第39話 再会
(✽お詫びと訂正:4/22以前に「第29話 瘡痕〈2〉」までをお読みくださっていた皆様へ。
29話が28話と同じ内容となっており、一番大切といえる1話分の話が抜けておりました。4/23に修正済です。大変申し訳ございませんが、「第29話」を読み直ししていただきたく、お願い申し上げます。)
陽は真上を大分通り過ぎているが、日没までにはまだ間がある。何とか陽のあるうちに、すべてを確かめて済ませたい。
そう願いながら、広元はひたすら馬を駆け急がせていた。風は短時間の間にも、刻一刻と強くなってきている。
視界の黒煙は、次第に大きく濃く迫る。
西の城に近付くにつれ、城から脱出してきた住民であろう、幼児も含めた老若男女が発狂したようにわめきながら、流れに逆らい進む広元へと、ぶつからんばかりに向かってきた。
荷を乗せた車や牛を引いた者なども混ざる人の波。無秩序な走路を描いてすれ違う難民の数は、どんどん増えていく。
やがて、破られ開け放たれた城門前に到着した所で、広元はいったん馬足を止めた。
「……」
見上げた城壁の上空。
風に煽られた複数の煙帯は皆扇状に拡がり、上部で一体化している。
―――― 火は、どこで。
外から炎が確認できない。だが煙は、城内のあちこち広範囲から上がっているのが目視できる。
元々この城の規模は宛城の比ではなく、城壁としても脆弱すぎる設備でしかなかった。
諸葛軍自体も寡兵なのだ。まして曹操軍のような強力軍隊に攻撃されたら、息を吹きかけられただけで、陥落してしまうだろう。
城門からは、逃げ遅れた人々が我先にと流れ出てきている。
広元がその流れを掻き分けて城内に入ろうとした矢先、住民に混じって逃げる者の中に、見知った顔を見つけた。
「馬丁長!」
あの、気のいい馬丁であった。
駆け寄った広元は、馬で無理やり進路を塞いで訊ねる。
「馬丁長! いったい何があった!?」
馬丁の手には、他に役立つ武器らしいものが見当たらなかったのか、馬の世話道具である竹鞭が握られていた。
馬丁は何も答えない。彼の手元の小刻みな震えは竹鞭へと伝わり、鞭先が悶えるように揺れている。
広元が再度、大声で問い糺す。
「敵は誰だ!? 降伏した張繍軍はっ!?」
「……」
馬丁は広元の事がわかるのかわからないのか、視線を泳がせながら、噛み合わない歯を震わせて呻吟した。
「叛逆だ」
「―― !?」
「張繍の降伏は偽りだ。曹操軍は敗退した!」
恐怖に塗られた面で叫ぶと、彼は広元の馬を振り切って、外へ向け走り去ってしまった。
その後ろ背を、広元は茫然と見送る。
———— 張繍が叛逆? 曹操が……敗退だって?
考えてもみなかった。
では、宛城方向に薄く見えた空気の濁りは、曹操と張繍の戦砂塵なのか。
しかし、それではおかしい。
曹操軍の敗退が事実ならば、今、この城を襲っているのは誰なのだ。
曹操軍の陣は淯水対岸にあったはず。一部が淯水を渡って来ていたのか。それとも……。
———— もしや、張繍軍が!?
◇◇◇
広元は城壁内に入った。
あちこちの建物から上がる火と煙。
襲撃がまさに唐突だったのだろう、それほど広くない城壁内は、狼狽し狂乱する民でごった返している。
しかしこの辺りに、敵兵らしき姿は見られない。
ふと広元は、彼の過去記憶にない奇妙な複数の物体を視界に見とめた。
「……?」
動き回る人々とは対照的な静止した異様な塊が、近場を見渡しただけでも、そこかしこに転がっている。
———— ……あ!?
