捌;山守(ヤモリ)
霧と闇に閉ざされた山道を、不安と期待を胸に渡人が登って行く。歩き続けて既に七刻、その間には鹿滑や狗走の難所がありひたすら続く山道を果てしなく歩き続ける森があった。この先にあるという『いわど』の待合『祈りの森』まであと半刻一時。下がり続ける気温と思い出した様に振り続ける雨が無情に奪う体力を除けばなんとか無難にやって来た――ここまでは。
「とまれ」
先頭に立つヤブの声で一行は立ち止る。闇の中、明かりはそれぞれが手にする柿渋を塗り込んだ蛇腹の懐中提灯とヤブが手にした役者の強盗提灯だけ。その頼りない灯りに照らし出された渡人たちの姿は、雨を含んでずっしりと重い蓑と笠で地獄の幽鬼の様に見える。
「ここから先、灯りを消してもらう。みんなおれの後ろに固まれ。鵺の森を行った時の様に縄を渡す。ほれ、カシラ、腰に結わえたらイチタへ廻すんだ」
「なぜ灯りを消す?」
当然のようにイチタ。
「灯り目指して『獣』がやってくる」
「また狗か?」
「そんなもんだ」
ヤブは曖昧に答えると、
「さあ、急ぐぞ」
一行は再び数珠繋ぎとなって歩き出した。先頭にヤブ、続いてカシラ、イチタ、ヒメ、ニタ、最後尾は役者。暫くすると暗闇に目が慣れだし鬱蒼と茂る森の木々と雨が降ったり止んだりを繰り返す空の区別が出来るようになる。霧は何時の間にか消え、気温はどんどん下がって行き、雨も霙交じりになっていた。
「おい、聞いていいか」
闇の中、ヤブに後ろから声が掛かる。
「いいが、声を落としてくれないかね、イチタさん。獣が聞き付ける」
「すまん、その、灯りはまずいと言ったな?」
「ああ」
「あんたは持っている」
「これか?」
ヤブは手にした強盗提灯を少し上向け、
「こいつも無ければさすがにおれたちも目しいだな。それにこれは囲いがあって傍からは見えない」
「余計なことを言った、すまない」
「いいってことよ。ただ、この先は少し黙ってくれ」
「わかった」
ヤブは闇の中顔を顰める。強盗を持つのはそんな理由ではなかったからだった。
やがて一行は暫く続いた急坂を越え、両側の森の木々が途切れ、昼ならば遠くの尾根をも見晴らせるだろう眺めの良い場所に着いた。心成しか闇も薄れ、闇にも慣れた目に空と草木の区別が出来る。霙は暫く止んでいて、風もそよとも吹かない。イチタは歯の根が合わぬほど震えていたが、それでも文句を言わないのは疲労のせいか短い間の体験のなせる業だろうか。
「とまれ」
ヤブは後ろに続くカシラに声を掛ける。その声は低く小さく呟くよう。カシラも後ろのイチタへ、イチタはヒメへと伝言し、数珠繋ぎに慣れた隊列は乱れることなくピタリと止まる。ヤブは仁王立ちで腕を組むと、木が疎らに生えただけの開けた高原を眺める。
「正念場、だね」
「ああ」
いつの間にやら横に来て囁いた役者にぶっきら棒に応えると、
「カシラ」
「はい?」
「縄を解く。後ろに伝えて」
役者が皆を回って縄を回収する。
「どうしたんだ?」
闇の中イチタの問いに役者は、
「この先、一里ほど開けたところを横切るんだ。だから用心しないとね」
「何に用心するんだ?」
しかし役者はもう、後ろのヒメやニタのところへ行ってしまう。微かに震えながら見上げるヒメの視線や真剣な眼差しのニタに、大丈夫、がんばれと声を掛けながら縄を受け取ると、
「さあ、皆、ヤブのところへ」
役者が四人をヤブのところへ連れて行く。そこに暫く止んでいた風が一吹き、ヤブは顔を顰めたが闇の中のこと、それをイチタたちが見ることは出来ない。
「いいか、良く聞け。この先、『獣』がいる野っぱらを行かなくてはならねえ。ここからは固まって行く。問われるまでは一言も口を利いてはならねえ。何が起きても、いいか、おれたちから離れるなよ」
