第24話 沫雪〈3〉
広元は指で強く眉目を押さえる。
あの夜、楸瑛が室を出ていったことに気付けなかった、己の致命的な落ち度。
兄を起こさぬようそっと衾をかけた楸瑛は、どんな想いで、どんな顔をしていたのだろう?
いいやそれより……無理があったあの婚話を、早くに取りやめる方法はなかったのか。
家を守りたい一心はあった。だが果たして、最善を尽くしたと言えるのか。
―――― 否。あのとき自分は、問題と向き合うことを避けてた。
広元は自らを裁定する。
自分はただひとえに、怯弱だっただけなのだ。思いつめる楸瑛の苦悩を本当は心の片隅で知っていたのに、懸命に気づかぬ振りをしていた。
広元の閉じた口隙間から、押し殺した細い息が漏れた。
薄暗い地下室に、永く横たわる沈黙……無月の夜は光のみならず音までも吸い取り、常にも増して粛としている。
……
「好きだったのだね」
突。珖明の低い呟きが、張り詰めた場の気に触れた。
「彼女はきみのことを、とても」
「……」
「きみに伝えたかった。……でも伝えなかった。告げてしまう方が、より酷なこともある」
密やかな、しかし無理に絞っているのとは違う音吐であった。
周囲にゆっくりと溶け込むような、凪の色。
「けれどそれは、きみに責任が問えることではないし、負うべきでもないだろう」
「……」
広元は声なく、珖明を凝視した。
◇◇◇
広元にはひとつ、ここまでに語っていない重要なことがある。
対外的に石姓を名乗っている広元だが、実の出生は、劉表の最重臣である武将家の次男であった。
彼はある事情により、実父の旧友だった石家に幼い頃預け出された、石氏血胤外からの義子(義理養子)なのだ。
そして広元を義子に出した劉表重臣、即ち広元の実父が、袁氏と楸瑛の納妾話の伝手者だったのである。
義子であること自体は身近な者には知られており、秘事とされているわけではない。
しかし事件以降、広元は完全に口にしなくなっていた。
楸瑛の悲劇には、自身も絡んだ複雑な事情が濃い影を落としている。
―――― そもそも自分という縁が石の家になければ、あんな婚話などなかったかも知れない。
それは誤った捉え方というわけではないにしろ、もし他人が聞いたら『なにもそこまで』と諭してやるだろう。
物事に対し考えすぎる傾向のある広元といっても、本来は必ずしも内罰気質ではない。
しかしながら人の死、ましてや自殺ほどの深刻な衝撃は、身近だった者の心魂を決定的に打ちのめす。
加え、広元を苦悶に追い詰めたものがあった。
楸瑛が死を選ぶほどに婚を拒んだ、その真因である。
あの夜男を追い払った後、楸瑛は広元に縋りながら、なにかを必死に訴えようとしていた。
―――― それを明日にと、塞いでしまった。
彼女の死後に蘇ったそのときの楸瑛の目顔が、広元の脳裏に焼き付いて離れない。
石家血縁者でない広元は、つまり、楸瑛とは実兄妹ではないのだ。
彼女の震えは、婚姻により〈女〉になることへの恐怖だけであったのか。
それまでの言動から垣間見える、奥底の念い……それが、もしも。
「……」
事後となっては、無益な回想。されど誰から責められずとも、あらゆる元凶が己にあると思えて、広元は独り、悩乱し続けている。
生涯背負う、後悔と重荷。
ざくりと開けられた切口を塞ぐことも、脱出口を見出すことも出来ない居た堪れなさから、彼は楸瑛の喪明けと同時、遊学と称した単独旅に自身を臨ませたのだ。
……そうして流れ着いた、現在。
『好きだったのだね。彼女はきみのことを、とても』
『きみに責任が問えることではないし、負うべきでもないだろう』
―――― どうして……。
広元の持つそこまでの仔細など知らぬ珖明が、楸瑛と広元の心情深くまでを読めるはずはない。
……ないのであるが。
―――― でも、彼は。
今、広元は事実をはっきりと認識できる。
この青年は見抜いたのだ。広元の抱える懊悩……胸奥でさえことばの形にすることを避けてきた、惛い想いの〈根〉を、違わずに。
さらに広元は本音、自分自身にも驚いている。
己の暗部としてきたものを、まったくの外部者に真正面から指摘されたというのに、苦渋感も不快さもまるで湧いてきていないのだ。
渡された潔い見解へのこの感覚は……どう言えばよいだろう。
錘に縛り付けられていた硬くしこる凝固物が、突如ふわりと柔らぎ、微少に浮き始めたような……。
その上で、心奥に強い確信を得たのだ。
―――― 彼は……珖明は絶対に、狂ってなんかいない。
仄明かりに映る静虚な容貌に、広元は今一度、魅入った。
<次回〜 第25話 「沫雪〈4〉」>




