第42話 神異(しんい)〈1〉
太陽が西の地平に近付いている。
地に伸びる長い影も、火の立ち上がっている場所以外、暮色にその輪郭を溶け込ませ始めていた。
―――― どうする、危険だ。……でもここしか。
建物陰に身を隠しながら、広元は脱出の機を窺っている。
馬を得ようとして厩舎を目指したのだが、来てみると、まさにそこが戦場であった。
敵と思しき輩がはびこっている。考えれば当前の事、略奪で真っ先に狙われるのは馬だ。
珖明を抱えての徒には無理がある。城門を出たとて、その先もあるのだ。
子玖は約束した場所できっと待っているだろう。一刻も早く行かねば。
―――― どうにかして、馬を。
乗り手のない馬を目で求めるも、身を潜めている広元の手の届きそうな範囲には見当たらない。
ただし目前の厩舎からは、馬の嘶きが聞こえていた。
焦慮が募る。いつまでも此処にはいられない。
―――― こうなったら。
広元は思い切る。
こうなったら身ひとつ厩舎に駆け込んで、一頭引っ張ってくる可能性に賭けるしかない。
一時でも珖明の身を手離すことに猛烈な恐れを抱きつつも、どうにか珖明の身を隠す方法をと、広元は辺りを探った。
打ち捨てられた蓆が目に入り、手に取ろうとしたときだ。
突然、夕闇を引き裂く叫喚が近場で湧いた。
「……!?」
どきりとした広元は、珖明を庇うように覆い被さり、より陰奥に全身を縮こまらせる。
殺した息のまま、数呼吸。
続いている喧騒、至近距離には違いないものの、目前という気配でもなかった。
何事だろう?
「……」
珖明の身体を蓆で覆い隠した広元は、恐る恐る、壁縁から騒ぎの方角を覗き込む。
そして……とらえた光景に、息を呑んだ。
◇◇◇
「おのれ、畜生めが!」
「引くなお前らっ!」
「相手は一騎だぞっ!!」
怒号を捲し立てる歩兵と思わしき武装の者達が、ひと所に蟻の如く群がっている。
三、四十人……いや、もっといるか。
囲めや! と長らしき男が叫び、手に手に矛(長兵器)や直刀を構えた兵達は、統制感のない足運びで、ある一点を囲うように歪んだ円陣形を作った。
囲ったはいいが、皆、武器で中心側の空を小突くばかりだ。次の事態への恐怖に、あきらかに腰が引けている。
それでも、
「う、うおおーっ!」
勇気なのか耐えきれなくなったのか、ひとりが突と発した雄叫びに、全員がわあっと大声を被せ、いっせいに円陣を縮めた。
――と見えた途端だ。
同じ場所に、今度は先刻をしのぐ凄まじい喚きがあがった。
―――― ……なっ!?
広元の瞠目。彼は手で自身の声を抑えた。
いったいどういう次第であろう。
突進した兵等が、武具共々まるで小動物の如く、次々と宙に弾き飛ばされていくではないか。
断末魔の悲鳴、上がる血煙。
朱に染まる一帯は、壮絶な凄惨図と化す。
その中心にあるは、単騎の大柄な騎馬武人であった。
手綱を巧みに操りながら、戟(長兵器)を豪快に振り回し、背後に群がった複数兵に振り向いたかと思うと、何と複数体まとめて串刺しにして押し倒す。
圧倒の力だ。
巨体にもかかわらず、その動きは恐ろしく機敏で、彼の前では誰ももう、完全に無力な雑魚でしかない。
一連は、まるで火焔を背景に演じられている影絵舞台さながらであった。
―――― ……凄い。
本物の豪傑を生まれて初めて目にする広元は、目の前で展開されているものが残酷な殺し合いだという事実も忘れ、呆然と口を開いて眺めてしまっていた。
騎馬武人の有様は、神異(神の示す霊威)そのものだ。
あまりの強さに挑み掛かる敵兵も無くなり、皆じりじりと後ずさりする。
そして結局、生き残りは全員、まろびながらバラバラと逃げ去ってしまった。
喚き声が収まり、沈静化した場にある騎馬猛者の影は、威風堂々聳え立つ門の如くである。
―――― 人業じゃない。
広元は息で呟く。
彼が今受けている心証は、本音、恐怖よりも畏怖に近い。それは広元が初めて持った種類の心態であった。
ガララッと、ひときわの大濁音が鳴り響いた。武人の側にあった、中ぶりの建物の太い梁と屋根が焼き崩れ、大きな炎柱が上がる。
炎は武人の横顔を照らし、黒影が人の風貌に変わった。
―――― ……あっ!
鬼の武人が誰かを認識した広元が、飛び出して叫ぶ。
「し、子龍様!」
神業の強者は、趙雲であった。
<次回〜 第43話 「神異〈2〉」>




