第36話 再訪〈1〉
(✽お詫びと訂正:4/22以前に「第29話 瘡痕〈2〉」までをお読みくださっていた皆様へ。
29話が28話と同じ内容となっており、一番大切といえる1話分の話が抜けておりました。4/23に修正済です。大変申し訳ございませんが、「第29話」を読み直ししていただきたく、お願い申し上げます。)
「広元、そこで何してる。そんなことは僮僕の仕事だ、そなたがするものではないぞ」
屋(住居)裏の作業場で薪を束ねている広元に、屋の主、龐聚は咎め声を掛けた。
広元が束ね紐を引きながら顔を上げる。
「ああ山民。なに、去年に続いてまた世話になるばかりじゃあ、心苦しいからな。少しは手伝えればと」
『山民』は龐聚の字(通り名)だ。
「ははあ。まあ、気持ちは嬉しいがやめてくれ。慣れない奴に手を出されると、返って迷惑なものだぞ」
広元より四歳年長の龐聚は腰に手を当て、やれやれ、といった風に嘆息する。広元の性分を知る彼の声色半分は、笑いを含んでいた。
建安元年が明けた二年の初月。年始めである。
戦乱下の苦しさがあっても、人々は暦を忘れたりしない。
歳末から正月にかけて、諸所では家族親族が集っての恒例行事が催され、それぞれがささやかな平穏を味わう。
昨年末に襄陽に帰着した広元もまた、楸瑛の死からまだ二年のため、通例ほどの祝事は避けたものの、久々の石家両親との静かな時間を過ごした。
その年明けから、もうすぐひと月。
水温み、空気は春の香を示している。花の話題で賑やかとなる時節も、もうすぐというところだ。
「いい陽気だ。春の気は気まぐれだがな」
「うん、今日は風もない。一昨日は寒の戻りさながらだったけど」
麗かな陽射しが注ぐ中、今広元が龐聚と会話している場所は、実は襄陽ではない。
「まったく物好きな男だな。せっかく襄陽に帰ったというのに、これから戦が起ころうという地に、わざわざ舞い戻るとは」
あきれ顔で話す龐聚のこの居は、宛県の主城、宛城から少し離れた、山間の閑静な地にある。
つまり広元は、一時帰省をしただけのほぼその足で、とも言える形で、再び宛を訪っていたのだ。
「事前の知らせもせず、いきなり訪ねて済まなかった。なるべく早く来たかったから」
「まあ別にいい、そなたならいつでも。こっちは気ままな一人住まいだしな」
一人住まいとはいえ、龐氏は財力も潤沢な襄陽の名家。龐聚の構えた家屋も、約まやかではあれど、粗末という類のものではなかった。下男下女も複数人、仕えている。
龐聚の父親は、荊州の名士中の名士と言われる人物鑑定の大家、龐徳、通称『龐公』だ。
『公』というのは尊称で、隠者のような生活をしている龐公を師と仰ぐ者は数多い。広元の義父である石家当主も、その一人であった。
石一家が潁川から襄陽に移住して間もない頃、石の父と共に広元も数度、公の住まいを訪れたことがある。龐聚とは、その折に知り合って以来の長い付き合いだ。
父親の血を継いだ龐聚は、月旦評(人物批評)を生業として、すでに独り立ちしていた。
「きみは偉いな、山民。自分が何をして生きていくか……ぼくも来年は二十歳だし、考えなきゃいけないなあ」
未だ書生立場である広元が、経済的に自立していないのは至極当り前としても、そこまで歳差があるわけでもない龐聚の自立姿には、広元も感嘆するばかりである。
「月旦仕事は順調なのか?」
「どうかな。まあまあってとこか。誰も彼も、張りぼてでも己に箔を付けようとする輩だらけだからな」
疎らな顎髭のあたりでぼりぼり爪音をたてながら、龐聚はさもつまらなそうに言う。
「はは、そう口悪くいうもんじゃないぞ。顧客なんだから」
龐聚の皮肉表現は毎度のこと。
それでも言っていることは、広元にも頷けるところがあった。
