第38話 予知夢
(✽お詫びと訂正:4/22以前に「第29話 瘡痕〈2〉」までをお読みくださっていた皆様へ。
29話が28話と同じ内容となっており、一番大切といえる1話分の話が抜けておりました。4/23に修正済です。大変申し訳ございませんが、「第29話」を読み直ししていただきたく、お願い申し上げます。)
翌二月に入り、数日が過ぎた。
この間広元は毎日のように、龐聚家屋の近くにある小高い丘に立ち、宛城方向を見遣っている。
張繍が降伏したというのに、両軍布陣は依然として維持されていた。
今日に至っても、この地にこれといった変化は起きていない。一帯は不気味なほど、静穏を保っている。
今日の丘視察から戻った広元は、室でひとり思惟を巡らせた。
———— この静けさからすると、張繍が降伏したのは真実か。
だとすれば。
厳密にはまだ宛城自体がまだ落ちたわけではないものの、完全陥落は時間の問題と思われる。
果たして荊州牧劉表は援軍も送らず、宛が曹操の手に渡るのを、このまま傍観しているつもりだろうか。
———— 諸葛軍はどうしているか……子龍様は……。
弱小の諸葛軍であるから、宛に残るならば曹操に降るしかない。
さりとて、諸葛氏が仇とも言える曹操の配下に付くのは、心情的に考えにくかった。
降伏を拒否するつもりなら、早急に西の城を捨てて宛を去る必要がある。
ところが諸葛軍が城を出たという報は、今のところ聞こえてきていないのだ。
劉表からの指示を待っているのか。
あるいはすでに、諸葛軍は秘密裏に行動している可能性もある。
西の城はここから目先距離とはいえ、報にはどうしても時差が出てしまうだろう。
———— やはり直接、行ってみるしか……。
出戻り的な再訪を敢行した広元、今にも飛んで行って、事実を確認したい気持ちは痛切にある。
しかし。
此度の再訪に際し、広元は西の城を訪ねるつもりはなかった。
あんな去り方をした自分に、そんなことができる資格はない。そう思っている。
ただ、もし本当に懸念した非常事態となったら、襄陽よりは間近にいることで、万にひとつでも、自分に何か役立つことがあるかも知れない。
……などと、言い訳じみた考えを持ってみたりしたのだ。
———— せめて、子玖と珖明の無事を確認出来れば。
己の再訪根拠など、多分そんな自己満足的動機だったのだと、実際に戦が起きないと判ったことで焦りが抜けた広元は、自己分析する。
いずれにせよ、今回このまま平穏に事が収まるのであれば、自分がこれ以上宛に留まる理由はないことになる。
「……」
それならそれで良いのかも知れない。
布陣が解かれていない状況でこれまで躊躇していたが、明日にでも西の城近くまで行って、現状を確認してこよう。
広元は踏ん切りをつけた。
◇◇◇
翌日は朝から、この季節には珍しい遠雷が鳴っていた。
低く響く音の方向空に、ときおり雷光も走っているのが確認できるものの、光も遠く、曇り空のこちら側には雨も降っていない。
とはいえ、天雷時の外出はやはり危険だ。
———— 出かけるのは、少し様子をみてからにするか。
広元は窓近くの榻(長椅子)に腰掛け、ぼんやり窓の外を眺める。
……そうしているうち、宛に来てから連日、あまり良く眠れずにいたのが祟ったのか、彼はいつの間にか、うたた寝をしてしまった。
広元は夢を —— まどろみの中、そこが夢の中であるという認識はないが —— みた。
炎だ。何かが激しく燃えている。
一面に立ち込める黒煙……これは……火災。燃える建物の内部だ。
熱い。焼けた空気で呼吸が出来ない。
早くここから脱出しなくては。出口を……!
