第46話 曙光(しゃっこう)〈1〉
眠り続ける珖明は、翌日も、翌々日も目を覚まさない。
居合わせる誰にも医学知識はなかったが、発熱もなく呼吸も乱れてはいないことで、病の兆候はないと考えるしかなかった。
―――― せめて水分だけでも、少しはとらせないと。
そう広元は思うものの、珖明はいくら揺り動かしても目を開けず、死んだように眠るばかりである。
「大丈夫だよ、子玖。永い地下生活で、極端に体力消耗をしているだけだから」
気が気でないといった子玖を広元は宥め、自身は珖明から目を離さぬよう、夜には同室で寝んだ。
三日目の夜。
広元が目を覚ましたのは、夜明け少し手前であった。外はうっすらと、夜明けを迎える明るさを帯び始めている。
―――― 卯初(午前5時)を過ぎた頃か……。
ぼんやりと隣に眼をやった彼は、そこでがば、と跳ね起きた。
「しまった……!」
いたはずの眠り人が、牀から消えていたのだ。
―――― いつ、出ていった!?
衾(夜具)を手で探ると、まだ温かい。
広元は夜着姿で室を飛び出し、履も半ばきで屋外へ出た。
龐聚屋のすぐ脇には、小さな沢が清流の心地良い音を立てて流れている。
その沢を跨ぐ短い橋を渡り、広元は昧さの中を必死に見回した。
―――― まだ近くにいるはずだ。
下手に名を叫ぶと、遁走してしまうかも知れない。
気遣いながら、彼は周囲に目を凝らす。
夜間から早朝にかけては、多くの動物の動きが活発になる。
最大獣である熊は、冬眠からまだ覚めやらぬ時期であるはず……といっても、個体差があるだろう。猪や猿とて、充分に危険だ。
朝鳥たちの盛んに交わし合う鳴き声が、森林にこだまする。
東空が、春先の風に誘われるように、下方からゆっくりと白み始めた。
仄昧さに慣れてきた広元の視力が上がっていく。……そして。
「……!」
四丈ほど離れた樹々の間にとらえた、細白い背影。
……珖明だ。
―――― よかった……。
取りあえず胸をなでおろすと、広元は急ぎつつ静かに、そちらへ近付いていった。
ほぼ追いついたところで、珖明の足元を見留めた彼は驚く。
珖明は素足であった。しかも寝姿の単衣のままだ。いくら春でも早朝、それでは身が凍える。
「……珖明」
二、三歩分離れた後ろ位置から、出来るだけ柔らかくした声色で話し掛ける。
「素足では怪我をするぞ。この山は獣も多くいる。陽の無いうちは危険だ」
広元が追いつくより少し前から、珖明は歩みを止めていた。
けれども、一度も振り返らない。
「……」
立ち止まったふたりに流れる、曖昧な沈黙。それを眺めるようにそよぐ風が樹々を揺らせ、葉が擦れ合う音を奏でる。
振り向いてくれない珖明の表情は、広元にはわからない。ただなんとなく、それほど尖った気配はないように感じられた。
広元はさらに、珖明の反応を見守る。
ゆっくり、十数呼吸……。
やがて諦めた。どうやらいくら待ったところで、相手は動きそうにない。
―――― 三日間も意識不明だったんだ。
やっと目覚めたというのに、これではまた倒れてしまう。
……しかたない。
「とにかく戻ろう。体が冷えてしまう」
強引にでも連れ帰ろうと広元が腕を伸ばし、珖明の左肘に手を添えたその ―― 途端であった。
珖明はにわかに身を翻したかと思うと、差し出された広元の腕を、強烈な勢いで振り払った。
ピシリ、細い笞で打たれたような痛みが広元に走る。
「……!?」
突然の激しさに広元は反射、半歩後ろに引く。
目前にある眼光が、刺し貫かんばかりの鋭さでこちらを射抜いていた。
―――― 珖明……。
投げられた眼差しの意味。それがわかる広元の、居た堪れぬ自責の念。
ああ、そうだ。我は一度逃げた。あれは切り捨てたと同じ、この上なく卑怯な所作。
