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第32話 瑯琊(ろうや)脱出〈1〉

 墨染の空に覆われた夜に、紅の火と血の雨に染まるまちが映し出されている。

 闇は、生命の凄惨な断末魔を餌として膨らんでいった。


 徐州じょしゅう瑯琊国ろうやこく陽都ようと

 ひとつの邑が、今、消滅されようとしていた……。


(お詫びと訂正)

 2025.4.22以前に「第29話 瘡痕〈2〉」までをお読みくださっていた皆様へ。

 29話の内容が28話と同じとなっており、一番大切といえる1話分の話が抜けておりました。

 4/23に修正済です。大変申し訳ございませんが、今一度「第29話」を読み直ししていただきたく、お願い申し上げます。

「早く、早く! 荷物は路銀ろぎんになりそうな軽いものだけに! 敵が迫ってきております、とにかく今は生き延びることだけお考えください!」


 家令や僮僕どうぼく、侍女達が必死に急かす中、一家は危急の避難準備に追われている。


 月のない闇夜でありながら、城壁内の街はそこかしこに上る火の手で、遠目がきくほどに明るい。


「逃げろおっ!!」

「さっさと走れっっ!」

「だっ、誰かあーっ」


 辺り一面、助けを呼ぶ人々の悲鳴、土を蹴る足音、家畜のけたたましい吠え声、何か大きな物と大きな物がぶつかる轟音などに蹂躙じゅうりんされている。


 興平こうへい元年(西暦194年)夏、じょ瑯琊(ろうや)陽都(ようと)(山東省臨沂市)。

 そこはまさに戦場のただ中にあった。


子玖しく、もう少しだ、頑張れ」

「は、はい!」


 騒乱に包まれた九歳の子玖しくは、その小さな手を、普段から兄と呼んで慕っている十二歳上の従兄、諸葛しょかつ(きん)に引かれ、住んでいた邸の出口に向かい、懸命に走っている。


 諸葛家当主、諸葛(けい)の二人の妻と、娘二人を乗せる馬車の待つ邸門前まで、あと少し。

 だが子玖の小さな歩幅は、あせる諸葛瑾の大人速度に付いて行けず、もつれ、転んでしまった。


「し、子瑜しゆ(諸葛瑾のあざな)兄様」


 手とひざをついたまま、子玖は諸葛瑾を見上げた。ひとみに、いっぱいの涙を溜めている。


「父……いえ、叔父上はどうされたのですか」

 

