第41話 炎の静寂(しじま)
(✽お詫びと訂正:4/22以前に「第29話 瘡痕〈2〉」までをお読みくださっていた皆様へ。
29話が28話と同じ内容となっており、最需要といえる29話の本来文が抜けておりました。4/23に修正済です。大変申し訳ございませんが、「第29話」を読み直ししていただきたく、お願い申し上げます。)
錫青は院子を抜け、さらに奥へと進む。
横に従う広元は、火の手が邸外壁からの判断予想を超え、院子左右に並ぶ各房にまで、相当に及んでいることに気付かされた。
歩廊の欄干も所々焼け落ち、風に煽られた火の粉が、院子中に舞い飛んでいる。
―――― これは……思った以上に猶予が無い。
降りかかる火の粉を払いながら、錫青に添って辿り着いたのは、邸の最奥にある広間入口。
中は灰色の煙でよく見えない。
「錫青……この中へ進めって……?」
ごくり、喉を鳴らす。こめかみに、周囲の熱に反した冷汗が伝った。
……それでも、
―――― とやかく迷っている暇はないんだ。
広元がひと足を踏み出し、内から吐出される煙に染みた痛みに泪眼を擦ったときだ。
彼は右足下に、ずしりと寄りかかってくる重さを受けた。
「あっ……!」
錫青が、遂に力尽きたのだ。
広元の足にもたれ掛かった錫青の体は、そのまま横倒れになる。
「錫青!」
広元は両手で錫青を揺り動かす。
幽かに目を開けてする、微弱な呼吸。錫青の血に濡れた広元の掌の感覚が、その限界を伝えていた。
急速に掠れて行く生の反応。
やがてほんの寸時荒い息をしたと思うと……錫青の全ての動きが、停止した。
「……ああ」
広元は引きずられるように、石床に腰を落とす。
やり場のない無念さに胸中が塗り潰され、深く項垂れた肩を震わせた。
煙の痛みとは違う種の泪が、広元の眼を滲ませ……まだ温かい錫青の上に粒がひとつ、落ちる。
まだ生きられるはずだった大切な命が、また、目の前で失われた……。
「……」
だが、しかし。
広元は下唇をぐっと噛む。
今、悲嘆に暮れているわけにはいかない。断末魔の錫青が、自分を此処まで連れて来た本意。
考えられるのは、ひとつだ。
―――― 中に、珖明がいる。
気を奮い顔を上げて立ち上がると、広元は煙を吐く室内に踏み込んだ。
◇◇◇
床には几案(机)や胡床(椅子)、調度品が散在して転がり、上からは火の粉がぱらぱらと散り降ってくる。
動く人の気振りはないように見えるが、視界が酷く悪く、確認ができない。
―――― 奥まで行って、確かめないと。
まだ炎の凶手が弱そうな、主座がある方へ進もうとした瞬息。
ギッ……メリメリッ 、バキイッ ――!
頭上からした硬質な鈍い悲鳴音。何か重量のあるものが剥がれるような音だ。
「―― !!」
反射的に見上げた先、天井の一部か、火の付いた大きめの塊が、広元めがけて落下してきた。
「わ・あ……っ!!」
咄嗟に避けた広元の目前の床に、塊は凄まじい轟音を立て衝突し、砕ける。
弾き飛ばされた格好で直撃を逃れた彼は、塊が砕けた勢いで爆ぜ舞う火粉と煤煙を腕で払いながら、腰をついた上半身を起こした。
―――― ……息が……。
袂で鼻と口を抑える。
火災で恐ろしきは煙だ。呼吸が浅くしか出来なくなってきている。
気を失う前に、脱出せねば。
―――― これ以上、此処は無理か。
たった今看取ったばかりの錫青の最期を脳裏に過らせつつ、広元は半ば諦めも覚悟して、前方の首座方向を視た。
……その、次瞬だ。
奇態なことが起きた。
彼を囲っていた燃焼や物の破壊音のいっさいが、突然沈黙した。
不思議な静寂が、広元の聴覚を塞ぐ。
「……」
時が刻みを止めたかのような間の中で、広元の視力は、前方のある一点に集中した。
見開いた眼で凝視する。
広間奥にある首座の右手やや奥……幾分煙霞の薄い暗がりにある、太い室柱。
炎と煙に揺らめく陽炎の中、背をその柱に預けて立つ、人の横容があった。
細高い背丈、白っぽい単衣、乱れ落ちた長い黒髪……。
広元は叫ぶ。
「 珖明!」
張り上げた声と同時、無音の呪縛が解けた。
勢いを増した火災が建物を蹂躙して暴れまわる音が、一斉に耳を襲う。
広元の声が届かないのか、珖明はまったく動かない。
「珖明!!」
もう一度呼び、広元は駆け出す。
と、夢中だったために下をよく見ていなかった広元の足は、数歩踏み出したところで重く大きな物に躓き、膝を折って、その物体に手を付いてしまった。
「――?」
感じた違和感。
柔らかい感触……ものではない。これは……。
膝をついた足元には、血海が広がっていた。
自分が掌をついているのが屍体の背だとすぐに理解し、その面相を確認した広元の息が固まる。
―――― し、諸葛玄……!?
それは間違いなく、城主の諸葛玄であった。
「な……ん……」
この場で、敵にやられたのか。
伏臥位で絶命している諸葛玄の後ろ首には、細く短い竹矢のようなものが突き立っていた。血溜りの場所と量からすれば、おそらく喉元も割かれているだろう。
知人の屍と夥しい血量を前に、広元の身が粟立った。心悸が耳元で鳴る。
「……」
広元はそこで、はたと過ったある考えに思い至り、目前の珖明に眼を移す。
背を柱にもたせ掛けた姿勢の珖明は、自力で立ち眼も開けているのだが、抜け殻の如く虚ろであった。
生気のない冷えた横顔……地下室で初めて出会ったときのように。
続き広元の視線は、珖明の左手に吸い寄せられる。
その手には匕首が握られており……刃には、まだ新しいと思われる血が滴っていた。白っぽいと見えた単衣も、直に浴びたと思われるほど、赤く穢されている。
否応無しの推定が、広元の中で働いてしまった。
しかし……まさか、そんなことが……?
ぱん! と木の爆ける大音。はっと広元は我に返る。
そうだ。事の検証など後でいい。
死体を跨ぎ越え、彼は珖明の両腕を強く掴む。
「珖明!」
相手は目覚めない。
「珖…… 亮っ!!」
字でなく、通常口に出すのを避けるべき諱で呼んだ。
珖明の上半身を激しく揺すぶり、腹底から渾身で。
「ばかっ! 焼け死ぬ気かっっ!!」
「――!」
大喝に、抜け殻だった眸がふっと生気を宿した。ふたりの眼が合う。
「……広……?」
見定め、零れた呟き。
珖明の手から匕首がすべり落ち、床に刃と柄の当る音が響く。
珖明の躰から、すう、と力が抜けた。上から吊っていた糸が切れたように、まっすぐ崩れ落ちる。広元はその身を支えた。
「珖明……!」
珖明は気を失していた。
広元はすぐさま珖明の痩身を両腕に抱きかかえ、出口へ一気に駆け向かう。
火熱が迫っているのだ。一刻も猶予はない。
しかれど室を出、入口に横たわる錫青を目にしたときには、広元の足が止まった。
「……」
死した体とて、錫青をこんな場所に残しておきたくはない。
……だが、不可能だ。
―――― すまない……錫青。
無念さに唇を固く結び、広元は珖明を抱え直すと、その場所から己を引き剥がすように、邸門外へと走った。
<次回〜 第42話 「神異〈1〉」>