第29話 瘡痕〈2〉
木錠を嵌める鈍い音。
炬火の灯と、履音が遠ざかる。
その履音が聞こえなくなってもまだ長いこと、広元は初めに身を隠した場所に坐り込んで、腕に抱えた膝に顔を伏せ蹲っていた。
訪問者を確認してからずっと、身の姿勢を変えることも忘れて固まっている。
内に響く自らの心悸音に気付き、広元はやっと、立膝に埋めていた顔を起こした。
墓室かと錯覚するほどの闇と冷えきった空気が、彼を包んでいる。
広元は頭をほんの少し、室の方向へとやった。
小さな壁燈が扉をうっすら、蜻蛉のように浮かばせている。
その扉には元々下部に、通気の為であろう、いくらかの隙間がある。
室に入った時の諸葛玄は、扉を半目閉じにしかしていなかった。
地下には、日中の世話人を除いて己以外誰も来るはずがなく、室外への警戒や遠慮といったものなど考える必要はない……城主である玄は、以前よりそう、狎れていたのかも知れない。
静寂ゆえに些細な音も響く地下。
扉の極近くにいた広元には、途切れ途切れの箇所はあるものの、室内での発声の多くが望まずとも —— いや、あるいは聴き取ろうとしていたのか —— 耳に入って来ていた。
言葉だけでなく把握もしている。
中で、何があったのかも。
「……」
諸葛玄の発した数言の内、あるひとつを聴きとらえたとき、広元は聞き違いかと己が耳を疑った。
『女として埋もれさすには、惜しき——』
———— ……今、なんと言った?
寸時には意味が咀嚼出来ない。
だが続けて、確かに聴こえたのだ。
『周囲全てを欺いてまで男とさせようとしたは ——』
頭部を殴られたような衝撃に、広元は大きく眩暈がした。
まさか。あり得ない。
子玖とて、珖明を間違いなく〈兄〉だと思っているのだ。
『面倒な画策』? いったいどこをどう歪めたら、そんな事態になる?
……
腕で抱えた膝も解かず、広元は天井を見上げた。背を後ろの岩壁に凭れさせる。
眼は開いているが、映るのは、閉じているのと変わらぬ黒い空間だけだ。
「……」
彼は、体内に溜め込んでいた息のすべてをはいた。
見えぬ白い息尾が、すう、と上方へ溶けてゆく画を闇に描く。
その軌跡を追う彼の頭中に、今まで耳にした多くの言の葉が、疎らに点滅した。
諸葛珪。身代わり。惨殺。
玄。章氏。諸葛の胤。
狂っている。凶星。儘ならぬもの。
珪の狂心。自らの意志。惜しき才。嬌姿。……
それら断片は、全体の事情を知るわけではない広元の中で、完全には繋がらない。
だが、ひとつの重要な答を導いていた。
即ち、広元があれほど知ろうとしていた、この状況の因。
……
広元は壁に付いた手で身を支え、ゆるゆると立ち上がった。
灯の消された灯器を持ち、岩壁を伝い足音を立てず、扉まで歩む。
扉前に立つと、目の前にありながら霞んで見える嵌められた木錠を、そのまましばし無言で見つめた。
片掌を錠上に置き、そこでまた動きを止める。眼差しを落とし、唇を噛む。
「……」
広元の体奥から聞こえる、沈着な語りがある。
それは極めて、真実に近いと思える推察。
珖明が、章氏の主張するように諸葛家の血胤でないと、知る術はない。
ただ、はっきりしたこと。
子玖を除いたここにいる諸葛家の者は、珖明を憎悪しているのだ。
根源は、幼少期の珖明を育てた諸葛珪の、諮り得ぬ実相とその死に端を発した、何らかの深い因縁。
その上で、諸葛玄が珖明を半死半生のように扱いながらも、拘禁し続けるもうひとつの理由。
それは……。
———— ……なぜ、今まで。
それは、広元が当初から感じていた違和感と矛盾するものではない。
想察力を強く働かせていれば、もっと早くに認識することも、可能なはずだったろうに。
珖明は、女なのだ。
いつから、なにゆえ身内にさえ伏せてまで、そのような生き方をしているのか。
……真相など、無論、広元には知るすべも無い。
———— でも……大事なのはそこじゃない。
広元にとって、絶対的といえる事実がひとつだけある。
この家の抱える過去闇と、珖明の満身に抉られた瘡痕は、あまりに深過ぎる。
それは自分の予想を遙かに超えたもの。
生半可な善意など、通用すべくもないものなのだ。……
木錠に置いた手を、広元は身に引き戻す。
壁の燈から手燭に灯を移し、扉に背を向けると、彼は来た道を戻り始めた。
足元がふらつく。手を這わせた壁で体を支え歩くのが、やっとであった。
———— 慢心だ。
室扉から一歩一歩遠ざかりながら、広元は自身に諭す。
———— 慢心だったんだ。妹一人救えなかった不才者なのに。
無力に尽く。
己に珖明を救える力は、ないのだ。
<次回〜 第30話 「離去」>