 泰山たいざん郡のじょう(次官)であった子玖の父、諸葛珪は、四カ月前の昨年冬、任地の奉高ほうこう県(泰安市岱岳区)で起きた賊乱で横死おうししたばかりであった。


 諸葛珪の家族は、奉高県から離れた瑯琊住まいだったおかげで難を逃れたものの、家長を失って困窮。珪の弟である諸葛玄を頼ることで、何とか生き延びていたのである。


 ところが。

 半年も経ずの再びの戦火が、あろうことか今度はじかに、この瑯琊を襲ってきたのだ。


 此度こたびの敵は、賊ではなく軍隊。しかも圧倒的な大軍であった。


 敵帥将すいしょうの名は、えん(ぼく)(総督)・曹操そうそう

 自身の父、曹嵩そうすうじょ州牧・陶謙とうけんに謀殺され、怨みに毛を逆立てた曹操は復讐の鬼と化した。

 徐州の生き物すべてを根絶やしにせん、とする勢いで、昨年末に続く二度目の徐州侵攻を敢行してきたのである。


「兄様、叔父上はどちらに」


 起きていることの事由が理解できていない幼い子玖にとって、この場に誰よりいて欲しいのは本音、父親であろう。 

 しかしその父は、もうすでに亡い。


「……子玖」


 諸葛瑾は、転んだまま立ち上がらない子玖の前床に片膝ひざを付ける。


 子玖の父親は、早くに両親を亡くした瑾を息子として引き取ってくれた叔父であり、瑾が『父』と呼んでいた人だ。


 諸葛珪一家を引き取った珪の弟の諸葛玄は、近くで兵を指揮している。

 後で落ち合う約をした諸葛玄から、家族の守りを任された長兄分の諸葛瑾は、何としてでも一家全員を、ここから脱出させねばならなかった。


 床についた従弟おとうとの手の甲に、諸葛瑾は自身の手を重ねる。

 小さな震えが、瑾のてのひらにも伝わった。その震えを瑾は両手で包み込む。


 普段から優しい気質の子玖は、よわいに比例しないおさなさを残している子であった。

 そんな従弟のひとみを、瑾は真っ直ぐにる。


「よく聞きなさい、子玖」


 厳しい、だがじっくりと奥深い口調。


「お前の父は、昨年の乱で亡くなったのだ。悲しいが、泣いても時間ときは戻らない」


 子玖を立たせると、瑾はその両肩に手を置いて、強く言い聞かせる。


「よいか。お前は諸葛家の男子だ。しっかりしなくてはならん」

「……兄様……」


 『父の死』というものの真の意味について、子玖は明確には認識できていない。

 それでも従兄の瑾が、自分に何か大切なことを伝えようとしていることは理解できた。


 子玖はぽろぽろと大粒の泪をこぼしながら、はい、とうなずく。


「よし。ゆくぞ」


 諸葛瑾は再び子玖の手をとり、邸門へと急いだ。


◇◇◇


 曹操による、二度に渡った徐州侵攻。


 戦乱世が始まって久しい中、侵攻など特に珍しいものではない。

 しかしながら、ことこの曹操徐州侵攻に関しては、そのあまりな残虐性ゆえに、天下中からの非難と憎悪を集める事象となる。


 泗水しすいの水は血色に染まり、死闘で出た数十万の死体でせきが止まった。

 その上に曹操軍は、女子供、犬から鷄に到るまで、徐州の生命という生命を徹底的に皆殺しにしたのである。


『曹操軍が通り去った土地からは、一切の動くものが消えた』


 生き延びた体験者の語りは、風に乗り、あまねく世間に広まった。


 犠牲者の多くが、先の黄巾の乱などでの避難民であったとされる。

 さらにこの事件は、犠牲者数の十倍以上の難民を新たに生むことにもなったのだ。


 徐州侵攻の発端が、曹操の復讐心であったことは事実であろう。

 しかし裏では、複雑な覇権争いといった、乱世特有の事情も大きく関わっている。


 そんな、野心家達のふところ事情はどうあれ。

 詰まるところ世が乱れ一番犠牲になるのは、憐れ、無抵抗な民草たみくさであった。


◇◇◇


 とにかく、この場を逃れなければ。捕らえられたが最後、自分達もあの泗水の赤い堰の一部にされてしまう。


 子玖を連れた諸葛瑾が邸門を出た所には、家令の手配した急場の馬車と、馬一頭が引かれて来ていた。


 諸葛瑾はその馬車に、諸葛珪の二女と妻である宋氏、章氏とを乗せ、馬には先に子玖を乗せると、自身も子玖を支えて背後に騎乗した。


義母上ははうえ方、出発します。かなり揺れますが、しばらくは耐えてください」


 自身をも奮い立たせる気丈な発声で、馬車の中で身を寄せ怯えている女達を少しでも落ち着かせる。

 恐怖に声も出せない女達は、無言で小刻みに首肯するばかりだ。


「子玖、しっかりつかまっておれよ」


 手綱を引き、諸葛瑾は馬腹を強く蹴った。


 夫人馬車と諸葛瑾の馬、数頭の護衛騎馬、数名の徒士、下僕の一行は、遁逃とんとうする他の多くの民と共に、城門方向を目指す。


 子玖は馬上から振り落とされまいと、馬首に全力でしがみついた。


 上下左右、小さな体を激しく揺すぶる動きに耐えながら、子玖は自身の見える範囲に目をる。


「……」


 城壁に囲まれた故郷のまちが、破壊され、燃えていた。

 無秩序に逃げ惑う人々の足元の地面には、そこら中に血溜まりができている。


 無造作に転がる、不自然に曲がった腕や足のついた人の体。

 赤児を抱いたまま、背を赤く染め伏せて動かない女。

 呆けたように、ただただ座り込んでいる男。


 少し離れた場所では、雄叫びをあげながら刀を振り回している、いくつかの人影が見える。


 ———— どうして……こんな。


 光景に耐えきれなくなった子玖は、たてがみに身を伏せ、眼をぎゅっとつむった。


 けれど視界は暗くなっても耳は開いているから、今度は意味不明の叫び、悲鳴、高笑い、壊れる寸前のような軋み音をたてて走る車輪、もつれた馬蹄、木の燃え弾ける音……見えない分余計に、連想の画を描かせる恐怖の音声は、容赦なく入ってくる。


 何とか耳を塞ぎたいと思っても、馬にしがみついていて両手共塞がっている。

 腕で耳を塞げないかと、自分の両腕の内側に頭を深く埋めてみたが、無駄であった。


 ———— あ……あ。


 不意に、子玖は胸あたりが突き上げられたように苦しくなった。

 唇を、痛みを感じるまでに噛みしめる。


 ———— 地獄だ。


 塞いだ眼から、またなみだが溢れた。頬に奔る風が、その泪を後方へと流して行く。


 悲しいのか、悔しいのか、……両方か。


 ———— 地獄は、死んだ後の話じゃない。生きているこの地上に存在あるものなんだ。


 それは、戦乱期に生まれ出た運命を背負い、これからも人生を生きてゆかねばならない九歳の少年の、小さな胸に深く彫り込まれた、最初の定見だったかもしれない。


挿絵(By みてみん)



<次回〜 第33話 「瑯琊脱出〈2〉」>

第一章、後編のスタートとなりました。頑張って書いていきます。

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