それらは皆、死体であった。
身を割かれ、また、あったはずの体の一部を失い、血に染まった人や生き物。
火がついたのか、黒く焼け焦げたもの。ついた火がまだ燃え続けているものもある。
動物も含め、性別もわからない大小様々な屍が、自身から流れ出た血溜まりの中に打ち捨てられている。
広元は、脳天からさあっと血の気が引いたのが自分でわかった。
人伝や知識として聞いたことはあっても、その現実光景を直に眼にしたのは初めてだ。
確実にこの場所で、何者かによる残虐行為が行われたのである。
突と、猛烈な目眩と吐き気が湧き上がり、彼の呼吸を詰まらせた。
「……くっ」
馬上で必死に耐える。
広元は一度目を瞑り、頭を左右に強く振って感傷を振り払った。
駄目だ。この状況では考えても混乱するだけだ。今自分が為すべき事は、他にある。
額を上げた彼は、視覚の焦点を別へ外らせた。きっ、と眉目に力を入れる。
———— 敵の騒乱は別場所でされているのか。子龍様はどこに。
武具も身に付けていない無謀さ認識も捨て、さらに奥、諸葛家の邸の方へ向かおうと、広元は馬首を向けた。
そのときである。
広元の目端につと、城門へ向かう人流の中で、汚れはしているものの、他より一段上の身なりをしている、ひとりの小柄な姿が入った。
その小柄な影は転んだ童女を助け起こし、その母らしき女に手を取らせ、背を押している。
「—— !!」
はっと息を呑む。
広元は己のすべき目的のひとつである〈彼〉を見つけたのだ。
「子玖っ!」
広元の叫びに反応した少年が顔を向ける。
「……先生」
広元を認め見開く、あのつぶらな眸。
「広元……せんせ……い?」
子玖に駆け寄り下馬をした広元は、その場に立ち竦んでいる子玖の肩を強く掴んだ。
「子玖、良かった! 怪我はないか」
「……先生、ど……どうして、ここに?」
事態を飲み込めずに、子玖は限界まで広げた眼で広元を凝視する。
当然だ。西の城を去った後すぐ、一度だけ文やりとりはしたものの、広元が宛を再訪する話題など内容になかった。
しかもこんな場面での再会は想定外過ぎる。
「すまないがその説明は後だ。子玖、何があった」
力のこもった広元の声音で、子玖は我に返る。
「あ……は、はい、あの」
子玖の中で、瑯琊での諸葛瑾との場面が蘇る。
そうだ。しっかりせねば ——
「昼ごろ突然、敵は踏み込んで来ました。曹操軍だと……でも、はっきりとはわかりません。黄巾だという声もあって」
「黄巾!?」
まさかの単語に、広元は耳を疑った。
光和七年(184年)に起きた、『黄巾』と称される大農民反乱。
漢王朝の治世基盤を根底から揺すぶったこの騒動は、朝廷の尽力で同年に討伐されている。
しかしながらその残党、さらに影響を受けた他賊の輩が、いまだに各地で暴れているという状勢があった。
だから、子玖の言っていることもあり得ぬ話ではない。
それでも、黄巾は大抵が雑兵類と聞くし、ここまでの大規模行動を起こせる力を持った軍以外の勢力存在など、最近の宛近辺で、広元は仄聞にも聞いた事がなかった。
だがことは今、現実に起きているのだ。
「……そうか。子龍どのとは、会っていないか?」
趙雲ならば、真っ先に主筋関係者を護ると思っていた広元は、こうして子玖がひとりでいることに、憂慮を禁じ得ない。
「いいえ……多分まだ城内にいると思うのですけど……錫青も枷を外した後はぐれてしまって。母上や叔父上も、ご無事かどうかわからない」
震え声を懸命に抑えて語る子玖の言から、いかに前置きのなかった事態であったか、その混乱ぶりがわかる。
———— とにかく先ずは、子玖を安全な場所に逃がさないと。
手段を急ぎ思案し始めた広元に、子玖が。
「兄上が、地下にいないんです」
広元の思考が、ぴたと止まった。
本音は心の奥底で最大の憂苦としながら、口に出していなかった事項。
子玖の、伝えに励む声が続く。
「この城を秘密裏に出る話を昨日叔父上からされて、夜半に地下の錠を外しておいたんです。……でもその翌日にまさか、こんな事になるとは思っていなかった」
「……」
子玖は広元との約束を違えずにいたのだ。
「騒ぎが起きて地下に行ったんです。……けど、室に兄上はいなくて」
広元は察する。
趙雲が子玖に今付いていないのは、子玖が珖明の存在を確認しに、地下に行ってしまっていたからだろう。そして、
———— そうさせたのは、ぼくだ。
広元は己が拳をぐっと握った。
子玖だけは、絶対に死なせない。
広元は狐站を引き寄せ、手綱を子玖の手に取らせた。
「馬には馭れるね」
「……はい」
「では、馭って」
手助けして子玖をひとり騎乗させた広元は、訝しげな面様の子玖に、諭すように指示する。
「初めて出会った時の場所がわかるか」
「はい」
「ここを出て、まずはそこへ急ぎなさい。珖明や錫青たちを捜して、後からぼくも行くから、そこで落ち合おう」
「えっ? そ、それは」
「もし危険を感じたり、日没までにぼくが間に合わなかったら、そこから北東五厘ほどにある豫山の南側山頂付近に住む、龐山民という者の居に行きなさい。山道入口辺りにいくつか民家があるから、そこで道を尋ねればわかる」
「先生!!」
広元の決意に気付いた子玖が下馬しようとするのを押しとどめ、広元はいつもの柔らかな笑貌を作る。
「大丈夫だ、必ず行く。……でもいいか、そこで待つのは日没前までだ。必ず、明るさのある内に動くんだぞ」
広元は城門方向に馬首を向けさせ、馬の首筋を一度だけ撫でる。
「狐站、頼む」
言い終えるや、持っていた手刀柄で馬尻を打った。
疾走する馬と、馬上で何か叫んでいる子玖を、広元はしばし見送る。
そしてくるり踵を返すと、諸葛邸に向かって走り出した。
<次回〜 第40話 「青く光る双眸」>




