第12話 白鬼
中国でいう『鬼』とは、いわゆる亡霊を指す。
今、広元の眼前にあるものは、まさにそういうものに見えた。
———— ……な……ん?
正体不明の物体を前に、広元は虫の如き呼吸をするのがやっとだ。
白鬼は牀台の薄い衾(掛布団)に脚を埋め、半身を起こして坐していた。
薄暗い中でもその肌膚が、着ている白単衣との境目が見当たらないほど、皙いのがわかる。
透けているかような、実体感のない存在。
そこに錫青が寄り添っていなかったら、広元はそれが本当に鬼だと思ったかも知れない。
「……」
ひと言も発せない冷えた静寂の中、広元には己の心悸が、ドクドクと異様なまでに聞こえている。
そのときの沈黙は永く感じたが、実際には少時であったろう。
広元がふと気付くと、雲が晴れたのか、いくらか強くなった月明かりが小窓から差し込んでいた。
その光度の助けで、広元は自分の前にあるものの状況確認を試みる。
———— 錫青……?
錫青は鬼の白い手に頭を預け、白鬼は錫青の下顎に掌を添えていた。
鬼の長い漆黒の髪が、真白の衣と肌膚を対比で際立たせている。
彫像のよう……しかし錫青に添えた指に、わずかな動きが見て取れた。
生きた人だ。
———— 女……だ。
青皎い月光と、暗燈に慣れてきた視力が、対象を少しずつ明らかに示しはじめる。
———— まだ若い。
自分と同じか、少し歳上かと即時には見えた。
異様な白膚にかなりな痩身であり、健康的とは言いにくい。
視力順応が加速し、月光と仄暗い燭が浮き上がらせるその者の姿を、広元はさらに明瞭に受け止め始めた。
「……」
やがて広元は、相手の玉姿に思わず目を見張る。
一見不健康にも見えたその容色は、優れた麗質を持っていた。
額から鼻筋、顎へと続く、すっとした無駄のない輪郭線。
柔らかな弧を描いた蛾眉と、閉じた睫毛の細黒い線。薄い朱唇。細い滝のように流れ落ちる絹髪。
まるで名工の仕上げた彫細工もののような面貌だ。
加え、暗さの中で揺れ動く燈の影が、妖しさを増幅させている。
ゆらゆらと照らされる白面の横顔に、広元は魅入る……が、続いて信じ難い衝撃に息を呑んだ。
「……!?」
それは、まだ鮮明な彼の記憶に呼応したもの。
———— 昨日……の!?
似ていた。
昨夜の、月笛の麗人。ほんのつい先刻『月精』だと、己に認めさせたばかりの。
どこと無く、などという程度ではない。ほぼ、瓜二つではないか。
———— い、いや、まさか……!?
まさか、そんなはずはない。
唐突な混乱が広元の思考を襲い、動揺に胸中が狼狽する。
何が、どうなっている……?
〝 …クゥーンン…… 〟
錫青の、高く鼻を抜ける甘え声。
その響きで、広元は平静に返る。
———— ……落ち着け。ここには錫青もいる。
広元は意識的に深い呼吸を二、三度し、掻き乱された意識をどうにか正常方向に戻し務めた。
今一度、状況を見回してみる。
白い者は、広元の存在に気付いていないはずはないと思うのだが、広元にはまったくもって反応している様子がない。
そのうえ奇異なことに……錫青に触れていること以外、その者からは人らしい生気が感じられなかった。
さながら、血脈のない人形。
室に入った初めに人がいると思わなかったのも、おそらくそのためだ。
「……」
印象はともかく、生人ではあろう。
———— 誰……だ。どうしてこんな場所に。
真っ先に浮かぶ疑問。扉は外から錠が下ろされていた……。
地下監禁といえば、通常は牢獄と相場が決まっている。
広元は頭を動かさず眼だけでぐるり、室内を見渡した。
———— でもここは、牢には見えない。
且つ目前の者も、罪人と考えるにはあまりに濁りなく、透き通っている。
「……」
相手に何か声をかけるべきだと思うのだが、どうしたものか、広元の喉は張り付いたように塞がって開かなかった。
思考はかろうじて働くものの、体の動きは固着したまま、なお、数呼吸が経つ。
広元が機能停止している中、白い指に顎を預けていた錫青の耳が、突、ぴくと動いた。
何かに気づいたかのように頭を扉の方に向け、そしてまた、白い者を見上げる。
錫青は今しばらく相手の顔を見つめていたが、次にすっと立ち上がると戸口へ身を返し、広元を置いて、ささっと室から出て行ってしまった。
「あっ、錫青!? 待て……」
眼前の〈人〉を無視してよいものか。
にわかな判断に迷ったものの、命綱は追わなくてはならない。
過分に後ろ髪を引かれつつ、彼は錫青を追って、室を後にするしかなかった。
<次回〜 第13話 「地下室の狂人〈1〉」>