第44話 趙雲の告白〈1〉
夜半。
広元はひとり、龐聚屋の外に立っている。
見上げた真上の空は、夕暮れに雲の集まっていた地平近い空周辺とは対照的に、多くの星の光があった。
とはいえまだ西の城の火は収まっておらず、空気は薄い煙の膜を張られたように濁っている。火災特有の焦げた臭いが、風に乗ってここまで運ばれ、鼻をつく。
広元が決死の形相で馬を走らせて行き、日没後に見知らぬ一行を連れ戻ってきたのを、龐聚は驚きながらも迎え入れてくれた。
「なんとまあ……。広元、そなた実は無謀男だったのか」
龐聚は独特の呆れ口調をあてる。
もっとも、心中どこかで予想していたのかもしれない。広元から子玖たちの名を告げられても、龐聚は冷静さを保していた。
ただし、馬上の偉丈夫の腕に、気を失ったまま抱えられている血染め衣の者の姿には、さすがの偏屈男も、虚をつかれたような面様を見せた。
それでもひと呼吸を置き、
「まあ狭い場所だが適当に休んでくれ。必要なものは用意させる」
そう言うと、急な訪問者に食と寝床を提供するよう、下男に指示をした。
「申し訳ない、山民。言葉では薄っぺらいが……本当に感謝する。この恩は、いつか必ず返す」
広元は深々と礼をした。
ここまで必死で自覚できなかったが、受け入れられて一旦落ち着いてみると、龐聚に頼る己の行動が、ひどく身勝手な暴走ものであったことに思いが至る。
痛み入るばかり……しかもさらにもう一点、難解課題が残っていた。
―――― 珖明を、どう扱うべきか。
「……」
躊躇したところで、選択肢はない。
「山民。この上にわがままを承知で、頼みたい」
珖明の衣は血染まり過ぎている。
友への甘えに恐縮しながら、広元は『病人だから』という理由で、珖明のために別一房(部屋)を融通して欲しいと願った。
「ああ。狭いが、いいか」
頷いた龐聚は、他に何も訊ねなかった。
あてがってもらった房。
意識の戻らぬ珖明の身を拭いての衣替えは……己内で多大な葛藤を経た広元が、ひとりでした。
珖明にどんな意図があって、男の振りを徹底しているのかはわからない。しかし本人が口を聞くまでは、子玖も含めて外部には明かさない。
そう、広元は決めている。
「先生……姉上や叔父上は、どうされたでしょうか」
子玖が、当然ながら家族の生死を憂い尋ねる。
「うん……心配だけど今夜はもう動けない。明日から探そう。とにかく、一旦おやすみ」
諸葛玄の死。明日にも伝えねばならないだろう。問題はどう伝えるかだ……。
冷静さを失わずに話す己を模擬しながら、広元は子玖を寝かせた。
やっとひと心地つき、広元が外に出たころには、辺りはすっかり夜更けを迎えていた。
今宵は人生一長夜になりそうだ。
……
薄絹のような煙膜の上に瞬く星の下、彼は昼の記憶一連を整理している。
燃える邸で広元が目にしたもの。……あの広間で、何があったか。
逆らわずに判断すれば、諸葛玄を弑したのは、珖明以外にない。
―――― 動機なぞ、言うまでもなく充分にある。
とはいえ、体力的にも弱り切っている兵士でもない十七歳の、しかも女が、大の男をあれほど見事に殺害するなど、成し得るものだろうか。
諸葛玄の後首に突き立てられていた見慣れぬ細矢状のもの。あれは何だったのだろう?
自分は武器に詳しいわけではないから、知らずとも当然ではあるが……。
『うぬはいったい、真実は何者だ』
地下室で諸葛玄の放った衝撃の言葉が蘇る。
諸葛玄や章氏が、珖明を己一族の者ではないと疑っていたことは、すでに知っている。
そもそもそれは、どんな根源から来ているのか。
奇異な武器具、手練れ感さえあった殺傷能力と、何らかの関係があるのだろうか。
……しかし。
―――― ……いくら答えを望んだところで、ぼくにわかるわけがない。
それは広元にとって、謎以上のものにはならないのだ。
……
昼の強風の名残が吹き抜ける。
焦げ臭さは変わらずあるにしろ、若干和らいできたようにも感じた。
広元は両手を腰に当て、顎を上げて夜空と見合う。
―――― 珖明の素性や諸葛家のことは、いい。
そう……別にもう一点、広元の心を強烈に締め付けているものがあった。
―――― 炎のあの場で、珖明は……死ぬつもりでいた。
明白な想察。
玄の殺害は、ずっと以前から機を狙っていたことかも知れない。
目的を遂げた本人が切望したろう〈自死〉への想いから、自分は無理やり引き剥がし、地上に連れ戻したのだ。
それは果たして、『救った』と言えることなのか。……
「眠らぬのか」
落ち着いた声。武具を解き軽装になった趙雲が、いつしか隣に立っていた。
「広元どのも傷を負っているのだ。無理はせず休まねば」
龐聚屋に落ち着くまで自身でも気付かなかったが、広元も火傷や細かい傷を身体中に負っていた。重く痛むのは打撲だろう。
趙雲の気遣いに、広元は張っていた心持ちを和ませる。
「今日ほど、あなたに知り会えて良かったと思ったことはありません。……本当に救われました」
讃えられた武士は、謙虚な笑みの弧を口もとに作る。
「それはわたしとて同じだ。まさか、貴君が宛に戻っていたとは」
「……この機を狙ったわけではないのですが」
ばつが悪そうな、広元の含笑。
「それにしても、子龍様の勁さには驚嘆しました。まさに、戦神を見た思いです」
「はは。まあわたしは武で役に立たねば、存在意味がないからな」
趙雲は首筋に手を当て、いくぶんこそばゆそうにそこを摩った。
それから二人の間に、やや重い沈黙が流れた。
広元は趙雲に確認したい問がある。趙雲が珖明を瞬時に見分けたのは、単なる記憶眼だけだったのか……。
先に口火を切ったのは、趙雲。
「広元どのは、昨年から知っていたのか」
「? 何をですか?」
「珖明が……実は女だと」
<次回〜 第45話 「趙雲の告白〈2〉」>




