第34話 秘独(ひどく)〈1〉
(✽お詫びと訂正:4/22以前に「第29話 瘡痕〈2〉」までをお読みくださっていた皆様へ。
29話が28話と同じ内容となっており、一番大切といえる1話分の話が抜けておりました。4/23に修正済です。大変申し訳ございませんが、「第29話」を読み直ししていただきたく、お願い申し上げます。)
珖明が隠し地下の存在を把握したのは、この邸へ来て比較的すぐである。
各主要な場所に通じて造られていることや、その順路の目印を知り尽くすのに、さほどの時間は要しなかった。
地下だけではない。この塢全体や邸には、様々な仕掛けが為されている。
ここを設計った者は相当の慎重さを持ち、なおかつ奇人であったのだろう。
例えば、当主の閨房の監視穴。
興味から仕掛けを探る中で、珖明は偶然発見した。
ただし、その機が悪かった。
諸葛玄と章氏。
漏れ聞く会話から、彼らが諸葛珪存命中からの長い関係であることを珖明は知る。
初めは多少の愕きを持ったものの、即時に難なく思考を切り替えた。
〝 良いではないか、別に。諸葛珪の心が、章氏からは離れて久しかったのだから。
珪が気付いていたかどうかは……さておき、どちらの乖離が先んじたなど、益のない論争だ。
だがこの二名は惧れている。自分達には〈罪〉があるのではと。
なるほど、この国が柱と定めた儒教の教育力は強い。
章氏も事の始めには、身に負う責の覚悟をそれなりにしたかも知れぬが、そんなものは所詮、幻想でしかない。〟
……
彼らのしのび事を知った後も、珖明自身では批難などはもとより、興味さえ持ち合わせていない意識だった。
しかし、さすがにまだ十代半ばという若さ故であろうか。
珖明はその高い知能に比して、己の表情や所作が対人に与える影響について、無関心であり過ぎたと言える。
そして諸葛玄の心の歪みは、珖明の認識より遥かに敏感、しかも重篤だったのだ。
自身の性別を秘すための細心の目配りはしていた珖明であったが、玄の澱んだ執心はそれを超えた。
言い方を換うれば、万が一に秘が露見したとて、玄がそこまでのことをするなど、想定していなかったのである。
その夜は、寸刻の油断であった。珖明は突然、寝間入りを襲われた。
「……!」
相手が諸葛玄だとはすぐに気付きはしたものの、敵は二人の共犯を連れていた。
近臣の将と剛腕の若い兵。
屈強な男二人がかりで絡め取られ、口に布を咬まされる。
よほど綿密に調べていたのか、珖明が常時隠し佩帯していた匕首(短剣)と鏢(小型の投擲武器)も、真っ先に奪われた。
「ずいぶん物騒な物を持ち歩いておるのだな。しかも〈鏢〉とは。いったい何の備えだ」
牀台に引きずられ、上から四肢を押さえつけられる。
逃れようとあがくも、腕力で到底敵うはずはない。
「姿を見た初めに不信はあったが……まさか、な」
玄の低い嗤い。
「真かどうか、あとは直に身体を確かめるしかあるまい」
「……!」
常軌を逸した、いびつな欲望。
珖明はなおも激しく抗う。
自由を奪われた珖明の視野端に、細く開いた室扉隙間が入った。
その奥に、一個の眼がある。
人だ。誰かが室外から事を見ている。
———— ……子瑜!