昨今、有名な月旦評家に個人独自の高評価、要は〈箔〉を付けて貰うことが大きな出世手段となっているのは、ひとつの社会常識となっている。
したがって月旦は需要も高い上に、龐聚の場合、父親の名が出るだけでも当然一目置かれた。依頼には事欠かないのだ。
もっとも親の名声が高いほど、その子息となれば、どうしても比較されてしまうものであろう。
龐聚の若さを差し引いたとしても、
『大家の父親を超えられない実力差は誤魔化せない』
という世間の手厳しい評判を、広元も漏れ聞くことがあった。
龐聚が開業地を襄陽でなく、わざわざ隣の南陽郡にある宛県にしたのは、そのあたりも絡んでいるかもしれない。
加え気の毒なことに、龐聚は幼少期の不慮事故で、左手指三本の上半分を欠いていた。同事故で痛めた左足を、今もほんの少し引きずっている。
容姿を重視する傾向が極めて強い時代、出世の上でも、それは相当な支障要因となっているだろう。
しかもかなり癖のある性格で、親しくする友人は少ない。
それでも広元のことは結構好いているようで、歳差を無視しての付き合いとなっていた。
昨年の広元の旅は元々龐聚を訪ねたものであり、その途上で子玖と出会った流れだ。
———— 子玖……元気でいるかな。
西の城は、龐聚の屋から目と鼻の先。しかもあれからそう時は経っていないのだから、あらゆる記憶は鮮明なままだ。
……そして鮮明ゆえに、広元はあの場所へと足が向かない。
「……」
ならば何が目的で、広元はこの宛に舞い戻って来たのか。
理由を、広元はまだ龐聚にも伝えられないでいる。
それは広元自身、まだ明確な説明がつけられないでいるからであった。
◇◇◇
昨年末に襄陽へと戻った広元は、一見、平穏な時間を過ごす。
されど彼の胸中には、常に固くしこる〈異物〉が存在し続けていた。
楸瑛の件で抱えていたものが、西の城でのあの交流によって一瞬軽くなったと思えたというのに、その後の己を肯定出来ないことが、以前以上の力で彼を責め立て続けてたのだ。
さらに日々、耳に入る風聞。
「兗州の曹操が、どうやら本気で荊州侵攻に発ったらしいぞ」
「どこを狙ってるんだ。まさか襄陽か」
「いや、地理的にまずは南陽郡からじゃないか」
それは襄陽の巷でも、急速に濃さを増して来くる。
———— 曹操が、とうとう宛に攻め入る……。
虐殺者の代名詞となってしまった曹操の評判は、荊州でもすこぶる悪い。宛で再び同様のことを行わない保証はないと、誰もが懼れていた。
不安は焦りを呼ぶ。
耐えきれなくなった広元は、遂に、宛への再訪を父に願い出た。
「莫迦を言うな。気でも違ったのか!?」
当然ながら両親は猛反対。
生活の為に兵となる困窮者ならいざ知らず、武人でもあるまいに、戦場を避けるのと正反対のことを、いったいどこの誰が望んでするというのか。
広元も男としての嗜みに、多少の剣術を習っているとはいえ、戦場で役立つような代物ではない。
「ご憂慮は充分承知しております。ですが、このままでは義に反します」
広元は引かなかった。
「曹操軍の南陽侵攻は、北東か東方面からでしょう。襄陽から宛へは南入りですから、かち合うことはあり得ません」
なお且つ、宛県に入るとはいっても、危険のある宛城には入らない。
万一有事が起きたとしても決してそちらには近づかないし、もし途上で戦勃発を知れば、すぐに引き返す。
目的はあくまでも、宛にいる龐聚や恩人達の無事を確かめるためだ。
説得話が、許可を得るためのその場方便も多分に含んでいるのは自認しつつも、広元は真摯に念いを訴えた。
普段は穏やかな息子の意外な頑固一面を知っている両親は、最後には根負けした。渋々ながらも承諾したのである。
<次回〜 第37話 「再訪〈2〉」>