第28話 瘡痕(そうこん)〈1〉
ここを訪れるのは、最悪これが最後になるかもしれない。
そんな覚悟を抱え、広元は地下道を歩んでいる。
独りでの訪問……最後になる場合を考えるなら、当然錫青を伴ってくるべきだったろうが、子玖からのあの話を聞かされては、それは出来ようがない。
己が事を解決する能力なぞ持ち合わせていないことは、広元自身、重々自覚している。だとしても、この期に及んで何もせず素通りは出来ない、と思う。
だから、嘆願を試みようという意思は変わらず持っていた。
……そのためには、珖明がこうなった経緯を知らねばならないだろう。
———— でも、どうやって。
ずっと、考え続けている。
———— 思い切って訊ねてしまおうか。……本人に。
道々迷いながら、とうとう扉前まで来てしまった。
決断に至らぬ手が木錠に掛かろうとしたとき、彼ははっと身を強張らせた。後方遠く、幽かな物音がした気がしたのだ。
———— 誰か来る!
とっさに地下道の続いている左手奥へ向かい、すぐ先の折れ角に身を回した。手持ちの燭を吹き消す。
扉横壁に細く浮く暗燈ひとつ以外、辺りは完全に近い暗闇となった。
音は徐々にこちらへ近付いて来る。やはり人の足音だ。
……もしや、子玖?
———— いや。たぶん世話の下女だ。
世話人の通う時間帯はほぼ決まっていて、それは深夜ではないらしいとわかっていたから、これまで一度も鉢合わせたことは無い。
万が一会遇してしまった場合の誤魔化し対応も、通用するかはどうかは別として、一応用意してはいる。
それでも発覚せぬにこしたことは無い。ここは世話人が去るまで、じっとしているのが得策だ。
次第に大きくなる足音とともに、息を殺し身を潜めている広元の向かい壁、室扉がある方向に、揺れる火明りの大きなうねりが描かれ始めた。
———— 火が大きい……。
広元は一度目の地下道訪問以後、目立たぬよう小さな手燭使用のみにしている。対して、この訪問者は炬火を持参して来たようだ。
やがて明るさを増したそのうねりの中に、ひとつの黒い人影が映し出された。その影を目にした途端、
「……!」
広元は背筋にぞくりと怖気を感じた。
単に光の加減かもしれないのだが、ゆらゆらと動くその黒い影が、世話人の類にしてはずいぶんと大柄であり、そのせいもあるのか、言葉では説明し難い不穏さを放っていたからだ。
広元は注意を払いながら、壁影からそうっと眼から上だけを覗かせて、扉方向を窺った。
来訪者は壁穴に炬火を刺し、扉の閂を外している。こちらには気付いていないようだ……そう思えた直後。
炬火に照らされた者の横顔を認め、広元は我が眼を疑った。
「……(あ!?)」
思わず声をあげそうになった己の口を手で塞ぐ。
扉を開け、中に入っていった男。
それは城主、諸葛玄であった。
◇◇◇
「どうした。今宵はやけに抗うではないか」
珍しく激しい抵抗をみせる相手の背を戒めに突き飛ばし、諸葛玄は声を荒げる。
牀台上に伏せ倒された珖明は、長い幽閉生活により筋力を奪われた腕で、痩せた上半身を懸命に支え上げた。
頭を低く起こし、上目遣いに玄を睨みつける。
体力は失くしていても、その眼光は拘束前同様の鋭い力を放った。
———— その眼付きが、気に食わぬ。
諸葛玄の舌打ち。
拘束当初はしていた抵抗も、半月と経たず諦めたように無反応になっていたのだ。
諸葛玄がここを訪れたのは久方であったが、今になって何故抵抗するのか、彼には解せない。
「久しく間が空いて、理性が戻ったというわけか」
敢えて大きく鼻息を鳴らす。
「ふん。うぬにもまだ、そんなものが残っていたとみえる」
諸葛玄は腕を伸ばし、獲物を引きずり寄せようとする。
それを、弱り切っているはずの細腕が思いがけず強く払った。
「! ……こ、の」
顳顬に青筋を立たせ、男は珖明の両手首をまとめて片手で鷲掴んで腕ごと身体を引き上げる。
頰を張る高い音が数度。
口中を切った珖明の唇端に、細く血が伝った。
抵抗の力が弱まり、崩れ落ちた相手の襟首を諸葛玄は掴むと、再び引き上げる。
———— こやつ、どこまでしぶとい。
締め上げられ苦痛に歪んでもなお、娟麗さを失わぬ白貌。
この者はどんな責め苦にも、抗いはしても許しを乞う姿勢は、これまで一度も見せたことが無い。
細首をさらに強く絞り上た諸葛玄は、忌々しげに放つ。
「それほど気に喰わぬか。儂と、章氏が」
それは偶発的なことであったのか。
この秋、諸葛玄と章氏との秘事に珖明が気付いた。
気付かれたことを知った諸葛玄は、その後の自分を視る珖明の冷然とした視線に、侮蔑の含みを感じとるようになる。
珖明が何かを口にしたわけではない。だが諸葛玄には、常にその蔑嗤が聴こえた。
それは不遇と敗戦に落ちぶれ続けてきた我と、そうさせた世への鬱積が、錯覚させたのかも知れなかった。
諸葛玄はそれから急に、この謎多き奇才子にまつわる過去仄聞や、この城での様子に、神経を尖らせるようになる。
……そうしてそれが、現在のこの異様な状況をもたらす始まりとなったのである。
諸葛玄は、襟を掴んだ珖明の細白い面を己の顔前に引き寄せた。
「うぬは眼の前で見たのではないのか、諸葛珪が斬られたのを。いったい誰の身代わりになって殺されたか」
怒りも露わな濁声。
「……」
横を向く珖明の眉目が微かに寄った。
締め上げの息苦しさに耐える浅い呼吸。それでも美麗な囚人は一言も発しない。
その貌に、男は残忍な息を吐きつける。
「章氏はうぬを殺しても構わぬと言っておる。あれは認めてはおらぬゆえな……うぬを、諸葛の胤とは」
襟を掴んだまま降ろした身体を、上から見下す。
「それを制して永らえさせてやっているのだ。まだ死ぬのは惜しかろう。その若さと、麗姿であれば」
指先で珖明の頤を上向かせる。
勝ち誇った如き憐みを込め、諸葛玄はあらためて繁々とその玉貌を眺めた。
「まこと、儘ならぬものよ。女として埋もれさすには惜しき才。とはいえ男として生きさせるには、惜しき嬌姿」
それはこの者を屈服させるために調べ得た、驚愕の事実。
発端はひとりの下女からの疑いの報告だった。
「それにしても面倒な画策をしたものだ。周囲全てを欺いてまで男とさせようとしたは、珪の狂心か。それともうぬ自らの意思か」
珖明は睫毛濃い眼を背け、閉じる。
「うぬは一体、真実は何者だ」
この問いに相手が決して答えないことを、諸葛玄は知っている。
珖明の細頤を乱暴に払うと、玄は代わって腰を抱え寄せた。痩身をそのまま仰向けに倒し、上から四肢を押さえつける。
……組み敷かれた身体には、もう抵抗する力は残されていなかった。
白い首筋を撫でた手を滑らせ、差し込んだ襟下の玉膚を探りながら、男は征服者たる己の勝利に鼻哂した。
<次回〜 第29話 「瘡痕〈2〉」>