ヤブの声は落ち着いていたが、闇のため顔色を伺えない分、微かな緊張も滲み出ていた。それは渡人の不安な気持ちにゆっくりと沈んで行き、イチタやヒメの震えは寒さばかりでない不安の表れとなる。
「さあさ、これを過ぎれば本当に『祈りの森』の入り口だ。もう少しの辛抱だ」
役者はそう励ますが、ここが最大の正念場だということを勘の鋭いニタは感じ取り、思わず懐に忍ばせた得物に手を伸ばしていた。
黒い雑草の影。その先、やや薄く墨色に沈む空。ただひとつヤブの手にする強盗提灯の灯りを頼りに一行は深と静まった草原を行く。
どのくらい先へ進んだものか。暗闇で狩場を行った経験もあるニタですら距離感がなくなった頃。ニタはふと左右の枯れた草の間に何かの気配を感じた。それは獣が忍び足で獲物に迫るあの殺気に似ていたが、そこに生きた気配を感じられないのが不気味だった。ニタは我知らずブルッと震える身体を強いて押さえると、すぐ右を行く役者を伺う。役者はせわしなく辺りを伺っている様子で、この妙な気配も気付いているに違いない。
襲撃は突然始まった。左右遮るもののない台地の上、左手から背の高い枯れた雑草を掻き分け、ガサッと降って湧いた黒い影。その数はほんの瞬きする間にあれよあれよと増え続け、雪崩を打つように殺到する。群れからはグォーという鳴声。その身も凍る叫び。野獣が獲物に襲い掛かる時の吼声に他ならない。するとヤブが一声、
「皆固まれ!」
そして役者に、
「頼む!」
両手で下手投げに強盗提灯を投げる。役者はそれを受け取るや提灯の後ろを捻り仕掛けを引き出す。それは握りと一体化してまるで大きな引き金のように見えた。役者は提灯を向かって来る黒い群れに向けるとその引き金を引き絞った。強盗提灯の筒先から火炎が迸り、二間ほども炎の弧を描く。役者がそれを左右に、まるで水を撒くように振ると、雨に濡れた枯れ草が燻されたような煙を上げ燃え始めた。
その強盗を『火龍』という。紅花から絞った油に粘着性の強いネダと呼ばれる木の樹液を混ぜたものを、水鉄砲の要領で押し出し火を付ける火炎放射器だった。ネダの樹液はこうして濡れた草木にも絡んで火を付けることが出来る。
役者は焔が自分たちを中心に弧を描き、暫くは獣を防ぐ火炎の堤防となったことを見るや左手で強盗を保持し、右手を背中の熊皮の袋にやって中から黄色に塗った竹筒を取り出す。その筒を強盗の後部に付いた突起に突き刺すようにする。ゴボゴボと音がして中の液体が強盗に飲まれたのを確認すると強盗を置き、今度は熊皮から二尺くらいの黒い竿を出す。それを前に一振り、後ろに一振りすると二尺だった竿はたちまち六尺はある短槍に変身した。折り畳みの槍を手慣れた手付きで固定するとそれを一閃、空を試しに切ってみる。驚くニタに爽やかな笑みを見せると槍を小脇に強盗を持ち直し、役者の戦闘準備が整った。
「あれは……」
呆然と聞くニタを余所に、役者は火炎の前で右往左往する群れを睨み、
「あいつらは人喰いだ。人のように見えるが道理は通じない人妖さ。いいか、しっかり固まっていろよ。ほら、カシラとヒメを後ろに。護身の得物くらいあるだろう?放心してないで二人をしっかり守れ、いいな」
落ち着いた役者の物言いにニタも頷き、懐から白絹の袋を取り出すと口を開く。中からは立派な柄の懐刀が現れた。それを満足げに見た役者は、消え掛けた炎の壁へ今一度火炎を注いで補強した。
「な、なんなんだ、あれは」
その左手では恐怖も顕わにイチタが聞く。あれとしか言いようのない黒い生き物。火炎に照らし出され、ちらりと視野を掠めたその姿。両の腕には熊や猪のような剛毛、その先曲がった手の甲にも剛毛が。その爪は黒く鋭く醜い。何よりも紅く光ったその目。その有様がイチタの脳裏に刻まれ再現され、恐怖が否応にも湧き上がる。
