第40話 青く光る双眸《そうぼう》
(✽お詫びと訂正:4/22以前に「第29話 瘡痕〈2〉」までをお読みくださっていた皆様へ。
29話が28話と同じ内容となっており、一番大切といえる29話の本来文が抜けておりました。4/23に修正済です。大変申し訳ございませんが、「第29話」を読み直ししていただきたく、お願い申し上げます。)
広元が諸葛邸門前に着いたとき、邸と、そして隣接する庁からも火煙が立ち登っていた。
どちらにもまだ、強い炎火は見えない。とはいえ湿度の低い時期、火の周りは早いはずだ。
しかもこの風。そう間を置かずして全体は火群に包まれだろう。
何処かはわからぬ場所から、戦闘かどうかも不明な大勢らしき人々の騒ぐ声を、風が運んできている。
しかしここでも、広元の視野内に敵らしき姿は見られない。
———— 珖明を、どう探す。
初めての戦現場、冷静でいられるはずもない広元だが、それでも必死に目的のひとつ事に集中した。
子玖の言によれば、珖明はすでに地下室にいなかったというのだから、そこに行っても意味はない。
燃え始めている邸や、庁内にいる可能性も低いとは思う。
———— かといって、他に捜すあてがない……。
迷いの間はないのだ。確認に如かず。
火の勢いが増す前の今ならまだと、広元が急ぎ邸門を潜りかけた矢先である。
右手邸外壁のひと隅、人とは違う黒い塊がうずくまっているのが、彼の目に入った。
「……?」
見知っている影。あれは……。
「せ、錫青 !?」
慌てて駆け寄った広元は、錫青の姿を一目見るなり絶句した。
錫青の後ろ足には矢が立っている。
胴にも数カ所、刀と思われる瘡。ひとつは明らかに深手だ。これでは自力で動けはすまい。
「しっかりしろ、錫青!」
力無く頭をあげた錫青が広元を見た。
広元は焦る。輔けねば。だが自分がここから城門まで抱えていくには、錫青は大型過ぎる。
どうすれば……。
とにかくまず、せめて火から逃れられそうな場所に運ぼう。
抱えあげようと、広元は錫青の体に腕を回した。
すると……その支えを使って、錫青は自ら立ち上がった。しかも何と、邸門へ向かって歩き出したのだ。
「錫青……?」
錫青は、矢の立った足を引きずってよろよろと少し歩き、広元を振り返る。
首を垂れ、舌を出して苦しげな息を吐きながら、再び頭を前方に向け、進む。
瘡口から流れ出る血が、地に赤い足跡を付けていった。
———— だめだ。錫青を止めねば。
そう広元は思うのだが、錫青の〈気〉があまりに壮絶で、手を出せない。
足取りは弱々しくも、それはかつて、広元を地下に導いた折の錫青の姿を憶い出させた。
錫青は今必死に、何かをしようとしている。
「……」
広元は黙って、錫青に添って行った。
◇◇◇
「叔父上、母上のお姿も子玖も見当たりません! どうしましょう。どうしましょう!?」
邸の大広間では、諸葛珪の次女、子玖の小姉が猫の阿梨を抱き、泣きながら、おろおろと叔父の諸葛玄に縋っている。
あまりの急事態に諸葛家の者の避難には一貫性が無く、一家は散り散りになってしまっていた。
曹操が宛に布陣した直後に張繍が降伏した、という報を聞いた諸葛玄は忿り、そして慄いた。
「愚か者が! 言語道断だ! あの鬼畜極まる曹操に降るなど!!」
諸葛玄からすれば、張繍の選択は自殺行為としか思えぬだけである。
諸葛玄は主筋である劉表からの指示を待った。
しかしそれが一向に届かない。
こうなっては自己判断。曹操が淯水を渡って来る前に、宛から脱出する。
そう判断した矢先の、思わぬ襲撃であったのだ。
降伏したはずの張繍がさらに叛逆したらしい、という急報が伝わったのはつい先刻であり、それも絶対的事実かどうか定かではない。
淯水の戦況について、入る情報は錯綜を極めていた。
———— ここを急襲した奴らは、曹操兵だという第一報であったが。
それにしてはこの敵、どうも様子がおかしいと諸葛玄は感じている。
強兵軍らしからぬ、無秩序な賊まがいの野蛮さを持っているのだ。
———— いや。所詮はあの曹操軍だ。
徐州であれほどの残虐性を示した曹操軍。被害者の諸葛氏からすれば、納得するのに難はいらない。
一旦は庁舎で自軍へ反撃指示を下した諸葛玄であったものの、敵の正体がどうあれ、そもそも守り切れぬ城なのはわかりきっている。
早々に見切りを付け、家族を脱出させるため、諸葛玄は自邸に戻った。
邸もすでに敵の蹂躙後であり、放たれた火が家具や柱を舐め始めている。
逃げ遅れ恐慌状態になっている姪と会った諸葛玄は、彼女を叱咤した。
「急ぎ邸裏手に行っておれ。家令達が車を用意しておるはずだ。儂も直ぐに行く」
震え泣く姪を急かしつけて先に行かせると、自身も手近にある、逃避行に役立ちそうな資金物を急ぎ掻き集めた。
バチバチと火が木を爆ぜる音が、大小あちこちで騒いでいる。
この邸も城も、間も無く焼け落ちるのだ。
……ふと。
諸葛玄は手を止めた。
迫る火で加熱された場であるというのに、突如背筋にぞくり、寒気にも似た異様な気配を感じたのだ。
「……」
ゆっくりと首を背後へ回す。
視線先、さほど遠くない場所にある柱の影。
〝 ネーウ 〟
猫……阿梨の鳴き声だ。
「なんだ、まだいるのか。先に行けと言ったろうが!」
恐怖に動けぬ姪が未だそこにいると思った諸葛玄は、再び叱る。
返事がない。声も出せないでいるのか。
「……」
変だ。
彼は眉間に皺をたてた。暗さと煙霞で阿梨の姿もとらえられないが、そこには確かに人の気配がある。
しかし……。
やがてそれが姪のものではないことに、諸葛玄は感付いた。
「誰だ。そこにおるのは」
濁った煙霞中に透けて立つ、細白い影。
次瞬、彼はその黒煙の暗がりに、青く光る双眼を見た気がした。
白容がふわりと浮くように動き消えた直後。諸葛玄はいきなり首後部に、得体の知れぬ衝撃を受けた。
「―― !!」
細く鋭い何かで突かれたような感触。
途端ぐらりと大きく天井が回り、身体の物理的感覚を一気に奪われた彼は両膝を折る。
声も出ぬ次の間、諸葛玄は、上から自分を見下ろすその者と眼が合った。
相手のそれは……生命色の無い凍てついた冰にも似た、悍ましい眸。
諸葛玄の全精神が、否定に鬼躁する。
―――― 馬鹿な! なぜ此処にきさまがいる!? 今、儂に何をした……。
瞬時、ひとつの記憶が脳を貫いた。
はじめにその者を捕らえたとき、隠し持っていた寸鉄……鏢。
あんなもの、常人は使わぬ。あれは細作の持つ暗器(隠し武器)だ。
きさまは、いったい ――
思考のその先は無かった。
冷たい白刃の閃光が、右から横一字にすっと流れ、切り割かれた喉から吹き出る血帯と共に、諸葛玄の軀は崩れ落ちた。
<次回〜 第41話 「炎の静寂」>




