第1話 瑯琊(ろうや)の謡
第一章 闇に囚われた白鬼
◇前編 〜麗人と狂人〜
時は後漢末(西暦2世紀末)。
四百年という中国初の長期統一安泰政権を誇った漢王朝も、いまや壊滅的な腐敗症状に堕ち、世界は「武力こそを正義」とする群雄割拠の戦乱期に突入していた。
戦いの前に塵と化す人の生命。それでも塵たちは、己が全精力を以て懸命に舞おうとする。
そして今、二人の若者が、運命の出会いをしようとしていた……。
その室では、闇が、人を喰っていた。
ひたひたと生き物の如く、無慈悲に成長し続ける黒闇。
それは生者の持つ五感、さらには時の認識さえ、音もなく、だが嬉々として貪っている。
室は、厳密には完全な暗室というわけではない。
小さな几案(机)に一台だけ置かれた三叉燭台の燈皿には、火が灯されている。
宙に浮いた細い三つの灯火。
その灯のせいで、囲む闇の深さが、余計際立っているようでもあった。
室内に置かれた、古く粗末な牀台(寝台)の上に、ひとつの人影がある。
白単衣を羽織っただけの、まだ十代半ばかと思われる青年が、両膝を抱える自身の腕に額を埋めて、うずくまっていた。
長い黒髪は、美しいが束ねられもせず、痩身に沿って、無造作に流れ落ちている。
もう長い時間、小指先ひとつ身じろがない。
呼吸の気配さえ感じられぬほどに、それはほとんど、屍と大差なく見えた。
生反応が静止した空間。……だがその青年の内部で幽かに、人としての意識が動く。
———— ……今の季節は。
前後不覚になりかけている己を糺そうと、残されたわずかな思考力を絞り出す。
———— ここに入れられたのは、晩夏……いや、秋になっていたか。
突。ゴト、と低い音。
唯一ある扉の外側で、木錠が外された。
固まっていた青年の細い肩が、ぴく、と反応する。
———— 来た。
ギイイイ……
引きずる鈍い錆音と共に、分厚い木扉が開いた。
扉外に立つは、一個の大柄な人影。影は手にしてきた燈を上げ、青年の方角をかざし見る。
「ほう。珍しく、起き上がっていたか」
入ってきた男は、手燭の灯を消えていた室内の他のいくつかの燈皿にさし、互いの身体輪郭が認められるほどの仄明るさにした。
手燭が几案に無言で置かれる。
そして鳴り始めた、ゴツ、ゴツと……木履が床石を踏む硬い音。
男は、青年のいる牀台へと迫り寄る。
———— 寄るな。獣。
青年は口の中で吐き捨てた。これから起こることは予測出来ている。
青年はうずくまり姿勢を解き、無駄だと知りつつ、男から一番離れた位置の牀台奥端に退いた。
「ふん。どうした」
さまを眺める男の嗤笑。
「ははん。まさか、震えているのか」
上から見降す男の口許と声に、欲情に歪んだ残忍な色が浮かぶ。
直後、下卑た嗤いと共に伸びた男の骨太い腕が、青年の細肩を捉えた。抵抗の間も与えず獲物にのしかかり、力づくで組み敷く。
動きで起きた風に、細燈のひとつが、ふっと消えた。
———— ……。
青年は、辛うじて繋いでいた己の生感覚を故意に遠ざける。
……そうせねば、正気は保てない。
木組箇所の緩んだ牀台がきしむ不快な音が、室内に響く。
青年はそれ以上、抗わなかった。
◇◇◇
「聞こえるか、狐站。謡だ。誰か謡ってる」
その日、馬上でゆるり馬足に揺られていた旅人、広元の耳が、ひとつの謡声をとらえていた。
ここは荊州南陽郡宛県(河南省南陽市)の城外。
城壁にほど近い小さな丘陵地形を成した辺りで、年歯十八の広元は、若い涼やかな眼を細めた。
〝 歩して出づ 斉城の門…… 〟
「どこからだろう? ……結構近くからだ」
彼の身なりは、旅装束であるために飾り気なく質素なものであるが、かといって賤しいふうでもない。
若齢の浮つき感もなく、静穏な足取りだ。
この年、暦は新年号『建安』に改称されたばかりであった。
つまり建安元年(西暦196年)。御世が『漢』と称されてから、約四百年を経ていることになる。
初冬十月の上旬、空気にいくらかの冷たさは感じられるものの、まだ人肌を刺しはしない。むしろ新鮮さを感じて心地良い気候だ。
特にこの日は、ひときわ気持ちの良い日和であった。
青空はどこまでも高く突き上がり、秋の名残り風がさらり、野を渡っている。
〝 遥かに望む 蕩陰の里…… 〟
謡声は、今日の空のように澄んでいる。
「美い声だ。……これは女の人かな、狐站」
ふわりと笑み、広元は馬の首筋を撫でた。
『狐站』とは、彼の乗っている馬の名だ。
歳を重ねた今の毛色は白っぽくなっているが、生まれたときの狐色が命名由来だと、馬丁から聞いていた。
馬相手に語りかけ続けている単独男の画なぞ、傍から見ればおかしな姿に違いないが、青年は話し相手もいない独り旅であるから、無理もない。
風に乗った謡が続く。
〝 問うとこれ誰が家の塚ぞ
田疆古治子なり…… 〟
昼下がりの陽射しで眠くなるような暖気に、心地よく響く純な声。
もう少しじっくり聴こうと、広元は馬足を止めた。
〝 力能く南山を排し
文能く地紀を経つ 〟
———— 聞き慣れない謡だな。……それになんだか、お硬い謡詞のような?
