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第18話 白猫と諸葛の姫

阿梨あり!? もう、どこいったの、阿梨!」


 前方から甲高い声がした。女の声だ。

 広元達のいる院子の向かいの歩廊に姿を見せたのは若い娘。娘は広元と趙雲の姿を見留めるなり、


「きゃ!」


 と小さく叫んで、柱の影に身を隠した。

 柱裏から恐る恐る片目だけをのぞかせ、こちらをうかがっている。


 事情を察した広元が猫を抱いたまま立ち上がり、娘の隠れている柱近くの歩廊まで寄った。


「ほら。ご主人が迎えに来たよ」


 そう言って歩廊に猫を放した。ネーウネーウと鳴く猫は、二度ほど広元を振り返りながら柱に歩む。

 やがて柱陰から出た白い腕が猫を捉え、抱き上げた。


 猫の主人は、相変わらず片目覗きのまま尋ねる。


「……どなた?」

「……」


 安易に人目に姿を見せないのが貴族女子の習い。先ほど垣間見えた衣装からしても、使用人ではないようだ。

 広元は数歩下がって拱手する。


「ご挨拶が遅れました。先頃よりこちらでお世話になっております、石韜、字を広元と申します」

「石……? ……ああ。子玖の臨時の先生ね」


 正体を知って安堵したのか、娘は急に軽易な口調になった。


「阿梨は落ち着きなくて、時々脱走するの」

「……」


 柱越しに聞こえるうら若い声音。広元相手で意識的になのかもしれないが、少々気取っている風にも聞こえる。


 そういえば、子玖が『城には自分の実姉も住んでいる』と言っていたのを広元は思い出した。

 彼女がその実姉ようだ。


 控え姿勢のまま、広元は応じる。


「純白の毛並みが美しい猫ですね。名も可愛らしい」

「……」


 飼い猫をめられたからか、姿を見せない娘は、次の音吐おんとを気持ち和らげた。


瑯琊ろうやの邸には、大きな梨の木があったの。それが花を満開に咲かせた季節に、この子は生まれたから」

「……梨の花」


 梨の木は、初夏に花心まで純白の美しい花を咲かせる。

 広元はほっこりと相槌を打った。


「それは、まさに似合う命名です」


 『阿梨』の『阿』は、幼少の子供に付ける一般的な愛称だ。人の子のような名をつけるくらい、可愛がっているのだろう。


 ———— 瑯琊の邸の梨か……。


 娘の言葉から、広元の胸裡に微少な感傷が湧く。

 彼女も白猫も、かの地の戦乱を子玖同様にくぐってきたのだ。猫のあの片足は、その際に傷付けられたものかも知れない。


 そんな風に広元が、娘たちの境遇を思いやっていたところ、


「城でどうぞゆるりと。子玖をよろしく」


 娘は突然そう会話を締めると、くるりと身を返し、急ぎ足でさっさと奥へ引っ込んでしまった。


「……」


 唐突な淡白態度に、広元はぽかんと後ろ姿を見送る。


 ———— 同じ姉弟でも、子玖とはだいぶん雰囲気が違うな。


 軽い苦笑。

 姉は十七歳だと子玖から聞いていたが、今の会話からはそれより少し幼い印象が、広元には残った。


◇◇◇


「子玖どのの小姉(おあね)(下の姉)君だ。直にお会いしたのはわたしも初だが」


 娘が消えしばらくして、趙雲が補足した。

 彼も先ほどまでずっと拱手姿勢をとっていた。今は左右手を両腰に当てている。


「結局、猫を捕まえた礼を広元どのにしないで、行ってしまわれたな」


 やや非難気を含んだような趙雲の言に、広元はちょっと意外さを感じつつも、


「貴族の姫君ですから、わたしなど相手に当たり前です。子玖の気遣い性格が、少し極端なのだと思いますよ」


 頬をゆるめなだめる。娘の些細な態度など、広元は本当に気にしていない。

 

