表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
46/63

第46話 曙光(しゃっこう)〈1〉

 眠り続ける珖明は、翌日も、翌々日も目を覚まさない。

 居合わせる誰にも医学知識はなかったが、発熱もなく呼吸も乱れてはいないことで、病の兆候はないと考えるしかなかった。


 ―――― せめて水分だけでも、少しはとらせないと。


 そう広元は思うものの、珖明はいくら揺り動かしても目を開けず、死んだように眠るばかりである。


「大丈夫だよ、子玖しく。永い地下生活で、極端に体力消耗をしているだけだから」


 気が気でないといった子玖を広元はなだめ、自身は珖明から目を離さぬよう、夜には同室で寝んだ。

 

 三日目の夜。

 広元が目を覚ましたのは、夜明け少し手前であった。外はうっすらと、夜明けを迎える明るさを帯び始めている。


 ―――― 卯初うしょ(午前5時)を過ぎた頃か……。


 ぼんやりと隣に眼をやった彼は、そこでがば、と跳ね起きた。


「しまった……!」


 いたはずの眠り人が、しょうから消えていたのだ。


 ―――― いつ、出ていった!?


 ふすま(夜具)を手で探ると、まだ温かい。


 広元は夜着姿で室を飛び出し、くつも半ばきで屋外へ出た。


 龐聚ほうじゅおくのすぐ脇には、小さな沢が清流の心地良い音を立てて流れている。

 その沢をまたぐ短い橋を渡り、広元はくらさの中を必死に見回した。


 ―――― まだ近くにいるはずだ。


 下手に名を叫ぶと、遁走とんそうしてしまうかも知れない。

 気遣いながら、彼は周囲に目を凝らす。


 夜間から早朝にかけては、多くの動物の動きが活発になる。

 最大獣である熊は、冬眠からまだ覚めやらぬ時期であるはず……といっても、個体差があるだろう。猪や猿とて、充分に危険だ。


 朝鳥たちの盛んに交わし合う鳴き声が、森林にこだまする。

 東空が、春先の風に誘われるように、下方からゆっくりと白み始めた。


 仄昧ほのぐらさに慣れてきた広元の視力が上がっていく。……そして。


「……!」


 四丈ほど離れた樹々の間にとらえた、細白い背影。

 ……珖明だ。


 ―――― よかった……。


 取りあえず胸をなでおろすと、広元は急ぎつつ静かに、そちらへ近付いていった。


 ほぼ追いついたところで、珖明の足元を見留めた彼は驚く。

 珖明は素足であった。しかも寝姿の単衣のままだ。いくら春でも早朝、それでは身が凍える。


「……珖明」 


 二、三歩分離れた後ろ位置から、出来るだけ柔らかくした声色で話し掛ける。


「素足では怪我をするぞ。この山は獣も多くいる。陽の無いうちは危険だ」


 広元が追いつくより少し前から、珖明は歩みを止めていた。

 けれども、一度も振り返らない。


「……」


 立ち止まったふたりに流れる、曖昧な沈黙。それを眺めるようにそよぐ風が樹々を揺らせ、葉が擦れ合う音を奏でる。


 振り向いてくれない珖明の表情は、広元にはわからない。ただなんとなく、それほど尖った気配はないように感じられた。

 