節も詞も、広元の住んでいる荊州のものではなさそうであった。
どこか遠方の民謡だろうか。
広元は声のする方へと静かに歩を進め、下馬をして、岩陰からそうっと声元をうかがった。
覗いた先、少し離れた低岩に腰をおろしている謡い手が見える。
「あれ、子ども……?」
覚えず零す。
謡い手は、広元の予想よりずっと幼い、十歳ほどに見える年少の男子。純に感じたのは、まだ変声前の未成熟なものであったからのようだ。
歳も性別も予想を外して、広元は軽く恥笑いした。
ともあれ、美い声には変わりない。
ゆるり流れる陽気と美声に癒されながら、広元は岩裏で目を伏せ、続きに耳を傾ける。
〝 一朝讒言を被り
二礼をもって三士を弑す
誰が能くこの謀を為すや
相国斉の晏子たり…… 〟
「……」
このあたりまでを聴いたところで、やっと詞の意味を本理解した広元は、指先でこめかみあたりをさすった。
———— どうやら挽歌(葬送歌)だな、これは。
しかもある古政治家の故事を題材にした、儚さのある暗い謡詞。十やそこらの子供が口ずさむのには、あまり相応しい内容とはいえない。
意味までは解らず、ただ諳んじているだけだろうか。
ピー、ヒョロロロロ……。
謡に呼応しているのか、鳶の甲高い鳴き声が、遠く上空から降ってくる。
そのまま岩に背を預けた広元は、ぼんやり、睡魔の訪れを感じた。
……そうして、半目を落としかけたときである。
ヴァルルッ、ヴルッ、ヴルッ!
「——!?」
すぐ側からした穏やかならぬ低い嘶きに、彼の平穏は断ち切られた。
一気に眠気が覚める。
「狐站!?」
脇の木枝に繋いでいた狐站が、何やら盛んに脚を踏み鳴らせている。
———— なんだ?
それは警戒と興奮の仕草。
人でいえば老齢に差し掛かっている狐站は、比較的気性のおとなしい馬で、滅多に騒がない。
緊張を得た広元は、慌てて周囲を見廻す。
やがて彼の視覚が、右手方向の草間に紛れうごめく、ひとつの黒い塊の存在をとらえた。
「……!」
二丈も離れていない場所にいる生き物は、こちらを真っ直ぐ見据えている。
———— 犬だ! ……大きい。
鈍色毛をした、体高が二尺(約46cm)はありそうな犬。長い足に筋肉質の精悍な体躯をしている。
———— まずいぞ。
相手の外観を認めるや、広元は全身を強張らせた。一目で猛犬類であると推断したのだ。
動物を愛玩目的で飼うことは一般に習慣化しておらず、犬も防犯や狩猟、軍事補佐などの目的で飼育する場合がほとんどである。
あとは野犬、すなわち野獣。
広元を睨んでいる犬がどういう素性かは不明にしろ、野生の危険性は言わずもがな、仮に人に訓練された犬だとしても、
———— こちらが〈敵〉とみなされれば、そこまでだ。
暗く沈んだ毛並みの中で、ぎらつく眼光。裂けた口から長い舌を垂らし、興奮する荒い息。
広元に対し、明らかに攻撃心を見せつけている。
眼を合わせてはだめだ……そう気付いたときには、もう遅かった。
獣は体を低い体勢に構えると、引いた顎から牙歯を剥き、広元を上目遣いに喉奥から唸りを上げ始めた。
———— どう……する。
頭部に寒気が走る。湧いた冷や汗のせいだ。
脇下にもじっとりと汗。
攻撃にも防御にも覚えの疎い彼であるのに、こうなってはもう逃げられない。
今にも跳びかからんとする相手との間合いに、広元は護身用に脇刺ししていた匕首(短刀)の柄を取った。強く握る。
「——」
ピンと張った呼吸の糸……まさにそれがぷつんと切れようとした、刹那 !
「おやめ! 錫青!!」
よく通る声が、場に響き渡った。
<次回〜 第2話 「錫の目」>
第一章のスタートにお付き合いいただき、ありがとうございます。
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【用語解説】
◆漢王朝:秦王朝が倒れた後に劉邦が創立した、中国初の長期統一王朝。前漢と後漢に分かれる。
◆州・王国・郡・県:漢代の地方行政区分。