「子玖の姉君が猫を愛でられるような、安定した日々が続くよう願うばかりです。……瑯琊も巻き込まれた徐州の惨劇は、世間中が知るところですから」


 故郷を追われる痛みを広元も知っている。瑯琊の梨の木の話は、彼女にとって、きっとつらい想い出だろう。


「子玖達が辛酸な長旅を経ながらも、無事に荊州にまでたどり着けたのは、奇跡だったと思えてなりません」


 広元は、趙雲との初めの会話に立ち戻る。

 動乱側面では宛も難ありの地であるにせよ、徐州や雒陽でのような大虐殺が起きていない荊州は、全体として《《まし》》な土地と言ってよい。


「ああ。そうだな」


 趙雲は、広元の言葉に頷いたものの、


「だが残念ながら、ここもいつまでも例外とはいかぬだろう」


 そう言って、重苦しい息をひとつついた。

 州のある方向の遠い空に眼を遣り、額を曇らせる。


「天子様がうつされたきょ県(曹操の根拠地)のある豫州は、この南陽郡とは隣接の地。中原ちゅうげん制覇を目論む曹操やつが次に狙うのは南陽、中でもまずは宛県ここだ」


 武人の深い読みに、広元の胸臆がギクリと振動した。



 〝中原に鹿ろくう〟という言葉がある。

 漢族にとって民族発祥の地とされる中原の制覇は、天下制覇の必須条件とされていた。


 その中原の出入口ともいえる南陽郡は、現在、朝廷から正式に任命された荊州牧・劉表の管轄下にある。しかと正式な形だ。


 されどたとえ正規の統治であろうと、朝廷の力が衰えている時世となれば、支配をめぐる攻防は絶えない。要衝地の南陽郡宛県とは、常、そういう宿命を負った地であった。



「曹操が宛を狙っている……と」


 広元は自らの呟きに、ぞく、とする。


 あの残虐将、曹操が来る。

 想像するだけで、広元の心態は、鉛を抱えさせられたように重暗くかげる。


 趙雲は指で挟んだ自身の顎を摩った。


「今、宛に駐屯している張繍ちょうしゅうは、つい先刻に劉荊州(劉表)と同盟したばかりで、信頼は置けぬからな」

「張繍というと、たしか今年、食糧に困窮して荊州を襲ったところを、劉荊州様が手を差し伸べて、宛の守備に就いた方でしたね」


 軍人でない広元にも、趙雲の話の意味が想察出来ている。


 張繍の荊州に対する立ち位置は〈同盟〉であって〈帰属〉ではない。諸葛玄の主筋が劉表でも、現場の張繍の動き次第では、どう転ぶかわからないのだ。


「広元どのなら気付いているだろうが、この城は脆弱ぜいじゃく極まりなく、まともな戦となれば、とてもではないが防備は持たない」


 それも、広元も初めから大いに危懼きゆうしている点である。


「諸葛様は、何と?」


 趙雲はその貌に似合わぬ苦々しい笑みで、口端を歪めた。


主君とのは、一切を劉荊州に任せておられるのだろう。……まあわたしは一介の伯長はくちょう(五十人の兵を束ねる指揮官)に過ぎぬしな」

「……」


 戦乱世に明日の保証はない。現今、たまたまだろうとこの城に在住している広元にとっても、曹操や張繍の同行は、自身の命にも関わる大問題である。


 ただこのとき広元には、まったく別のある疑問が浮かんでいた。

 それは、西の城に来てから広元の中でずっと、気になっていた事案のように思う。


 趙雲……この男はどうして、()()()場所に仕えているのだろう?



<次回〜 第19話 「趙雲という男」>

【用語解説】

◆中原:中国古代文化の中心で,漢民族発展の根拠となった地域。 今日の黄河中下流域の平原をさす。

◆張繍:建安元年(西暦196年)に劉表と同盟を結び、南陽郡・宛県に駐屯している武将。

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