第35話 秘独〈2〉
(✽お詫びと訂正:4/22以前に「第29話 瘡痕〈2〉」までをお読みくださっていた皆様へ。
29話が28話と同じ内容となっており、一番大切といえる1話分の話が抜けておりました。4/23に修正済です。大変申し訳ございませんが、「第29話」を読み直ししていただきたく、お願い申し上げます。)
———— 届いたとしても、あそこから抜け出すのは無理だな。
暗い地下から地上に唯一つながる窓を、珖明は冷めた眼で見上げている。
子玖が去って片時も経たぬ間に、諸葛玄は歩けぬ珖明を無理やり簀巻きにして、昨夜の手下どもに運ばせ、この地下室に放り込んだ。
珖明を縛から解いて牀台に転がした玄が、上から冷やかに見下ろす。
「案ずるな、犬は殺さぬ。どうやら均(子玖の名)が気に入っておるからな」
「……」
珖明が子玖へ依頼したのは錫青の解放だったのだが、間に合わなかったらしい。
玄は錫青を始末するつもりだったのかも知れない。
子玖は何の事情も知らされぬ状況でありながら、それでも何とか必死に『自分が預りたい』と懇願したのだろう。
———— 錫青が質とされたことに、変わりはないが。
章氏の嫉妬が絡む面倒を避けるために、玄はこの幽閉以外の行為は無論、珖明の性正体も恐らくは明かしていないだろうと、珖明は推察している。
周囲には流行り病などもっともらしい理由をつけて、『隔離した』とすればそれで済むのだ。
諸葛瑾もすぐに荊州を去る。
つまり、玄がその立場で強力な口止めをした者以外には、この実情を知る者は皆無ということになる。
———— 子龍(趙雲)に、事態を伝えることが出来れば。
この城で唯一、信頼できる雄。
趙雲が何故に敢えてこんな城に留まっているのか、珖明は把握している。
彼がこの事実を知ったならば、あの剛傑のこと、武力行使で強引にでも、自分をここから救い出してくれるだろう。
———— しかし今は、それも得策ではない。
極めて沈着に珖明は判断する。
この室は元々、有事の隠し室として機能させる想定であったと思われ、一定期間は滞在出来るよう、最低限設備が備われてはいた。
もちろん、あくまで有事という緊急事態への対応であるが。
———— ……しばし耐えるしかないか。
万事が窮した感に思われる状況にありながら、珖明は必ずしも絶望していなかった。
玄のこの城滞在も、そう永くありはしない。
許県を新都とした曹操は、その許を守護する為に必ず南陽郡を獲りに来よう。
南陽侵攻をもくろむ曹操が最先で抑えようと考えるのは、郡治所である宛に違いない。
張繍と劉表の出方を注視する必要はあるにせよ、宛はまもなく動乱の地になる。
いずれにせよ、この足では当面ここから逃げられはしないのだ。瘡の癒えを待ち、脱出の機会を待つ。
———— それまでは、正気を保ち続けなければ。
珖明は時の刻みを失さぬよう、窓に陽を見る都度、床に硬い石で削り跡を記した。
◇◇◇
拘禁し始めの頃、己の歪んだ支配欲を満たすのに躍起だった諸葛玄は、連日の如く地下室を訪った。
捕らえた相手から全気力を奪い取ろうとでもするかのように、珖明の痩身をせめたてる。
興が削げるのを嫌ってか、獲物の貌や体に過激な荒傷を負わせることはしないものの、痣は大小、珖明の躰中に絶えなかった。
珖明は足に走る痛みに苦悶しながら、ときに抗いつつも声ひとつ発さない。
泣きも喚きもせぬ相手に激昂し、男は一層狂った。
……やがて床に刻んだ削り跡数は、半月分をゆうに超えた。
どんなに精神が強く、またどんなに才智を持った者であっても、限界はある。
珖明は次第に昼夜の区別がつかなくなるような、朦朧とした感覚に陥る時間が多くなっていった。
ある夜更け。
室に入ってきた男が諸葛玄でないことに気付くのに、かなりの時間がかかった。
幽閉当初から玄は用心深いことに、自身や世話人の訪のたび、逃亡を防ぐための見張りを扉外に一人立たせていた。
担当は、最初に珖明を襲った臣下二人の内の若い兵。
その夜地下室に忍び込むように入って来たのは、その見張り役の若兵である。
若兵は一人だった。
臣下である見張りの勝手な入室など、当然許されていない。事実の口止めも、若兵は首をかけて命じられている。
されど目前で繰り返される情欲の様と、自身で一度直に触れた妍姿の記憶から、己に昂まる刺激を抑えるには、その兵はまだ幼過ぎた。
「ここから出してやる、一緒に逃げよう。……そうだ、俺の妻になれ」
息を熱く荒げ、若さに任せて忙しなく珖明を慰む兵。
その様を、珖明は奇妙にも、無機質な己の眼が天井から一景を俯瞰しているような、他人事の如き感受で茫と、されるがままになっていた。
同夜だったか、翌日だったか、数日後だったか、記憶は定かでない。
