第26話 凶星
「なんとか出してやりたい。珖明を、地下室から」
雪夜の翌日。
広元はこのひと月半学びに使用してきた書庫脇の房で、子玖に語っている。
長く食客として待遇してくれたことへの感謝。数日中には、襄陽への帰路に発たねばならないこと。
さらに……ずっと考え続け、発つ前にしようと決心した、諸葛玄への嘆願。
「諸葛様にお願いしてみようと思う。その前に、きみには話しておきたくて」
「……」
子玖は俯き、黙っている。
この提案が子玖を相当に暗澹とさせるだろうことは、広元も覚悟していた。
それでももはや広元は、このまま知らぬふりで去ることは出来ない。
「ずっと黙って会っていたのは、本当に申し訳なかったと思ってる。……すまない」
本心からの詫び。しかし子玖は何も応答しない。
「……子玖?」
怒っているようには見えなかった。神妙な面持ちをしているにせよ、子玖は広元が想像していたより落ち着いている。
やや意外であった。まるでこの会話を、ある程度予測していたような態にも見えたのだ。
「子玖、その……家族でもない外部のぼくが、ずいぶん勝手なことを言ってるとは自覚しているんだよ」
子玖の顔色に注視しつつ、続ける。
「この件は始めから全部、ぼくがひとりでしたことだ。きみは何も——」
「気付いてました」
「……!?」
不意の反応に、広元は言いかけを引いた。
気付いていた……って?
下を向いた子玖の、栗鼠鳴きのような声が続く。
「あれから錫青が、夜半に時々犬舎からいなくなっていたこと。地下まで確認しには行かなかったけど……多分先生と一緒だと。錫青も必ず、兄に会いたがったろうと思います」
「……」
「それに先生、最近何か、考え込んでおられることが多くなっているご様子に見えましたから。襄陽へ戻らなければいけないことも、言い出しを遠慮されてるんじゃないかって」
「……」
広元は返す言葉がなかった。
すっかり見透かされていた。黙っていたことでかえってずっと、子玖の心に負担をかけていたのだ。
———— 一定の思考に嵌ると、自分は周囲への感覚野が狭くなる。
恥入る思い。すぐ身近にいる者の心情にも気付けない、この未熟さ。
併せて実感した。
子玖は決して幼くなどない。大人の才分をすでに備えている。
であれば、もう対等な友人として、偽らずに接するべきなのだ。
「子玖、聞いてくれ。詳細経緯も知らないのに、ぼくのこんな言い方は無責任に聞こえるだろうけど」
「……」
「珖明は……きみの兄は、叔父君が言われたような『狂人』などではないよ」
確信できる念いを率直に述べる。
「確かに尋常一様とは言い難いし、すぐ普通生活に戻れるというわけには、いかないかも知れないが」
「……」
ここで子玖が少し目線を上げた。
広元は意識的に柔らかな表情を作る。
「でも、少なくともあのままでは快癒するはずがないよ。あんな所にいたら、健常者だって参ってしまう」
「……」
「子玖がぼくの行動に気付いていたことは、叔父君にも言わなくていい。あくまで、ぼくひとりの行動と嘆願として——」
「無理です」
「!?」
語尾を制された言い切りの強さにぎょっとして、広元は話そうとしていた続きを喉奥に戻す。
子玖は広元と視線を合わせぬまま、これまでにない語調で。
「例え先生でも、叔父上きっと、お許しになりません」
「……」
「珖明の話題は普段から嫌がられます。家族内でも、一切してはいけないと」
「……!」
『家族内でも、一切』
———— ……これは、相当に徹してるとみえる。
子玖の口調の裏には、なんらかの〈怯え〉が含まれているようにも感じられた。乗り越えるべき障害は、予想していた以上に手強いようだ。
だか広元も、ここまできてそう簡単に諦めるつもりはない。
「それはたぶん、叔父君が今の彼の状態をご存知ないからじゃないかな。それまでを知らないぼくに比較はできないけれど」
勘違いでなければ、子玖は幽閉前の珖明を、兄として普通に慕っていたはず。ならば今の珖明の状態からしても、この扱いは不可解に過ぎる。
「秋までは普通に暮らしていたんだろう? もちろん理由はあったと思う。それでも誠意を持ってお話しすれば、きっと聞いてくださるよ」
広元も半ばは自己を励ましている。どうあっても自分はそれをせねば、と。
広元の珖明に対するこの使命感は、楸瑛の件と多分に結びついていた。ふたりが偶然同年だったということも、後押ししていただろう。
一方的な都合勝手ととらえられなくもない。
そうであっても、哀しく人生を閉じた妹の代わりに、せめて自分が関わった目の前の人を救いたいという、彼らしい性質であった。
広元の意圧に押されたように、子玖は再び下を向く。しばしの間を置き……やがて迷いの唇が動いた。
「……母上が」
「え?」
「母上が、同意くださいません」
寸時には理解ができず、広元は目を瞬かせる。
————『母上』って……章氏が?
まさかここで母親が出てくるとは、広元は想定していなかった。
諸葛珪のもうひとりの妻であり、子玖とその姉の生母。
西の城へ来て約ひと月半になる広元も、章氏とはいまだに面識はない。
章氏といえば、広元は子玖とのこれまでの交流の中で、いくらか気になっていたことがあった。
広元が特に訊ねた場合を除き、子玖は母親のことを、自らほとんど語ろうとしなかったのだ。
———— その子玖が、母親のことを口にしている……?
返答出来ないでいる広元に、子玖は続ける。
「以前母上が仰ったんです。『拘わりを持つと周囲が不幸になる。あれは凶星の下に生まれた者だから』」
「!? 凶……」
広元は面食らった。『凶星』だって?
肩を窄めて伏せた子玖の額には、齢十一の少年とは思えない苦渋の相が浮かんでいた。
子玖は必死に声を絞り出す。
「……『だから亮という兄がいたことなど、忘れなさい』と」
<次回〜 第27話 子玖の苦悩>