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第25話 沫雪〈4〉

 月光と競うばかりのしろ肌膚きふ

 鬼と見え、女と間違い、幻の月精に瓜二つで、『狂人』と説明された幽閉境遇の美しい青年。


 奇態な出会いに始まった、珖明についてのあらゆることは極めて特殊で、広元にとっては未だに謎だらけだ。


 異色には違いない。

 それでも広元は、交流らしきことが始まってからの珖明に対して、不審や薄気味悪さといった類いのものを、一度も感じたことはなかった。


 且つ、否応なく認めさせられている。

 自身がこの青年に、不思議なほど惹かれていること。

 ……



 室上部の小窓から、すう、と冴えた風が吹き込んだ。表面の乾き始めた樹々葉の擦れる遠い音が、地下室ここまで届く。


 広元は、風が届けた新鮮な空気を深く吸い入れ、肺の中をすっかり入れ替えた。


 ―――― 決めた。今夜にしよう。


 以前から実行したいと考えていた試み。

 錫青がいないことも、都合良いかも知れない。無月の今宵はよりくらく、周囲からも見つかりにくだろう。……


 おもむろに立ち上がった広元は、いくぶんか取り戻した明るさを含む声色で、青年に持ち掛けた。


「外に出てみないか? 少しだけ」

「……!?」


 この提案には相手も即、顔を上げた。おどろいたらしい。

 わずかながらも感情の色が浮かんだ青年の目顔を初めて見、広元は頬をゆるめる。


「今宵、月は……残念ながら、出ていないだろうけれどね」


◇◇◇


 地下道を経てつながった中央庁にある望楼の、他からは死角になりそうな場所に、二人は立っている。


 そこは広元が事前に見当をつけておいた場所……といっても、珖明は元々知る場所だったかもしれないのだが。


 わずかに期待していた雨晴れもやはり生憎あいにく、空には月も、ひとつの星も見られなかった。

 視界に広がるのは、どこが境界かもわからぬ冥漠めいばくばかりである。


 かてて加え、この冬一番かと思うくらいの底冷えだ。夜更けの外気に身をさらすには、かなり相応しくない気温というしかない。


 ―――― 今日にしたのは、ちょっと選択が悪かったかな。


 広元は今になってやや後悔もし、息が吐いた先から霜になるぞなどと思いながら、誘い相手を案じる。


 ……ところが、当の珖明はというと。

 寒がる様子もなく望楼のきわまで進み、眼前に広がる、おそらくはふた月以上ぶりに触れたであろう外空間に、魅入っている風なのである。

 気息も、広元のそれよりずっと白が薄い。


 ―――― 本当に寒さに強いんだな。


 珖明の育ったという泰山たいざん郡は、ここよりだいぶ北に位置する。

 広元の想像の限りであるが、泰山の冬の寒さはここより厳しく、そこに生きる人は自然、寒冷に鍛えられるようになるのか。


 ともあれ、温度刺激への感覚が自分とは違うのだと、広元は内心で苦笑した。


 この場に流れるのは、暗闇だが禍々しさのない静けさ。

 堂にある常夜灯からの暗い灯が、珖明の背姿を揺らめかせながら、闇に弱く映し出している。


「……」


 斜め後ろから見守っていた広元の脳裏に寸瞬、また、あの姮娥の玉姿が現れる。

 それは珖明の身に重なり……透き通って消えた。


 サワサワと渡る風は、弱いが刺すように冷たい。

 つと、珖明が自身の両腕を抱えた。

 しばらく晒されて、さすがにこの冷気に反応し始めたようだ。望楼へ上がって来た時より、気温がさらに下がったような気もする。


「……戻ろう、珖明どの。今宵はどうも、やけに冷え込む」


 珖明をいざない、広元が堂宇に身を返したとき。

 彼の片頰にふわり、冷たいものが触れた。


「……?」 


 胸前で開いた広元の掌に、真白い粉のようなものが複数落ちる。

 それらは肌に触れたとたん、微小な水滴と化した。


 広元は、黒の凍空を振り仰ぐ。


「……雪だ」


 無数の白雪が、辺り一面に散り始めていた。


 細雪……真冬でも降雪のそう多くない荊州では、珍しいといえる光景。


「……」


 滲み入るような美しさにすべてが染まってゆく中、広元は想起する。


 昨春のあの悲しい夜も、雪だった。

 たった独りで逝ってしまった楸瑛を、最後に見送ったであろう沫雪が、広元に触れている。


 季節は違っての今宵、まだ春は遠い。これは酷寒の到来を告げながら、蕭々と舞う寒雪。


 けれども広元には、冷たいはずの氷粒がなぜか……彼の抱え持つ想いを自然に溶け流してゆく、ほのかな温かみを持っているように感じられた。


『兄様、ほら。もう笑って』


 舞雪の中で、楸瑛が優しく微笑んでいる。


「……」


 彼女に呟いた広元の声なき声に応えるかのように、白きものは可憐に舞い続ける。


 広元と珖明は黙したまま、立ち去ることを忘れたかのように、はらはらと身を包み降り注ぐ雪片を、いつまでも眺めていた。

 ……



 ……そして。

 彼らは気付かなかったのだ。堂内の壁角、身を隠し二人をじっと視つめている、ひとつの人影があったことに。


挿絵(By みてみん)



<次回〜 第26話 「凶星」>

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