第33話 瑯琊脱出〈2〉
(✽お詫びと訂正:4/22以前に「第29話 瘡痕〈2〉」までをお読みくださっていた皆様へ。
29話が28話と同じ内容となっており、一番大切といえる1話分の話が抜けておりました。4/23に修正済です。大変申し訳ございませんが、「第29話」を読み直ししていただきたく、お願い申し上げます。)
南へ、南へ。
落ち延びる諸葛一家はほとんど休まず、南の地、揚州方面を目指す。
諸葛瑾は叔父の諸葛玄から、
「とにかく揚州・九江郡・寿春方面へ向かえ」
という指示を受けていた。
九江郡の中心地である寿春は、一年ほど前から、名門袁氏一族の袁術が本拠地として治め始めている地だ。
『治めている』と言っても、それは袁術が曹操に大敗し、命からがら逃げのびた結果の地であったから、袁術の実力にもはなはだ不安は付きまとっている。
それでも袁術という者、南方地域では、その家柄による威風が健在していた。
一族を引き連れる諸葛玄は、袁術と過去にわずかに面識があったことから、かの地を目指している。
落ち延びる彼には、当面そこしか、頼れる伝手がなかったのである。
陽のある内にと夜が明けた後も走り続け、やがて周囲が落照に染まりかけた頃、一行はやっと歩調を落とした。
「この辺りで、一度休みましょう」
女達の乗る馬車に声をかけ、諸葛瑾は馬足を止めた。
曹操の憎しみの矛先が、徐州の〈地〉なのか〈人〉なのかは測りかねるにしろ、瑯琊をここまで出た難民までは追ってはこないだろう。
西の地平に太陽は隠れ、夜闇が敷かれ始める。
空には普段と変わらぬ星々が、地上の擾乱など我知らず、皮肉なほど静謐に瞬いていた。
起こした火を囲みつつ、それぞれがぼろぼろに疲弊した体を休める。
……しかし誰も、悪夢のような体験の呪縛から心は解き放たれていない。
目指す揚州の地は、まだ遥か遠方なのだ。
「子瑜兄様」
護衛兵に交代の見張りを指示し、樹の根元に腰を下ろしていた諸葛瑾の前に、子玖が立っていた。
子玖の眼は、泣き腫らしたままで腫れている。
「どうした。尻が痛いか」
大人の自分でもきついのに、九歳の子にはとてつもなく苦痛な騎馬だったろう。
その間一度も弱音を吐かなかった幼い従弟に、瑾は温かさを含んだ目を細める。
労りを受けた子玖は、しかし顔をまったく綻ばせることもせず、真顔で問うた。
「教えてください、子瑜兄様。どうして皆、戦をしたがるのですか」
「……」
諸葛瑾は黙した。
この先に万が一……万が一、漢朝四百年の御世が終焉を迎え、人が繰り返してきた過去歴史のように、群雄割拠の弱肉強食時代が激化するとしたら。
諸葛瑾自身も即、対応する生き方を模索し、人生の重要な選択を幾度となく迫られることになるだろう。
子玖の問いは、おそらくその毎時につきまとう、原点の疑問のように思えた。
———— 人は何故、戦をしたがるか……か。
今の瑾にも、説明のつく答など見つかっていない。
それは一生、いや、人という生き物には永遠に正解が出せない、苦難の課題ではなかろうか。……
やがて、落としていた眼差しを上げた諸葛瑾は、ゆっくりと口を開く。
「子玖。人が戦をしたがるとは、わたしは思っていない」
味のわからぬものを噛み砕いて確かめるように、ひと言ひとことを語る。
「ただ、〈闘う〉ということは人からは無くならない。矛盾するそのふたつが、常に混同されてしまうだけだ」
「……?」
子玖が首を傾げた。
難解さに困っているのだろう。それでも兄の言をなんとか理解しようと努力しているのが、目の色でわかる。
瑾は満足げに頰を緩ませる。
「おまえは、おまえが儀しいと信ずる意で、生きればよいぞ」
子玖の優し過ぎる気質に懸念はあれども、それが子玖自身を輔けることになるのではないか。