それが諸葛瑾だと、珖明は瞬時に見分けた。
咄嗟、声を上げられぬ珖明の眸が、その眼に救いを求める。
珖明のそのような珍しい心境は、目前で諸葛珪が斬られたあのとき以来であったろう。
……しかれども。
しばし驚愕に見開かれていた戸外の眼は、その位置から動くことなく……やがて閉じられた。
そうして項垂れた影は音も立てず、戸口からすう、と気配を消す。
「……」
事実を見留めたとき、珖明は明確に悟った。
瑾は今、自分を『切り捨てたのだ』と。
転瞬ふっと、珖明の全身から抵抗する気力が抜けた。
ここではもう、抗っても無駄だ。相手が殺しにかかってきたなら別だが……いや、同じことか。
続く男達からの陵辱を声も出さず耐え続ける中で、いつしか珖明は、気を失した。
◇◇◇
珖明が衾内で気付くと、夜が明けていた。
外は薄溟い。雨音がする。
———— ……殺さずにはおいたらしい。
とりあえず、生きている。
頰に平手を受けた折に口中を切ったのか、薄く血の残味がした。
身を動かそうとして、足下方に走った激痛に顔をしかめる。
———— ……痛っ。
そろそろと手を伸ばし、自身の身体を確認した。
痛みの正体は、両足裏に受けていた切り付けの瘡。すでに簡易な手当がされている。
朧げに思い出せば、昨夜気を失してから後、瞬息、凄まじい酷痛で目を覚まさせられた記憶があった。
———— なるほど、な。
さほど深い瘡ではないと思われるが、それでもこれでは当面、自力でまともに歩けはすまい。
———— さすが敗者とはいえ、戦経験をしているだけのことはあるか。
横になったまま、珖明は嗤笑した。
あの男を甘く見ていたようだ。
人の負の感情とは思っていたより根深く、理不尽らしい。……
気力を奮い、珖明は一旦上半身を起こした。
衾内の身は裸身。牀台周りに散乱する衣類を懸命に集める。
内帯を床から拾い上げた珖明は、帯の流れに沿い、手をスッと滑らせた。
指が途中の一箇所で止まる。
そこに確認できる、内部のわずかな固形物。
「……」
小さく息をつき、内帯を身につける。
なんとか間に合わせの身支度を終えると、再び身を横たえた。
眼の奥が、鈍器で殴られたように重く痛む。
珖明は目頭を指で強く押さえた。
これから、どうするか……。
思案し始めたと同時、ばたばたと歩廊を駆ける足音が近づいて来るのが耳に入った。
あの足音は子玖だ。
———— 間の悪い時に……。
珖明は眉を寄せる。
陽が高くなっても起きてこない兄を案じて来たのだろうが、それにしては相当慌てた様子だ。
室口に到着した子玖は、背を向けて横になっている珖明の臥牀前まで、一気に駆け寄ってくる。
そこまで来て、
「……兄上?」
起き上がらない兄の様子にさすがに気が引けたのか、子玖は戸惑ったように勢いを止めた。
「どこかお加減が悪いのですか?」
「……」
幼い弟に気取られてはならない。
子玖に背を向けたまま、珖明は低声を返す。
「少し頭が痛むだけだ。慌ててどうした」
「……あの……」
寝込んでいる相手に言っていいものかと、子供ながらに逡巡を見せた子玖であったが、思い切ったように。
「子瑜兄様が、急に宛を出ていかれると仰るんです。やっと荊州に落ち着いてまだ間もないのに……どうしてでしょう。止めてください、兄上」
「……」
諸葛瑾に荊州を出る考えが以前からあったことは、珖明も知っている。
瑾は揚州滞在時代に出会った友人から、江東の若き新勢力、孫策への出仕を薦められていたのだ。
それにしても、その時宜が昨夜の今日とは……上手く合わせたものだ。
寸瞬、珖明の脳裏に昨夜の一連が蘇り、また気が遠くなりかけた。
胸裡で己の頬を叩く。
合わせて珖明は、早急にすべき事があることに心付いた。
心身の苦痛を隠し、半身を子玖に向け起こす。
「子瑜兄は、いずれ江東に発つおつもりであった。それは止められぬ」
平静さを保った態を維持しながら、悲しげな顔を見せている子玖と眼を合わせる。
「それより子玖。そなたに急ぎの頼みがある」
<次回〜 第35話 「秘独〈2〉」>




