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第20話 寒月の悔恨(かいこん)

「趙子龍という方、外貌だけでなく見識も優れて頼もしい方とお見受けした。きっと腕も相当立つのだろうな。有事の際にはまず、彼の傍らに付いてたいと思ってしまうよ」

「……」


 地下室の暗寒い室。

 広元が語りかけているのは、あの白い青年 、諸葛亮 —— 珖明こうめいである。


 広元がここを訪れるのは、いくど目であろうか。


 珖明は、例のとおり牀台に坐し半身を起こした姿勢のまま、訪問者の広元に対し、やはり特に反応は示さない。

 あの、道順を示唆してくれた折以後、珖明はまだ一度も、広元に言葉を発してくれてはいなかった。


 ……それでも広元は、その空気が当初とは違ってきているのを感じている。

 今は、相手が自分を拒絶まではしていないとわかるのだ。


 血管を透かすような青年の手が、錫青の耳元を優しく撫でている。


 錫青を付き合わせていることについて、広元自身は子玖への申し訳なさから、すぐにすつもりでいた。

 だが錫青と顔を付き合わせる度、どうも錫青から要求されているように思えてしまい、結局、今宵も伴って来ている。


 賢い黒犬と、存在のおぼろげな白い青年。

 対比的な彼らの間には、何がしかの強い絆がある。

 彼らの具体的な過去がまったく不明な広元にも、それは肌でわかった。


 ――—― 泰山の乱からここに辿たどり着くまで、二年以上。……どう生き抜いて来たんだろう?


 西の城をたった独り、錫青だけを連れて訪れたという珖明。

 行方不明の間の動向について、子玖さえいっさいわからないというのだから、広元にも知りようはない。


 幽閉という酷な環境下、ひとときの静謐を過ごす青年に、広元は柔らかな声音で話し掛ける。


「……子玖は優しい子だね。根が素直だし、錫青のこともとても大切にしてる」


 こうして時折ここを訪れていることは、余計な危惧をかけないよう、今も子玖に明かしていない。


 ただ一方で、広元は子玖から意外な一面を見せられていた。

 兄の珖明について、初めあれほど話すことを怯えていた子玖であったというのに、その後広元に語る子玖の気色には、幽閉以前の兄に対する負の心情が、ほとんど感じ取れなかったのだ。