珖明の上に被さっていた若兵は、いきなり入って来た別の男 —— 最初の手下のもう一人 —— と諸葛玄に引き剥がされ、その場で丸腰丸裸のまま縛りあげられた。
あまりに無防備でいてまったく術のなかった若兵の首に、きつく回される荒縄。
繩と結ばれた木棒が首後ろでぎりぎりと回された。締めあげられた縄が首肉に食い込んでいく。
若兵の舌が、異様に突き出て垂れ下がった。
「っ……がっ……あがっ」
詰まった異質発声と共に鳴った、喉骨が砕ける不気味音。
圧迫された赤ら顔が一気、黒紫に変色する。
五体が突っ張るように激しく痙攣し、眼がくるり白目を剥いた直後、若兵の頭と躰全体が、がっくりと崩れ落ちた。
「ふん。莫迦者め」
諸葛玄が目くばせすると、刑執行兵は屍が辺りを汚す前に手際良く簀巻きにし、室外へ担ぎ出していく。
諸葛玄は、不快極まりないとでもいいただけな眼光で珖明を一瞥したのち、何も言わず簀巻屍の後に続いて出て行った。
……鈍く響く外の鍵音。
一連様相を、珖明は終始横たわった姿勢で指関節ひとつ動かすこともなく、無感情な眸で眺めていた。
つい先ほどまで、己の上で熱い体温を発していた者の変容。
縊り死を見たのは初めてだ。斬殺と違い、噴き出る鮮血はない。
同じ、〈死〉。
受けた当人に問いようはないが、残酷さでは、どちらが勝るものだろうか。
……
その一件以降の珖明の記憶認識は、靄がかかったようにはっきりしていない。
諸葛玄の訪は、死刑を強行した室で気味が悪くなったのか、極端に減った。
珖明が付けていた日数の印も、記すことを忘れて久しい。
珖明の中の時が止まっていた。
己が生きているのか死んでいるのか、明瞭な自覚もできぬまま、珖明はただ、息をしていた。
◇◇◇
短い秋が過ぎ、季節が初冬を迎えたことにも鈍麻していた珖明が、あるときふと気付くと。
見知らぬ青年がひとり、側に立っていた。
何か話しかけてきている。
穏やかな気……敵意は感じない。しかも錫青を連れている。
何故……?
幽かな疑問を持ちはしたものの、それでもやはり自明のこと。
初め珖明の識別が捕えたのは錫青だけで、その青年には、なんら存在意義を認めなかった。
けれどもひとつだけ。
諦めたように去り掛けた青年が最後口にした『月笛の麗人』の話が、珖明の心に小さな轍を残す。
青年は石韜、字を広元と名乗った。
偶然知り合った子玖から城へ招かれた、旅の書生。
青年は度々、錫青を伴って地下室を訪うようになった。
特に何か目的がある様子ではなく、またこれといった講釈をするのでもなく、そして珖明に何も訊ねない。
不思議なほどいつも温かな佇まいで、彼はそこに居続けた。
青年と接していく中で特に言葉も交わさぬままであったが、珖明はほんの少しずつ、頭中の霞が薄くなっていくのを感じていた。
やがて憶い出し始める。……己には〈体温〉があること。
熱量は、すなわち生。
珖明は気付く。自分はまだ、生者なのだと。
石韜を通じて再び暦を取り戻していたから、あの最後の夜が十一月末日だったのを、珖明は認識している。
あの夜、扉外に一度、彼が来ていのには気付いていた。
されど、一旦消えた気配の後で室扉を開けたのは……諸葛玄。
反射、珖明の感情には『拒絶』の二文字だけが浮かんだ。
恐らく石韜はまだ扉外近くにいる。
だめだ。彼にこの事実を知られてはならない。
絶対に、だめだ——。
……だが、それが虚しい抵抗に過ぎないことは明白であった。
始めから勝負など成り立っていない。諸葛玄が入室した時点で、この場での珖明は敗者でしかないのだ。……
二日後。
初めて地下室を訪った子玖が珖明に告げたのは、石韜が襄陽への帰路に発ったこと。
珖明はとうに了知している。
あの夜、玄が出て行ったのちしばらく後、扉外に立ち、やがて弱々しい足取りで遠ざかっていった気配。
あれは石韜であった。
彼はその眼でことを見定め、そして……去ったのだ。
珖明の脳裏を、扉外で項垂れ消えた諸葛瑾の沈黙の影が、すっと掠め抜けた。
珖明は自身に語る。
何らの違和もない。植物の種が、落とされた場所でのみ根を張るように、この成り行きは極自然なことだ。
石韜。あの青年は、多少の苦悶を抱えてはいるようであっても、闇の人生を歩む質ではない。
そして自分は彼のようではないだけだ。
そう……この世に宿命生まれた瞬間から。
……
己を取り戻しつつある感覚の中で、珖明の怜悧な思考が再起動し始めている。
しかしそれは、かつての珖明とはどこか変質した〈気〉を帯びていた。
……冷静さとも違う。
出口を塞がれた凍川の流れが淀み、そのまま固く冱って、次第に巨大な氷塊へと育っていく。
そんな冷たい重たさを持った、妖異な怪物の姿をしていた。
<次回〜 第36話 再訪〈1〉>