 広元はさらに、珖明の反応を見守る。

 ゆっくり、十数呼吸……。


 やがて諦めた。どうやらいくら待ったところで、相手は動きそうにない。


 ―――― 三日間も意識不明だったんだ。


 やっと目覚めたというのに、これではまた倒れてしまう。

 ……しかたない。


 「とにかく戻ろう。体が冷えてしまう」


 強引にでも連れ帰ろうと広元が腕を伸ばし、珖明の左肘に手を添えたその ―― 途端であった。

 珖明はにわかに身を翻したかと思うと、差し出された広元の腕を、強烈な勢いで振り払った。


 ピシリ、細い笞で打たれたような痛みが広元に走る。


「……!?」


 突然の激しさに広元は反射、半歩後ろに引く。


 目前にある眼光が、刺し貫かんばかりの鋭さでこちらを射抜いていた。


 ―――― 珖明……。


 投げられた眼差しの意味。それがわかる広元の、居た(たま)れぬ自責の念。


 ああ、そうだ。じぶんは一度逃げた。あれは切り捨てたと同じ、この上なく卑怯な所作。

 ……だから。


 ―――― もう、繰り返さない。


 此度は攻撃視線から自身を逸らさせず、広元は真っ直ぐ、身に受けた。


◇◇◇


 珖明の、厳しいひとみ奥にあるもの。


 ―――― 怒りとは、少し違う。


 放たれているのは、強い拒絶意志。

 あるいは……芯部に怯えを含んでいるようにも、広元は感取する。


 差し向かう、眸と眸。

 やがて広元は、珖明の手が自身の衣襟を鷲掴んでいる事に気付く。


 そうだった……先にそれを、話さねば。


「珖明、きみの衣の替えは……ぼくがひとりでやった。仕方なかったんだが、でも……すまなかった」


 他人の、ましてや男にされた扱いを、どうとらえられたか、想像さえ苦しい。

 だがこれは隠し通せないことだ。


「他の者には、何も知られていない。……子玖にも。きみを城からこの屋まで運んでくれたのは子龍どのだ。彼もここに一緒にいる」


 趙雲に抱え運ばれた記憶は、珖明にないだろう。


「きみと子龍どのとの過去経緯は、彼が話してくれた。ただし彼は地下の存在は知らない。……それから」


 広元は下唇を噛み、声を絞り出す。


「錫青はぼくを邸広間口まで導いて……そこでたおれた。体を運び出すことが出来ずに……炎の中に残してきてしまった」


 あの場における己に、対応できる方法はなかったとはわかっている。

 それでも湧く無念さと罪の痛みは、薄らぎはしなかい。


「力が足らず、可哀想なことをした。本当に……すまない」


 悲痛に喘ぐ、真直な告白。


 珖明は張った姿勢を崩さず、黙したままだ。

 されど……その眸からは、とがりが急速に引いていく。えりを掴んだ手を緩め、諦めたように目蓋まぶたを半目閉じた。


 再び広元に背を向けた珖明は、すぐ右横隣にあった樹の幹に、体をもたれさせる。

 数度の、密やかな息づき。

 やがて……抑制した、だが確と伝える力を持った声音で、厳しい問を投げた。


「何故、あそこからわたしを連れ出した」

「……」

「すでに察していたはずだ。何があったか。それまでの地下での有りていも」


 広元に対し微かな呆れも込めた、どこか言い聞かせている風でもある、落ち着いた語調であった。


 ――――『何故』……。


 必ずしも予想していなかったものでもない問への返答に、広元もまた、深い間を置く。


「……」


 細い鳥声が(こだま)する中で、広元はこれまで自らを束縛していた数々のおそれを捨て去り、己の心と、真直まなおに向き合おうとしていた。


 珖明、この人は……(じぶん)にとって、いったい何者なのか。


 じかに知ってしまった、珖明に関わる多くの事実。

 広元の知る範囲だけでもそれらは極めて残酷で、悲痛というには余りある現実であった。

 そこに救いを見いだすことなど、常識感覚からすればおよそ、出来はすまい。


 しかしながら……このときの広元には、奇妙にもまず先に、ある安堵感が生まれていた。


 闇と炎の中、全身を血色に染めた放心状態の珖明を発見した衝撃。

 そのまま意識不明で目覚めぬ姿。

 それらを目撃してきた広元は、胸奥で


『今度こそ、珖明の心神は壊れてしまったかも知れない』


 そんな絶望的憂懼ゆうくを、つい先ほどまで抱いていたのだ。

 まだ十代の身、そうなっても不思議ではない過酷状況を、珖明は経ている。


 ……にもかかわらず。

 目の前にあるこの者は、なお、自身を失わぬ精神力を維持している。


 ―――― ……つよい。


 それは生への執着とは別の、尋常でない強靭さ ――〈生きる力〉を、持っていると言えるのではないか。

 ……


 口を開かぬ広元に、珖明は重ねて締めるように、言い切った。


「これ以上かかわることはない。わたしは……そなた達とは、共には生きられぬたぐいの者だ」


 硬く乾いた声が自身に下す、冷たい結論であった。



<次回〜 第47話(第一章最終話)「曙光〈2〉」>

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