 子玖特有の性格なのかも知れないが、突然現れた素性不明の兄を、子玖は戸惑いながらも、肯定的に受け入れていたように思える。


 つまり兄弟二人の間には――それが仮に錫青を介していたからなのだとしても――それなりの愛情交流が、成り立っていたのではないだろうか。


 ―—―― 兄弟か……。


 男身内とは違うものの、広元は自身の懐かしい記憶を、何とはなしに語り出した。


「昔、潁川のぼくの家には、なぜだかやたら猫がいたんだ」


 昼間の白猫の姿がよぎる。


「別に飼っていたわけではなかったのだけど、いつの間にか増えてしまって。……どうやら妹が、よせというのに拾ってきては、世話をしていたらしくてね」


 二歳下の、少し気丈だが元気で朗らかだった妹、楸瑛しゅうえい


「きみと同い歳だったな。……生きていたら」


 そのとき、珖明がほんのわずか視線を広元に遣ったことに、広元は気付いていない。


 眼を伏せた広元の目蓋まぶた裏に、昨年逝ってしまった楸瑛の笑顔が浮かぶ。

 その悲愴な死の事情を思い出す度、己の無力さにいたいたたまれなくなるのだ。


 この旅で、その懊悩おうのうが薄れるわけではないのだが。

 ……


 しっとりとまとわりつくような静寂に、細い燈が揺れる。

 遠く、夜鳥の低いこえ

 広元はふと気付く。珖明の黒深い眸が、じっとこちらに向けられていた。


「……あ。何だか変な話をしてしまったな」


 間のつくろいに立ち上がる。


「今日も遅い時刻にすまなかった。これで失礼するよ」


 錫青をうながすと、広元はいつもの穏和な笑みを珖明に注いだ。


「体を冷やさぬようにな。……じゃあ、また」


◇◇◇


 その夜。

 臥牀についた広元は、浅い眠りだったのか、夜中、何か抽象的で強烈な夢に叩き起こされた。


「……!!」


 はね起きた半身が、ひどく汗濡れている。

 小刻みな息に躍る口元をで抑え、広元は落ち着かせの深呼吸をした。


 ――—― ……珖明につい、あんな話をしたからか。


 夢の中で叫ぶ楸瑛を見たような気がし、自分も何か叫んだように思う。

 だが明瞭な記憶は瞬く間に遠のいていた。夢は、曖昧あいまいな感触ばかりを残す。


「……」


 妹の話を他人にしてしまったきっかけが、あの白猫だとはわかっている。

 楸瑛は猫が好きだった。おかげで広元もすっかり、猫扱い慣れをしてしまったのだ。


『兄様、知ってました? 猫は、可哀想な一生を送って死んだ女子の、生まれ変わりなんですって』


 誰から聞いたのか、よくそんなことを言っていた。


『だから兄様、よく猫になつかれるのね』


 そう言ってころころと笑う。

 口達者で生意気な面もあったけれど、石一家の、常に太陽のような存在だった。


 その楸瑛が、なぜ。


「……」


 広元は額を掌で覆う。胸臆を墨色に染める、苦しい記憶。

 ……



 寝付いてからさほど時が経っていないらしく、窓外には深更の暗闇が敷かれたままである。

 牀台から降りた彼は、長衣を手に、室から院子に面した歩廊に出た。


 外の冷気に触れた汗が、一気に冷えて肌を刺す。それでも、熱くなっていた身体にはいくらか心地よくも感じた。

 ……少し、頭も冷やさねば。


 歩廊沿いの欄干に腰掛けた広元が見上げれば、星空に半月。

 最初にここを訪れた日から、早、ひと月ほどが経ったことになる。


 ――—― そろそろ、襄陽に戻らないとな。


 兄としての妹喪は明けてから出た旅だとはいえ、本来であれば息子として、娘を失った両親を側で支えるべき身なのだ。


 にもかかわらず、思慮深く理解ある両親は、最もつらいはずの自分達の心諸を抑えた上で、息子をも思いやり、こうしてしばしの時間を与えてくれている。

 その恩にも、自分は報いねばならない……。


 身を清めるような澄んだ月光が、辺りに降り注ぐ。……と、ひゅう、とやや強い風が広元の身を吹き撫でた。


「……っ、寒 ――!」


 両腕を抱える。

 仲冬ちゅうとうの深夜。さすがに夜着のままでは、芯がすぐに凍てついてしまう。


 ———— この冬場に、あんな場所でよく耐えられるな。


 思い起こすのは、地下室の彼。

 一年を通し温度がある程度一定である地下は、この時期外気よりは暖かくある。また、本人には一応の冬夜具も充てがわれていた。


 それでも火の暖は置かれていなかったから、充分なわけはない。顔色ひとつ変えず平然としていられる姿は、常識感覚ならあり得ぬだろうに。


『兄様! またですか?』


 何処からか、楸瑛の声……夢の続きか。


『人の心配もよろしいですけれど、そんなことばかりしていると、また父上の叱責が飛んで来ますよ。だいたい兄様の場合は、いつもお節介と紙一重で……』


 生前の妹がよく口にしていた小言に、広元は口端を崩す。


 ――—― そうだね。そんなことは、何も他人のぼくが気にかけずとも、諸葛家の誰かがやってくれるのだろうに。


 ……けれど。


『兄は、狂ってるんです』


 子玖の言葉と、自分の接してきた青年の姿とが交錯する。

 広元は欠身に雲をかけた寒月を、いま一度見上げた。


 ―—―― そうだろうか……本当に……。


 しん、とした冬夜の冷気に凍える木々の葉を、弱い風が静かに震わせる……。


挿絵(By みてみん)



<次回〜 第21話 「秘められた閨房けいぼう」>

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