踏む音がした。
「……!」
人の近付く気配。広元は身を硬化させる。
間を置き慎重に周囲を確認しつつ、脇の瘡口を抑え、そろそろと這って移動した。
一歩、二歩……三歩目を出そうとした、矢先。
がさりと目の前の草を分け、四本の足が広元の前を塞いだ。
「こんなとこに隠れてやがったか。柔な見かけにしちゃあ、意外にしぶとい野郎だな」
まるで喉にいがついたものが詰め込まれているごとき濁声。長刀を手にした賊男がふたり、悠々、広元を見おろしている。
「……」
広元の脳天から、冷えた血が走り下りた。
野盗の目的は言わずもがな、金品強奪にある。
ならばもとより、若く地味な旅姿書生に襲うほどの資産持ち合わせなどないことは、少し考えれば容易にわかるだろう。
しかし賊が狙うのは、金品だけとは限らない。人身売買が極日常の世界、〈人〉そのものも売り物に出来るのだ。
そちらが目的であれば、当然命までは取られない筈なのだが……。
「うぬの片割れ、さっき仲間に大怪我を負わせやがったな。……てぇした度胸だ」
縦にも横にも大きな体躯の賊男は、忌々しげに、ちっ、と横唾を吐く。
「簡単に済む仕事を、やたら手こずらせやがって」
男の語調と目端にこもる、理屈の通らない殺気。
どうやらこの二名、今回は何もかもが面倒になったようである。
賊を見上げる広元の胃の腑あたりを、きりきりと絶望感が締め上げた。
―――― 護身術でも、もっと真面目に習っておくんだった。
広元とて、自衛のための匕首(短刀)くらいは身につけている。
かといって、こんな場面で役に立つ様な使い方を知らなかった。逃げようにも、こうなっては腰が上がらない。
賊男は重量ある体躯を揺らしつつ、無頼者の名刺を顔に貼った人相に、さらなる残酷な憫笑をのせて獲物に迫り寄る。
「運が無かったな、若造」
男は右手の刀柄を握り直した。賊男の頭にはもう、事が自身の予定通り運ばなかったことへの腹いせしか、存在しないのだ。
ふん、と鼻を鳴らした賊の長刀が、高く振りあがる。
「――!!」
悲鳴も出せず広元は反射的に目を閉じ、両腕で頭を覆った。
「ぐあ……っ!?」
踏み潰された蛙が張り上げたまがいの、異様な音声。
続き、ズン、と低い音。
「んぐ、ええっっ……」
奇声がもう一度。
長刀を振り上げた格好のままの賊相男の巨体が、広元の方向に、どうんっ、と音を立て、前倒しに地を打った。
「……!?」
倒れた賊の背に、二本の矢が突き立っているのが、頭を覆った広元の腕隙間の眼に入る。
後方にいた男の後ろで、何かがきらりと鈍く光った。気配に背後を振り返ろうとした後方男の、
「な、何――」
漏れた言の葉が終わらぬ瞬息、男の体は右腰から横薙ぎに、一気に両断された。
吹き出た鮮血が、宙に太く長い帯を引く。
……
何が、起きた……?
目前の寸刻劇を理解できぬまま、広元は呼吸も忘れて固まっている。
「……」
腕を解いた広元の目に、最初に入った光景。
倒された二つの塊のすぐ後ろ、白靄に揺れる人影がひとつ、払ったばかりの直刀を手にして立っている。
霧が濃く、貌は明瞭には確認できない。それでも辿るその身体輪郭から、一般人とは一線を画す偉丈夫なのが判る。
輪郭影は、たった今己が切り捨てた二つの塊を跨いで広元の足元に寄り、片膝を付いた。
「瘡を?」
「……」
落ち着いた口調から、とりあえず敵ではないらしい、と広元は察する。
次に広元の両眼がとらえたのは、精悍な若い男の容貌だ。
「……あ……の」
呆然としながらも返事をしようとしたとき、右側から草音とともに飛び出してきた、別の細い影が広元に走り寄り、彼の肩に手をかける。
「あ……珖明!」
友人を認めて、広元はそちらに声を発した。
「珖明、大丈夫、か。怪我は、ないのか?」
話す息が切れる。
「ない。それよりきみだ」
広元の肩瘡の止血布は、血で黒々と湿っている。思いの外、肩の出血量が多いようだ。
賊から助かったらしいことと友人の無事を知り、張っていた気の糸が切れたのか、広元は急に体が、ずしりと重くなるのを感じた。
目の奥がぐるりと回る。珖明の自分を呼ぶ声が、次第に遠くなっていく……。
広元はそのまま、気を失した。
<次回〜 第49話 「水鏡先生」>
第二章のスタートにお付き合いいただき、ありがとうございます。
前編は映画「レッドクリフ」の舞台、三国時代の一国となる「呉」の地での物語です。
三国志でも描かれることの少ない呉での、主人公達の青春をご堪能ください。
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【用語解説】
◆漢王朝:秦王朝が倒れた後に劉邦が創立した、中国初の長期統一王朝。前漢と後漢に分かれる。
◆州・王国・郡・県:漢代の地方行政区分。
◆字:姓名とは別に持つ、通常時に使用する呼び名。
◆諱:本名。他人が相手を諱で呼ぶのは禁忌。
◆巣湖:安徽省合肥市にある、中国第5位の大きさの淡水湖。
◆黄巾:184年に、太平道の信者が教祖の張角を指導者として起こした、組織的な農民反乱。




