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第30話 離去(りきょ)

(お詫びと訂正)

2025.4.22以前に「第29話 瘡痕〈2〉」までをお読みくださっていた皆様へ。

29話の内容が28話と同じとなっており、一番大切といえる1話分の話が抜けておりました。

4/23に修正済です。大変申し訳ございませんが、今一度「第29話」を読み直ししていただきたく、お願い申し上げます。

「発たれるのか。襄陽じょうようへ」


 旅支度を終え、厩舎きゅうしゃ狐站こたんの準備をしていた広元は、掛けられた声に振り向く。


「ええ、子龍しりょう様。……ご挨拶をしようと思っていたところです」


 早朝。空は一面寒雲に覆われているものの、取り敢えず雨や雪の心配はなさそうであった。

 広元は今日、西の城を発つ。


「お世話になっただけで御恩も返さず、心苦しいのですが」


 諸葛玄には昨日、形式的な辞去挨拶を済ませた。

 その際、相手の顔をまともに見ては感情を抑えられなくなりそうで、ほとんど逃げるようにその場を立ち去った自分を思い返す。

 あの地下室のことがあったのは、たった二日前だ。


 犬舎へも先ほど赴いた。


「今日襄陽へ起つんだ、錫青。……お別れだ」


 錫青は心なしか寂しげな、鼻に抜ける高い鳴き声を上げ、ただじっと広元を視詰めるばかりであった。


 広元の胸奥に、ちり、と痛みにも似た居苦しさが走った。耐えきれず目をそらす。

 もし錫青が人の言葉を話せたら、この場の自分に、何と訴えたであろう。

 ……


 趙雲は狐站のたてがみを撫で、名残惜しそうにしながらも、いつもの爽やかな面様を見せる。


「唐突な要望に応じてくれて、此の方こそ有難く思う。子玖どのも良き時を過ごされたろう」

「……」


 子玖とも、広元は昨夜無難な辞去会話を済ませていた。


 広元の知った事実。それを子玖に明かすなど出来るわけがない。

 だからとて、結局のところ何の解決も進展もさせずに、自分はここを去るのだ。


 穏やかな笑みで別れの言葉を送ってくれた子玖も、本音では、いっとき師と呼んだ相手に失望していたかも知れない。


「……何かあったかな、広元どの。少し顔色が優れぬようだが」


 趙雲からのいぶかしげな指摘を受け、広元は即座に作り笑みを返す。


「いえ、何も。ただその……やはり寂しくはあります」

「……そうだな」


 趙雲はふっと、若干鋭さのある短い息を吐く。


「とにかく道中くれぐれも気を付けられよ。そしてなるべく早く、襄陽へ戻られることだ」


 先刻までの柔軟顔を変えた、武士の真顔。


曹操そうそうが近々南陽攻略に動くかも知れぬ、との風聞ふうぶんも流れてきている。真偽はともかく、その前に宛からは出られた方が良い」

「……」


 聞かされた広元の眉根がぎゅっと締まる。

 去る自分はよい。だがもし敵来襲が現実となったら、子玖や……地下のあの囚われ人はどうなるのか。


 かといって、仮に自分がここに残ったとしても、何の役にも立たないのだ。


「子龍様」


 馬の手綱を一度強く握り、力を抜いてから、広元は趙雲を真っ直ぐに視た。

 万が一の緊切事態に頼れるのは、きっとこの男だけだ。


「ぼくが言うのもおかしいのですが、子玖と……諸葛家の皆様を、どうかお願いします。勝手なのですけれど、あなたは今の世屈指の勇猛武将だと、ぼくは思っています」


 趙雲は一瞬きょとんとした表情をしたものの、直ぐに破顔する。


「はは、それは光栄だ。もちろん、お任せあれよ」


 それは偉丈夫らしい、頼もしい笑貌であった。


◇◇◇


 すでに開門されている西の城の城門では、多くの人々の朝往来が始まっていた。

 老若男女、皆、こなすべきそれぞれの勤めに忙しく動いている。


 手綱を引きつつ遅い歩で門前まで来た広元は、そこで一旦立ち止まり、目に映る光景をしばし無言で眺めた。


 ただでさえ古び傷んだ門と内城壁が、去ろうとしている広元の目には殊さらあやうく、寂寥せきりょうに感じられる。

 ふと、


 ———— もう一度、子玖の顔を見ておけばよかったな。


 そう思い、しかしすぐに考え直す。


 会ったとて、何といえばよいのか。

 適切な言葉は見つからないのだから、やはりこれでよかったのだ。


 重い歩でそろそろと進み、城門をくぐり出る……と。


「広元先生」


 聞き慣れた声。広元が発声方向を見遣る。


「し、子玖?」


 城門外端に、子玖が一人で立っていた。


 いつから待っていたのだろうか。

 子玖は去り行く師に歩み寄ると、持ち前の愛らしいひとみに笑みを含ませながら、揖礼ゆうれい(丁寧な拱手きょうしゅ)を施した。


「先生。これまで本当に有難うございました。とても……とても楽しかったです、このひと月半」

「子玖……」


 何か言葉を返さねば。だが、何と言おう。


 広元を気遣うかのように、子玖が続ける。


「冬道ですし、城外は何かと危険ですから……襄陽まで、どうかお気を付けて」


 声音や仕草から、子玖が精一杯気丈に振舞っているのがわかる。


「……」


 見つからぬ返答の代わりに、広元の中にはじんわりと、子玖の今後の無事と幸福を祈る想いが湧いた。


 いまさら何をつくろおうとしている。

 己がどれだけ不甲斐ないかは、もう、嫌というほど自覚させられたではないか。

 これ以上の言の模索は、未熟なの言い訳になるだけなのだ。


「子玖」


 心を澄ませ、広元は落ち着いた笑みを返した。


「ぼくこそありがとう。宛と襄陽は近い。きっとまた会おう。襄陽に帰ったら文を書くよ」

「はい」

「じゃあ……元気で」


 引き寄せた狐站の背に、広元は手をかける。


「……先生!」


 乗馬寸前の広元を、子玖が再度、先ほどまでより大きな声で呼び止めた。

 馬背に手をかけたまま首を回した広元に、やや伏目の子玖は言葉を噛みしめるように、意外な話を口にする。


梁甫吟りょうほぎん……憶えてますか? 先生とお会いした時の」

「……うん。もちろん」


 忘れるはずがない。あの印象的な謡から、すべては始まったのだ。

 しかしなぜ、ここでそれを?


「……あの」


 子玖は言いにくそうに少し間を置く。そして額を上げ、思い切るような口調で。


「あの謡、子瑜しゆ兄様から教わったと言いましたが、本当は……珖明の兄上が、教えてくださったんです」

「……!?」


 思いがけぬ告白。

 広元は瞠目どうもくし、言葉なく子玖を見詰める。


 視線を受け取った子玖は、切なさも含んだ複雑な目色の微笑みを、広元に返すのだった。



<次回〜 第31話(第一章前編 最終話) 「嵐雲あらしぐも」>

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