第27話 子玖の苦悩
『凶星の下に生まれた者』
そんな言葉を引用してまで身内を解離したい心理とは、いったい何なのだろう?
広元は居室の牀台に仰臥身を投げ、組ませた両手を枕にしながら、先ほど交わした子玖との会話を反覆していた。
腹違いの子を理不尽に憎悪する偏狂的な心情の存在を、広元はその身で経験している。
極論となれば、殺してしまう選択肢も世間にはあるのだ。
正妻腹でなかった広元が、血縁でもない家に義子に出されたという拠無い事情は、良きも悪しきもまさに、そういった人の根深い情念が絡んで為ったものであった。
珖明が、生かされながらもあれほどの疎外扱いをされているのは、
———— 自分の場合と同じ様な、お家騒動からなのか……?
『亮という兄がいたことなど、忘れなさい』
子玖が語った章氏の言。
章氏に会ったことのない広元ではあれど、少なくともこのひと月半、章氏は実子の子玖にさえ、母親としてあまりかまっている印象がない。
———— それでなおさら、母親に背くことを恐れてる……。
広元は半身を起こし、籠った重い息を吐き出した。
———— どうするか、な。
相当に決意して子玖に臨んだつもりではある。
とはいえ、母親までもが絡んできての子玖のあの様子を見せられては、これ以上、強引に事を進めることも出来ない。
このまま城を、去るしかないのだろうか。……
解決の糸口を見失った彼は、子玖の語った難解釈な言葉のいくつかを、再度、頭中に並べてみた。
『珖明の話は、嫌がられます』
『家族内でも一切してはいけないと』
『かかわりを持つと周囲が不幸になる』
「……」
つと。
広元は、見過ごしていた角度からの視点に思い至る。
———— 幽閉させているのは、諸葛玄だ。
章氏だけではない。諸葛玄にも動機があるはずだ。それほどまでに珖明を閉じ込めておきたい理由が。秋までは普通に暮らして……。
「……秋」
単語を口に出した広元の思考が、そこに集中する。
鍵は、幽閉のきっかけだ。
何かがなければ、健康だった青年が、突然あんなふうになるはずがない。
「……」
広元は強い視線で宙を睨んだ。
———— 何があった……この、秋に。
◇◇◇
———— あれは……夏の終わり頃だったかな。
子玖は自室で独り、憶い返している。
邸の院子に出た子玖の耳に、低く謡う声が聴こえた。
〝 歩して出づ 斉城の門
遥かに望む 蕩陰の里…… 〟
子玖の知らない謡。けれど懐かしいような気もする節。
「兄上、それは誰のお謡ですか?」
子玖は謡声の主に近寄り、尋ねる。
「……民謡だよ。お前の故郷の、瑯琊でよく謡われていた」
答えた謡い主 —— 珖明は、院子に面した歩廊に坐し、頬杖をつきながら静かに語った。
「人というものは、己のための欲や恨み、畏れを理由に、どんな愚でも犯してしまう。……そんな意味だ」
「……」
〝 一朝讒言を被り
二礼をもって三士を弑す
誰が能くこの謀を為すや
相国斉の晏子たり ……〟
———— 兄上は、いつも遠くを見てた。そこにはいるのに何だか別空間にいて……誰からも一歩、隔たりを置いていたような。
夏に突然知らされた実の兄、珖明の存在には、子玖も当然戸惑った。
しかも、叔父や母、姉、長兄分の瑾といった家族皆が、珖明と奇妙な空気壁を作っている。
また珖明自身も積極的には外部と絡もうとせず、身の回りの世話をする家人達さえ、己に近づけるのを避けさせていたのだ。
それらの訳合いが何なのか、子玖にはわからない。
とはいえ、子玖自身は珖明から敵意を感じたことはなく、会えば多少の緊張を要しはするものの、珖明は子玖を避けることなく、ごく自然に接してくれた。
———— ただ……。
子玖は思う。
兄の珖明は、言ってみれば怜悧に過ぎたのではないか。
珖明が、常人に比して突き出た才華を持っていることは、年少の子玖にも、会って間もなく感じ取れた。
賢いのは長所だ。けれど……。
———— 子瑜兄様とは、全然違う。
賢さの質が、諸葛瑾(子瑜)のそれとは違っている気がする。
珖明の放つ異質な才気。
その上に出色なあの芳姿が相まって、それは側からは奇異な冷淡さにも映り、周囲は珖明を、『理解し得ぬ近寄り難い者』として、疎外してしまったのかも知れない。
———— でも広元先生は、違う見方をしてる。だから昨夜も……。
雪の昨晩。
望楼のふたりを影から隠れ見ていたのは、子玖であった。
犬舎に錫青が残されているにもかかわらず、凍夜の居室に広元の姿がないと気付いた子玖は、ひと月半前のあの日以来初めて、地下へ降りた。
最近の広元の様子が、気になって仕方がなかったのだ。
そして、楼に立つ彼らを見とめた。
……とても静かで、穏やかな姿。
子玖はそのとき、広元がこれから何をしようと考えているのかが、わかったように思う。
その上で今日、広元の話を聞いたのだ。
———— 先生は……これからどうするだろう。
几案に伏せた子玖は、頭を腕で覆い抱える。
子玖とて、兄を救いたい願いはある。
それでいて広元を止めるようなことを言ったのは、広元の身を案じたからだ。
叔父とはいえ、その都合に反したときにはどうなるかわからない。
実際、身内にも関わらず兄の珖明は、ああなっているではないか。
———— ごめんなさい、兄上。……ごめんなさい……。
子玖は声を押し殺して、泣いた。
<次回〜 第28話 「瘡痕」>




