第43話 神異〈2〉
声を聴きとめた趙雲が、即効、駆け寄ってきた。
「こ、広元どの? 何故ここに」
あり得ぬ事態に趙雲も混乱している。気持ちはもちろんわかるが、説明している間はない。
広元は隠していた場所から珖明を抱え上げてくると、趙雲に懇願した。
「子龍様、助けてください! 馬を」
「……!?」
広元の腕にある人物を見るや、趙雲の眼が大きく開かれた。
「―― 珖明……か !?」
「え……?」
広元の動揺。趙雲が珖明を知っている……?
むろん諸葛氏に仕える身であれば、見知っていて当然だろう。だとしても、こんな姿になっている珖明を一目で見分けるとは。
加え、趙雲の発した口調には、主従感がまったく無いように感じられたのである。
―――― いやそんなこと、今はどうでもいい。
お互い、細かい部分に気を留めている状況ではないのだ。
趙雲も最優先にすべき事項を心得、手短に説明する。
「敵は青州兵だ。叛乱の機に乗じ、対岸から一部が淯水を渡って来た」
「青洲兵!?」
「勢い、この辺りの賊残党も便乗したようだ。宛城より防備の安易なこちらを襲ったのだろう」
「……」
「馬だな。よし、いましばし、ここで隠れておれ」
趙雲は広元に余裕の貌を残し、駆けていく。
頼れる武将の背を見送りながら、広元は知識を辿った。
青州兵。
先に、曹操が東平国に蔓延していた黄巾賊を平定した折に取り込んだ、黄巾降伏兵の集団。
出生が出生だけに、曹操軍の中でも異彩を放っていると伝え聞く輩だ。
どうやら奴らが今回の曹操の敗戦混乱に際し、持ち前の肆虐性を露わにしたらしかった。
曹操軍にしては少数なことも、行いが賊まがいに徹していることも頷ける。
返していえば、それほどに曹操軍が混乱をきたしていると言えた。
張繍の重複叛逆は、事実なのだ。
ほどなくして趙雲が戻って来た。自馬の他に馬を一頭、引き連れている。
「広元どのはこれに。わたしは主君を捜す」
趙雲の言葉に、広元の頬が強張った。
つい先刻、目にしたばかりの光景……。
「子龍様、諸葛様は……亡くなられていました。ぼく自身が邸広間で確認しました」
趙雲の凝視に広元は続ける。
「邸や庁堂はもう焼け落ちているでしょう。誰も残っていないかと。城門で馬に乗せた子玖と、城外で落ち合う約束をしています。そこへ」
「……」
趙雲はほんの少し考え込む態を見せた後、すっぱりと眉目をあげた。
「そうか。では子玖の所へ向かわねばな。珖明はわたしが抱えよう」
「……」
広元は寸時、珖明を趙雲に託すことをためらった。
趙雲は珖明の正体を知るまい。しかし同乗馬では非力な自分より、趙雲が支えた方が適切なのは明白だ。
「頼みます」
広元は珖明を趙雲に託し、自身も騎乗する。
二騎は脱出に馬首を向けた。
◇◇◇
地平が、とうとう陽を吸い込んだ。
西空を覆う厚雲が残照を遮っているために、一体は急速な昏さに沈んでいく。
子玖は広元に指示された場で、ひたすら広元の訪を願っている。
『待つのは日没まで』と言われたものの、動く気にはなれない。
―――― 先生……母上、姉上、叔父上……兄上。どうか皆無事で。
祈る事しか出来ない子玖は、増していく暗晦にひとり膝を抱え、岩陰に蹲る。
……ややあって。
「……!?」
駆ける馬足の近づく音がした。
ぎくりと胸鼓動が鳴る。……敵か?
子玖は慌てて立ち上がると、木の幹に繋いでいた狐站に寄り、すぐに乗馬出来るよう手綱を掴む。
体を狐站にぴたり寄せて、息を詰めた。
―――― どうしよう……。
敵ならば、ここで終わりだ。
馬に出来るだけ恐怖心を伝えまいと、子玖は懸命に耐える。それでも手綱を持つ手が小刻みに震えてしまうのを、どうしても止められない。
音が到着した。
子玖は眼を瞑り、息を今度は完全に止める。
「子玖! いるか!?」
広元の声だ。子玖は飛び出した。
「先生!」
馬足は広元と趙雲。しかも驚くことに、趙雲の腕には兄、珖明が抱かれている。
下馬をした広元に、子玖は転びそうに駆け寄ってしがみ付いた。
「子玖……無事でよかった」
震える子玖の肩を抱き、広元は頭を優しく撫でる。
「頑張ったな、子玖。……珖明のことも、ありがとう」
「先生……先生」
広元の腕中で、子玖はやっと十二歳の少年らしく、声をあげて泣いた。
趙雲は馬を木枝に繋ぐと、珖明を一旦、柔らかな草のある場所に横たわらせた。
珖明の衣があまりに血塗られていたため、怪我を負っているのではと懸念したのだ。
近寄った広元が、珖明の手首をとる。
「気を失っているだけです。傷は負っていないと思います」
「……そうか。良かった」
広元の様子から何かを察したのか、趙雲はそれ以上珖明に手を出さず、立ち上がって周辺を見回した。
「闇は危険だ。とにかく今宵の隠れ場所を探さなくては」
「ええ……」
珖明の腕や脚など、着衣の上から簡易に診られる箇所の無傷を確認した広元は、趙雲に提案する。
「近くに友人の居宅があります。受け入れてくれると思いますから、取り敢えずそこへ。後のことはそれから話しましょう」
「おお、それはありがたい」
趙雲は頼もしげに広元を見、首肯した。
<次回〜 第44話 「趙雲の告白」>




