第31話 嵐雲(あらしぐも)
(お詫びと訂正:✽4/22以前に「第29話 瘡痕〈2〉」までをお読みくださっていた皆様へ。
29話の内容が28話と同じとなっており、一番大切といえる1話分の話が抜けておりました。
4/23に修正済です。大変申し訳ございませんが、今一度「第29話」を読み直ししていただきたく、お願い申し上げます。)
寒い……。
自身の白息に、子玖は口の中で呟く。
ここは、こんなに寒かったろうか。つい先日の雪夜の方がよほど冷えていたのに、どうしてか今は、その時よりも凍てついて感じられる。
珖明のいる地下室の扉前に子玖はいた。傍らには錫青が伴だっている。
地下道には数度通ったことがあるものの、子玖がこの扉を開けたことは一度もない。叔父や母に反する勇気が、どうしても持てなかったからだ。
「……」
目を伏せた子玖はもう一度、ここに至った気持ちを整理する。
叔父からある日突然『病』と伝えられた珖明の姿が見られなくなってから、ふた月以上が経っている。
先の雪夜の望楼で久方目にした兄の背姿は、細く軽く、今にも暗闇に溶け消えそうで、離れた場所から見ていた子玖には、実体の無い幽魂(亡霊)のようにも映った。
その不安定さに、本音、懼れさえ感じたのも事実だ。
———— でも兄上は、間違いなく生きてここにいる。
広元はそれを自分に教えてくれたのだ。
……しかしその広元は、城から去ってしまった。
それらを経て、子玖は自らの意志でここへ来たのである。
———— ……大丈夫。
意を決め、顔を上げた子玖は閂を外し、慎重に扉を引いた。
まだ陽も落ちてはいない時刻だというのに、燭をもってしても酷く暗い室内。
卓上の細い燈の先、奥の牀台上に、珖明は半身を起こして坐していた。
「あ……兄上」
訪問者が子玖だと気付いてはいるだろうが、目蓋を閉じたままの珖明は反応しない。
深呼吸する子玖。足元の錫青が、そこから離れないまま子玖を見上げる。
努めて平静に、子玖は口を開いた。
「兄上。石広元どのが、今朝、襄陽へ発たれました」
そのとき、珖明がほんの少し眼を開いたのが、子玖にもわかった。
「言伝を頼まれたのではありません。ただ広元先生は……『急な都合で、珖明どのにはきちんとした挨拶もせずにすまなかった』と……そう去り際、仰っていました」
返事は無い。
されど、珖明の内部で何かが反応したと子玖は感じる。
……いや。きっとそうであって欲しいと、願ったのだ。
◇◇◇
数ヶ月振りに通る襄陽への帰路道を、広元は遅々として馬足を進めている。
肌を刺す寒さではないといっても、道の所々には、朝おりた霜がまだ溶け切らずに残っていた。
子玖に出会ったのは、約ひと月半前。だがもっとずっと以前の事のような気がする。
広元は一旦馬足を止めた。
従う狐站が馬首を小さく震わす。広元は手綱を握る拳を腿上まで落とした。
「……」
結句、自分はこのひと月半で何をしたのか。
———— ……卑怯。
そう形容するしかない己の去り方を弁護などしない。自ら関わっておきながら、自分は明らかに逃げたのだ。
それを承知の上で、去り際に広元は、子玖にひとつだけ願いを残した。
「もしも今後、何かの事態であの邸を去らねばならなくなったときには……可能な限りでいい、地下室の錠を外しておいてやってくれないか。珖明が自身で、脱出できるように」
あの状況から逃れようとする意志が、いったいまだ本人に残されているのか。
それは広元の、限りなく懇望的な思惟だろう。
けれども子玖は、戸惑いなく頷いてくれたのだ。
「はい、必ず」
子玖は、出会った時と同じに人懐こい少年の貌を見せ、微笑んだ。
……
ひやりと冷たい空気が、広元の全身を撫でる。
狐站が再び、此度はやや大きく嘶いた。
「狐站……冬本番が来るな」
狐站の鬣を撫で、広元は今一度、西の城方向を振り返る。
城の上空奥には、城を出た時には見られなかった鉛色の厚い雲が、大きな塊を作り始めていた。
……冬の嵐か。
「——」
胸奥で最後の別れの言葉を呟くと、広元は嵐雲を背に、襄陽へ向けて馬腹を蹴った。
暦、建安元年十二月。
この月、兗州牧・曹操は荊州を攻略すべく、年明けに南陽郡宛県への進軍を開始するという号令を、全幕僚に下した。
<第一章 前編「麗人と狂人」 了>
第一章前編を最後までお読みいただき、ありがとうございました。
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次回より物語は後編へと突入します。
曹操の侵攻を迎える宛で、西の城の諸葛氏と趙雲の運命は。
そして宛を去ってしまった広元は、果してどう行動するのか。
ストーリーテンポが躍動します。
どうぞご期待ください。
<次回〜 第一章 後編「炎影に光る蒼眸」
第32話「瑯琊脱出〈1〉」>