……だから。
―――― もう、繰り返さない。
此度は攻撃視線から自身を逸らさせず、広元は真っ直ぐ、身に受けた。
◇◇◇
珖明の、厳しい眸奥にあるもの。
―――― 怒りとは、少し違う。
放たれているのは、強い拒絶意志。
あるいは……芯部に怯えを含んでいるようにも、広元は感取する。
差し向かう、眸と眸。
やがて広元は、珖明の手が自身の衣襟を鷲掴んでいる事に気付く。
そうだった……先にそれを、話さねば。
「珖明、きみの衣の替えは……ぼくがひとりでやった。仕方なかったんだが、でも……すまなかった」
他人の、ましてや男にされた扱いを、どうとらえられたか、想像さえ苦しい。
だがこれは隠し通せないことだ。
「他の者には、何も知られていない。……子玖にも。きみを城からこの屋まで運んでくれたのは子龍どのだ。彼もここに一緒にいる」
趙雲に抱え運ばれた記憶は、珖明にないだろう。
「きみと子龍どのとの過去経緯は、彼が話してくれた。ただし彼は地下の存在は知らない。……それから」
広元は下唇を噛み、声を絞り出す。
「錫青はぼくを邸広間口まで導いて……そこで斃れた。体を運び出すことが出来ずに……炎の中に残してきてしまった」
あの場における己に、対応できる方法はなかったとはわかっている。
それでも湧く無念さと罪の痛みは、薄らぎはしなかい。
「力が足らず、可哀想なことをした。本当に……すまない」
悲痛に喘ぐ、真直な告白。
珖明は張った姿勢を崩さず、黙したままだ。
されど……その眸からは、尖りが急速に引いていく。襟を掴んだ手を緩め、諦めたように目蓋を半目閉じた。
再び広元に背を向けた珖明は、すぐ右横隣にあった樹の幹に、体をもたれさせる。
数度の、密やかな息づき。
やがて……抑制した、だが確と伝える力を持った声音で、厳しい問を投げた。
「何故、邸からわたしを連れ出した」
「……」
「すでに察していたはずだ。何があったか。それまでの地下での有り体も」
広元に対し微かな呆れも込めた、どこか言い聞かせている風でもある、落ち着いた語調であった。
――――『何故』……。
必ずしも予想していなかったものでもない問への返答に、広元もまた、深い間を置く。
「……」
細い鳥声が谺する中で、広元はこれまで自らを束縛していた数々の惧れを捨て去り、己の心と、真直に向き合おうとしていた。
珖明、この人は……我にとって、いったい何者なのか。
直に知ってしまった、珖明に関わる多くの事実。
広元の知る範囲だけでもそれらは極めて残酷で、悲痛というには余りある現実であった。
そこに救いを見いだすことなど、常識感覚からすればおよそ、出来はすまい。
しかしながら……このときの広元には、奇妙にもまず先に、ある安堵感が生まれていた。
闇と炎の中、全身を血色に染めた放心状態の珖明を発見した衝撃。
そのまま意識不明で目覚めぬ姿。
それらを目撃してきた広元は、胸奥で
『今度こそ、珖明の心神は壊れてしまったかも知れない』
そんな絶望的憂懼を、つい先ほどまで抱いていたのだ。
まだ十代の身、そうなっても不思議ではない過酷状況を、珖明は経ている。
……にもかかわらず。
目の前にあるこの者は、なお、自身を失わぬ精神力を維持している。
―――― ……毅い。
それは生への執着とは別の、尋常でない強靭さ ――〈生きる力〉を、持っていると言えるのではないか。
……
口を開かぬ広元に、珖明は重ねて締めるように、言い切った。
「これ以上かかわることはない。わたしは……そなた達とは、共には生きられぬ類の者だ」
硬く乾いた声が自身に下す、冷たい結論であった。
<次回〜 第47話(第一章最終話)「曙光〈2〉」>




