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第22話 沫雪(あわゆき)〈1〉

「ぼくの父は、元々はちょっとした学者でね。穎川えいせんでは中堅官吏を務めてた。けれど穎川は黄巾こうきんの乱(184年に起きた宗教的な大農民反乱)以降、ひどい戦乱続きの地となってしまって……離れるしかなくなった」


 広元の一家が、擾乱じょうらん避難のため荊州襄陽へと移住して五年が経った、昨年晩冬のこと。

 世間でも花容かようと評判の立っていた石家の一人(むすめ)楸瑛しゅうえいに対し、荊州牧・劉表のとある重臣を伝手つてに、納妾のうしょう話が来た。


 納妾とは、しょう(めかけ)としてめとるということである。


 身分や実力に見合う複数の妾を持つことは、上流階級では至極一般的な形だ。正妻とは扱いがあきらかに違うにせよ、婚の一種として扱われることもある。

 楸瑛の場合は、簡易な納采のうさい(結納)儀式も行って迎える、という先方の申し出であった。


 婚は、多く家同士の結び付きが重要目的であり、当人、殊に女個人の意志など、周囲には初めから存在認識がない。

 ところが驚いたことに、楸瑛はその婚姻話をかたくなに拒絶した。


「わたしはまだ十四です。どうかもうしばらく、父様母様、兄様と一緒に、この家で過させてください。どうか!」

「……だが、いずれは嫁ぐのだ」


 説得を繰り返す楸瑛の父も、心底では、愛する我が子の悲痛さに愁傷を抱えている。

 十五歳ほどですのも決して珍しくないとはいえ、親からすればわか過ぎでもある。しかも正室扱いではないから、肩身は狭いだろう。


 泣きながらに救いを訴える楸瑛の姿を見れば、両親も兄の広元も、やはり憐愍れんびんを覚えた。

 …………



「妹の為には、破談にすべきだったろう。けど、それが簡単には出来ない案件だった。相手があの……汝南じょなん袁氏の族子ぞくこだったから」


 語る広元の音声が、ぐっと低くなる。


 汝南(河南省周口(しゅうこう)商水(しょうすい)県)袁氏は、後漢王朝きっての名門中の名門である。

 家柄はこの上無い。身分差から考えれば、正妻として迎えられぬのも道理であるし、簡易とはいえ納采儀をするというのだから、先方も譲歩していることにはなろう。


 ただし、高潔を自負する一族に生まれ育った人間の誇りは、往々にしておごりと紙一重なもの。

 この名門族御曹司の性向は、残念ながら悪例であった。


「一介の小女こむすめが、我がしょうとなるのを有難く思いこそすれ、断るだと?」


 想定外の態度を聞いた御曹司は、狭量な癇癪かんしゃくあらわにする。そのようなこと、名門家の自尊心が許さない。

 両家間には、一気に不穏な空気が逆立った。


 広元も、家の置かれた立場、両親と妹の心情の間で苦悶する。問題が、相手男の家柄と気性だけではなかったからだ。


 荊州牧・劉表と、袁氏の宗族そうぞく長と目される袁紹えんしょうとは、現行、政治的協調関係にある。そのよしみもあって、此度こたびの袁氏子息も、劉表下の重臣を伝手にしたのだろう。


 こんな小さな婚に政治色があろうはずはないにせよ、


 ―――― 今の父上の立場からすれば、辞退するのも難しい。


 移住した後に荊州の官吏として受け入れて貰った石家としては、これ以上話がこじれ、袁氏や劉表近習への心象を悪化させてしまうことへの懸念は、やはり無視できなかったのである。


 ―――― 最悪、家が荊州から追われるようなことにならぬとは限らない。


 荊州を出ずに済んだとしても、両親や妹が不遇となりはすまいか。

 まして法の乱れた今の世、それこそ、命に係るような理不尽扱いをこおむるかも知れない。


 胸中に重い天秤を抱えた広元は、結句、兄として妹を諭す。


「寂しいのはわかるが、皆そうして成長し、立派に家を守っていく婦人おとなになるんだよ」

「……」


 楸瑛は広元に背を向け、黙って立っている。


「それに、これきり生涯会えない、ってわけじゃない」


 一定身分以上の婚姻になると、女子は一旦嫁いだら、二度と実家に戻る事は出来ないことも常であった。

 楸瑛にとってはそこも大きな苦しみの一因なのだろうと、広元は察している。


「ぼくらもそちらを訪ねに行くようにするよ。だから――」

「平気ですのね」


 不意に、楸瑛の小声が広元をさえぎった。


「え? ……あ」


 自身のかたりが、少々わざとらしい理想論に聞こえてしまったか。広元は内心汗をく。

 振り返った楸瑛は、真っ直ぐな眸を広元に向けた。


「兄様は平気ですものね、わたしがおらずとも。兄様は……〈男〉なのだから」

「……」


 低語を零れ落とす、楸瑛の眼差し。

 それは今まで広元に見せたことのない、道標を失って出口を諦めた迷子のような、切なげなものであった。

 …………



「……それきり、妹は一切反言しなくなった」


 広元はうつむいた額に手を当てる。


「当時のぼくは、多分、妹の真意をまったくかいせてなかった。なのに解しているつもりで……ぼくがとったのはそんな、甘い考えの思慮浅い態度だ」


 広元の声風こわぶりは、自省というよりも自責に近い。抱えた重みに、もがいている様でもある。


「妹の様子が落ち着いて、家族は皆思っていたんだ。あとは翌年の正旦儀後の納采へ進むだけだと……」



<次回〜 第23話 「沫雪〈2〉」>

【用語解説】

◆汝南袁氏:後漢時代の中国で活動した豪族で、士大夫の名門。

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