第17話 生死の左右
【用語解説】
◆董卓:朝廷権力を私物化した三国時代最悪の暴君。
◆劉邦:前漢の初代皇帝。高祖と呼ばれる。
「どうかな。その後、西の城の居心地は」
隣に坐す趙雲が、和やかに問いかける。
正午過ぎ。邸にある院子の石坐で、広元は趙雲と久々にゆっくり語る時間を得ていた。
十一月に入ったにもかかわらず、この日の陽射しは、身をひととき優しく暖めてくれる穏やかさである。再来月の年明けと共に迎える春の訪れをも、連想させる冬晴れだ。
「子玖のおかげで、ずいぶんと待遇よくしていただいています。思いがけずの招き、一介の書生には、もったいないばかりです」
「はは、ならば良かった。少々強引だったかと案じていた」
出会った時と変わらぬ、武人らしい精悍な面が作る趙雲の笑顔に、広元もつられて笑む。
「諸所では戦の絶えない折。このような平穏のありがたさは、まさに身に沁みます」
「広元どのは幼い時分に穎川で育ったのだったな。戦乱を避けて、荊州に移住したと」
「ええ……安住の地でなくなったのは、今や穎川に限ったことではないのですが」
広元は、襄陽移住前の己の故郷、豫州潁川郡(河南省中部)への憶いを巡らせる。
広元の一家が、多くの潁川住民と共に故郷脱出を余儀なくされたのは、潁川近辺で頻発する擾乱から逃れるためであった。
しかして、広元一家の移住から二年後。
潁川に残留していた人々は、かの暴君、董卓の軍により、いわれなき凄惨事件の憂き目にあうことになる。
その日はたまたま、二月の祭で社に住民が集っていた。そこに突如、董卓の兵が乱入したのだ。
兵らは民の男達をことごとく首斬り財産を略奪、婦女を婢妾として攫った。
それでも足りなかったのか、斬った首級を車に飾り立て、『賊を片付けたぞ!』などと嗤いながら、意気揚々と長安へ凱旋したというのである。
もはや軍隊でも何でもない、おぞましい気狂い集団でしかない。
事件を知る趙雲も、憤りを込めた不機嫌口調を吐き出す。
「董卓一派の類を見ぬ専横は、わたしも当時、方々から聞き及んでいたが……酷いものだ。一旦走り出した暴走は、あれほどに止められぬものとなるか」
「……まことに」
いったいどれほどの惨状であったか。想像することさえ、恐怖ではばかられる。
「もし直前の脱出選択を実行していなかったら、ぼくの家族も知人達も、今頃は野に骸骨を晒していたでしょう」
穎川に残った友人知人達の内、いったい何名が生き延びていてくれているだろう。
確認する術も、広元にはない。
あれから六年。
董卓は誅され、戦乱に塗れていた潁川は、現在、天子を擁した曹操によって、雒陽に変わっての新都となっている。
———— 乱世時流はそれほどに、一寸先がわからないということか。
寸分の選択差で生死が左右されるのだ。これでは名も無き人命など、どうしたって軽く扱われがちになる。
「この先、また過去のような時代に戻ってしまうのでしょうか」
眉宇を曇らせ、広元はぽつり、呟いた。
人の歴史とは、戦の歴史でもある。
四百年前に、秦王・嬴政(始皇帝)が初の全土統一を成し遂げるまで、天下は五百年間も戦国期を続けていた。
その戦乱を終わらせた秦。……しかし、始皇帝の秦朝は短命であった。
直後に劉邦の樹立した漢王朝は、いっとき叛乱王朝に乗っ取られた経緯はあったものの、実質的には、初の長期統一政権となっている。
漢が築き上げた治世四百年。それが……ここで本当に終わってしまうのだろうか……?
そんな暗い話題に、広元が浸りそうになったときだ。
彼はつと、足先に違和を覚えた。
「……?」
覗いた自身の足元。
「おや。猫?」
そこにいたのは、一匹の痩せた白猫。
広元の見知らぬ猫であるのに、人懐こいのか、白猫はくねくねと身をしならせ、広元の衣服に全身をすり寄せている。
「どうした、おまえ」
広元は白猫の小さな頭を撫で、慣れた手付きで手元へと抱え上げた。
〝ネーウ、ネーウ ……〟
腕中で甘え声を放つ痩せ猫の毛並みを、広元は優しげに掌でならす。
毛色は真っ白で滑らか。ただ、片後ろ足が不自然に曲がっていた。古傷だろうか、赤みを帯びた痛々しい痕もある。
「どこかで怪我したのか? これは痛かったろう」
猫相手に話しかけている広元、ふと視線を感じて隣を見遣る。
趙雲が、瞳を白目に浮かせるほどに開いた眼で、広元を見つめていた。
「! ……あ」
自分の所作があまりに男子らしくなかったかなと、広元は遅ればせに恥ずかしさを自認する。
「その……猫はお嫌いでしたか」
場を繕っての照れ笑い。
「いや、特にそうではないが」
趙雲の苦笑気味な面様。
「そうではないが……小さな動物は緊張する」
「緊張?」
「柔らかいし小さすぎて、気付かず踏み潰したりすれば簡単に死んでしまうからな。人の赤児も同じだが……加減がわからんから苦手だ」
巨漢に似合わず、困った風に肩を窄めた。
「は、なるほど」
広元は顔をほころばせる。
言葉の裏に隠れた、趙雲の本質的な優しさを感じたのだ。
「この猫、飼い主がいますね。ほら、紐首輪がついてる。鈴か何か、付いていたのかもしれません」
「はあ。そうなのか?」
生返事に、広元はまた、くすりとしそうになる。
どうやら趙雲、小動物は真面目に不得手らしい。
なるほど、この偉丈夫と猫や赤子といった小さ過ぎる生き物では、あまり似合う絵面にならないだろう。
悠揚の昼下がり、二人がそんな、長閑な語らいをしていると……。
<次回〜 第18話 「白猫と諸葛の姫」>