第2話 錫(すず)の眼
「あ、あの、大丈夫でしょうか。どこかお怪我は?」
小柄な少年の心配げな顔が、広元を上から覗いている。
「……」
見れば、さきほどまで謡っていた少年だ。
広元の方はといえば、極度の焦眉が解けて気が抜け、そのまま足元の地に腰を落としてしまった格好。
その彼に、少年が焦った様子で気遣い声をかけている。
少年のすぐ脇には、たった今しがた広元に飛び掛からんとしていた獰猛獣が、澄まし顔で控えていた。
———— 助かった……。
まずは広元、安堵の息を吐く。
察するに、この屈強そうな動物はたぶん少年の飼い犬か何かで、叫びにあった『錫青』はその名だろう。
「本当にお詫びを。この子、見知らぬ方相手にはいつもつい、こうしてしまって」
ひどく申し訳なさそうに、少年は小刻みに繰り返し頭を下げる。
「あ、いや、その」
少々間の抜けた、広元の応答。
大人顔負けのあんな暗い謡を諳んじていた子だから、さぞ気難しかろうとも推測していたものを、目の前にいるのは、いくぶんな丸顔に合う円らな瞳をした、とても愛くるしい見目の男児であった。
そんな少年が懸命に謝る姿勢を前に、広元は、自身が相当情けない姿を披露していることにハタと気付く。
「その、ちょっと驚いただけで」
腰を上げながら、照れ隠しに指で後髪を掻いた。
強雄な黒犬の姿は、主人を守る護衛としてはむしろ正しいだろう。
「こちらこそ助けてもらった。ありがとう」
少年とその忠実な護衛に、広元は穏和な笑みを返した。
落ち着いた広元が、犬を間近によく見ると。
被毛は、鈍色というより上質さも感じさせるような深い藍鼠色(青みのある濃い灰色)で、さらに光加減によっては銀のようにも反射する、滑らかな艶も持っていた。
そして青みがかった錫色の瞳。たぶん、それが名の由来だ。
澄んだ瞳……きれいだな、と広元は純粋に感じ入る。
「錫青、彼は……いや、女の子かな。きみの友だち?」
広元の面立ちは、元々、自身の母親譲りの優しげなつくりである。
その彼が漂わせる柔らかな雰囲気や、『友だち』という表現が嬉しかったのだろうか。
こわばり気味だった少年の表情が、初対面の窮屈さから解放されたように、ぱあっと明るくなった。
「はい。女の子ですが、とても賢くて強いんです。ほんとは兄上の犬なんですけど、今はぼくが預かっていて」
少年は、思いきり人懐こそうな笑顔を広元にあてた。
◇◇◇
「あの、旅のお方ですか?」
錫青を足元に控えさせ、少年は謡っていた岩の座に広元と並んで腰掛けて、尋ねた。
広元に対し興味深そうに向けられた目は、大きいというほどでもないが、黒目がちでくりくりと可愛らしい。
見る方からすれば、自然に愛着が湧く。
「うん、旅というか……遊学も兼ねて、襄陽(湖北省襄陽市)から、この宛県に住んでいる友人を訪ねに来てね。とりあえずの用事は済ませての帰りなんだ」
「襄陽!」
少年の眸が、目一杯開く。
「荊州の今の中心地ですね。ぼくは荊州に来てまだ間もなくて、行ったことがないんです。とても大きな城だと」
「そうだね。宛城も南陽郡の治所だから小さくはないけど、襄陽の城壁は、ここよりもだいぶ大きいかな」
城とは城郭都市ともいい、街そのものを指す。
数年前、州の最高官である荊州牧(総督)・劉表が、自らの拠点を襄陽に移して以降、広大面積を有する荊州の中核城都として、襄陽は成長し続けている大都市であった。
広元の住まいは、その襄陽にある。
「宛に来たのは初めてなのだけれど、襄陽から思ってたよりは近かった。船も利用したから」
へええ、とますます興味深げな反応の少年。
どうやら、この辺りの地理知識がほとんど無いようであった。『荊州に来てまだ間もない』ということは、どこか違う州から来たわけだ。
「そうか、きみ、荊州出の人じゃないんだね。そういえばさっきの謡……とてもいい声だったよ」
きっと詞の深い意味までは理解していないのだろう、と思いながら、広元は飾らずに褒める。
変声前の少年は照れて下を向いた。その仕草に、広元は柔らかな弧を口許に作る。
「あれは、どこの謡? この辺りでは聴かないものだったけれど」
「……『梁甫吟』。故郷の……瑯琊の民謡です」
「! へえ、瑯琊」
聞いた土地名に、今度は広元が驚いた。
瑯琊国(山東省東南部〜江蘇省東北部)は、荊州から遠く北東に位置する、東側を海に面した州、徐州に属する王国(諸侯王に封建された国。郡と同等)である。
歴史的由緒のある地方国だが、広元も知識上でしか知らない地であり、ここからはそう簡単に行き来できる距離ではない。
「それはずいぶんと……東から来たんだね」
「ええ。徐州であったひどい戦で、瑯琊から家族皆で追われてしまって。この荊州へ来たのは……」
続く少年の語りに、広元がより熱心に耳を傾けようとしたとき。
広元は突如左頬に、ひやりと何か、硬く冷たい物が触れたのを感じた。
<次回〜 第3話 「刀丈夫」>
【用語解説】
◆牧:州の総督。行政・軍事全てにおいて州の最高権限を持つ。