そう、瑾は願う。
同時に……この先の自分については、恐らくその様には生きられまい、と予期をした。
己の意を越えた、過酷な世が来るのだ。
◇◇◇
子玖を寝付かせ、瑾自身も横になった。
緊張を解くことが出来ぬとはいえ、少しは眠らねばならない。
眼を閉じる。
……すると、疲れた脳裏に意外な憶いが巡った。
昨年斃れた義父、諸葛珪に関することだ。
諸葛珪は家族を瑯琊に置き、単身、泰山丞(次官)の任に付いていた。
泰山での乱による諸葛珪の死報に際し、養子待遇として瑯琊で珪の家族と共に暮らしていた諸葛瑾は、義父の遺骸さえ手にしていないことに堪え兼ね、現地に向かおうとしたのを、周囲に止められた。
その後も結句、義父を葬ることは叶っていない。
———— 泰山に入ることは、もう叶わぬだろう。
瑾にとって、それがどんなに不本意であろうとも、このような事態となった以上、現実は甘受するしかないのだ。
……そこはやむ無きとして。
「……」
瑾は自身の内部に、別途で己の眠りを妨げる〈ある意識〉が存在することに気付いている。
諸葛珪の訃報に始まってから今回の避難行に至るまで、家族を守る身となっている彼の胸奥底に、ずっと澱み溜まっているもの。
それは泰山事件にともなって起きていた、もうひとつの事象であった。
諸葛玄も、義母達もわかっている。
わかっていて誰も一切、そのことに触れようとしていない。
諸葛珪には、もう一人、子があった。
子玖の上の兄。年端は確か、今、十四。
『確か』という表現は奇妙なのだが、実は家族の誰も、その子の実体を知らなかった。会ったことがないからだ。
諸葛珪は、どういうわけかその子だけを手元の泰山に住まわせ、瑯琊の主筋家族には、決して会わせようとしなかった。
子玖に至っては、その存在すら知らぬであろう。
———— だがわたしは会っている。……一度だけ。
諸葛瑾はその子が十歳ほどのとき、一瞬だけ会わされたことがあった。
対面時、瑾はその面貌に目を見開き、息を呑んだ。
設計されて造られたような美麗な目鼻立ち。
皎く透きとおるような絹肌。
漆黒の艶髪。
それは腕のいい細工師が造った、秀逸な人形のようであった。
体格はしかとまだ十歳なのに、その美しさは『愛らしい』というものとは、すでに違っていたのだ。
その子は名を『亮』と言った。
———— 本当に、義父上のお子だろうか。
我ながら奇矯とは思いつつも、瑾に率直な疑問が浮かんだ。
子の面差しに、諸葛家の誰とも繋がるものが見当たらない。
「母親似なのだ」
瑾の表情から察したのか、諸葛珪は平板な声で言う。
「……」
当然、瑯琊にいる二人の妻の他にということになるが、義父に瑾から、それ以上のことは訊けなかった。
その子は泰山の乱の折、諸葛珪と一緒だったはずである。
しかるに、報告にあったのは『諸葛珪の死』のみで、その子の生死についての情報は、まるきり届いて来なかった。
生きている可能性は低いが、死んだとも限らない。
にもかかわらず瑾や諸葛玄は、その子を救いに行くことも、誰かを探しに差し向けることも、遂にしなかったのである。
亮という名のその子が、諸葛珪の数少ない直系子息であるにもかかわらず……だ。
為んかた無くか。あるいは故意にであったか。
……
想いを巡らせていた諸葛瑾の耳に、低い呻き声がした。
複数人の寝言……夢の中でも追われているのだろう。
ここで仮眠をとっている全員、共通悪夢を見ているのかも知れない。
「……」
眠りをあきらめた瑾は半身を起こした。
泰山方面を見遣ろうとして……止めた。反する揚州の方角へと面を向け、眼を伏せる。
彼は、己が内に呟いた。
……打ち捨ててきたのだ、わたしは。もうひとりの従弟……珖明を。
<次回〜 第34話 「秘独〈1〉」>