袖で口を押さえ身を低くした広元が、火煙の薄い方へ進もうとした先。
はたと投げた視線上に、立ち人の容があった。
視界は煙で塞がれているのに、そこだけが妙にくっきりと浮かび上がる。
広元はそれが誰であるか、はっきりと見留めた。
珖明だ。
地下にいた白単衣姿の珖明が、ひとり、炎の中でこちらを向いて立っている。
手に何かを握っている。……手刀?
珖明は直立したまま、じっとその場を動かない。
……と。
珖明の後ろに立つ大きな影。巨漢が大刀を振り被っている。
広元は色を失う。待て! 駄目だ!
近寄ろうと懸命に足掻いても、目の前の珖明にまるで届かない。
たすけなければ。早く……!
『 珖明……!』
叫びを上げたとたん、目が覚めた。
「広元様……?」
心配げな顔をした僮僕が、傍に立っていた。
「あ、……夢」
気付けば、広元は榻にすっかり体を預けて眠っていた態。うなされてでもいたのか、額には薄っすらと冷や汗が浮いている。
「いや、その……ちょっと夢を。眠ってしまったみたいだな」
何かまずい口走りでも聞かれてしまわなかっただろうか、と気にしながら、身を起こし疲労の息をつく。
それにしても気分の悪い夢だ。……まあ、夢で良かったとは思うが。
うたた寝とは言えないほどな時間眠っていたらしく、窓から覗いた太陽の高さは、既に日中正刻(正午)をだいぶ過ぎていた。
遠雷の消えた空の雲厚はいくらか薄くなり、所々の切れ間に青空も覗いている。
と、突然ぶわっと入り込んだ強風が、広元の顔肌を叩いた。
「わ……!」
朝はさほどなかった風が、ここへきて暴れ出している。ヒューヒューと樹々間を縫う音が、家屋を舞い囲んでいた。
とはいえ雨の気配もみられず、荒天というほどでもない。
———— だいぶ遅くなってしまったけど、取り敢えず今からでも、西の城に行ってみるか。
まだ多少寝ぼけまなこの頭で考えながら、広元は首筋を揉んだ。
「広元様……あの」
用でもあるのか、去らないでいる僮僕が、なおも不安げな声をかけてきた。
「? 何か?」
僮僕はもごもごと。
「外の……南方の空の様子が、少しおかしな気配で。何やら酷い煙が上がっているような」
「—— !?」
広元の顔色がさっと変わる。
彼は勢い立ち上がったかと思うと、屋を飛び出し、樹々が切れて南から西に渡る方面を見晴らせる、例の小高い丘へと駆け上がっていった。
———— 南の空……。
異常は少し見渡しただけで即、広元にもとらえることが出来た。
南というより南西方角の上空全体を、濃灰色のものが汚している。強風のせいだろう、動きが速い。
———— 火災の煙だ。何か大きなものが燃えてる。
宛城の北東側に位置するこの丘から見たとき、宛城は南西方向にある。
だが、宛城真上の低い位置には、砂塵のような濁りが見てとれるものの、それ自体は火煙には見えない。
僮僕を不安にさせた煙の元手は、もう少し西寄り位置。
「……!」
広元は覚る。
間違いない。あの煙位置は西の城だ。しかも数軒の炎上といった煙量ではない。
———— まさか、戦……?
何故だ。あり得ない。張繍は降伏したのではなかったのか。しかも宛城ではなく、どういう訳で西の城が燃えているのだ?
たった今見たばかりの夢の画が鮮明に蘇る。広元は猛烈な胸騒ぎに襲われた。
考えるより先に、彼の身体は動いていた。
疑問を巡らせているときではない。ここから西の城へは、馬なら小半刻もかからない。
屋に急ぎ戻り帯刀した広元は、馬を引いた。
ただならぬ様子に気付いた龐聚が、仰天して止める。
「おい、何をする。どこへ行く気だ」
「すまない山民、行かなくては。だが必ず戻る」
広元は馬上から言い放ち、狼煙のように上がる黒煙を目指して、馬腹を蹴った。
<次回〜 第39話 「再会」>