「山守だ」
「ヤモリ?」
「今はそんなことはいい!生き残ることだけ考えていろ」
「どうやって」
「うるさい、だまれ!それを今やっているところだ」
ヤブはそう言い捨てるや、遂に焔の壁を迂回して、右手から降って湧いたように飛びかかってきた一体に見事な回し蹴りをくれる。ギエっと不気味なほどに人に似たうめきを残してそれが消え去ると、今度は左から躍りかかった一体に裏拳をくれて怯ませるや脇に蹴りを入れ打ちのめす。しかし山守は後から後から押し寄せて、いっかな減らない数を頼みに襲い掛かった。ヤブは懐から匕首を抜きざま右左と切り付けて連続四、五体の山守を薙ぎ払う。役者は、と見やれば強盗提灯の仕掛け、火龍で押し寄せる山守を焼き、それでもすり抜ける人妖を得意の短槍で打ち据えている。
ニタは懐刀を前に突き出し、後ろにカシラとヒメを庇いながらじりじりと下がる。その静かな佇まいは、山守こそ知らなかったものの普段の生活で野獣を知っていた彼だからこそ出来た態度。さすが人妖の群れも無闇に突っ込むことはせず、低く唸り声を上げ、荒く臭い息で澄んだ空気を汚しながら間合いを詰めようとしていた。人妖が走り回りながら立てる枯れ草のガサガサという音。後ろで震え戦く二人のことを意識から締め出し、ニタは無心で人妖に対する。その時。
ターン。
鋭く高い音が響いた途端、ニタへ正に飛び掛らんとした一体の山守が弾かれたように倒れた。続けてもう一度、ターンという音。今度はイチタを庇ったヤブに飛び掛った一体が倒れた。ヤブは闇の中一人笑う。役者は一体に槍を突き通し、足でけ飛ばし引き抜きながら呟いた。
「ようやく来たか、スミ」
山守とヤブたちの死闘が続く草原の先、周辺よりは少しだけ高い瘤のような小丘、その天辺。枯れたススキの一叢、その陰に三人の少年少女がいた。
ターン。乾いて高い銃声が響き渡り白い硝煙が上がった。
「ちっ、外した。次」
少女が後ろに声を掛け、まだ銃口から硝煙が棚引いた、すらりと長く形の良い銃を手渡す。
「あいよ」
受け取った甲高い声の少年が換わりに同様の銃を渡す。少女は受け取るや片膝を立てたその格好のまま銃を前に向け、その銃床を右肩に当てる。
その銃は領主や鉄砲衆が持っている火縄銃とは形も性能も格段に違う。最大の違いは火縄が無く銃身が恐ろしく長いこと。それは我々の世界、近世ヨーロッパではマスケット銃と呼ばれていた先込め銃に良く似ていた。もう一人の少年が発射された銃を受け取り、換わりに先込めの弾が装填された銃を甲高い声の少年に渡す。そうして慣れた手つきで空の銃を立て、火薬匙で適量の火薬を掬い、それを弾込め棹で押し込み、続けて明らかに火縄銃の弾とは異なる先端が尖った弾を入れ、押さえの和紙を棹で突き固める。その直ぐ前で再びターンと銃声が上がった。
三人の手際の良い連携で七を数える間隔に一回、正確に銃が発射されていた。それまでに発射された弾丸は十二。斃した人妖は七。狙撃を続ける少女は冷えて湿度の高い空気に白い息を吐き、すうっ、と吸い込む。一旦息を止め、ゆっくりと吐きながら慣れ親しんだ引き金を絞る。ターン。正にイチタに飛び掛らんとした二町先の人妖がふいに顎を上げ、グエッと一声、もんどりうって仰向けに倒れた。
「やっつ。次」
少女の声に甲高い声の少年、サブは片手で差出された銃を受け取りながら、折ったススキの枝を地面に置く。ススキの枝で『正』の字、その横『丁』字がひとつ。そこに横棒を加えたサブは、後ろで装弾するシンから新たな銃を受け取ると遠眼鏡を取り出し、辺りをさっと一通り眺めた。
「スミ、少し左、回りこんだ」
「あいよ」
銃を構えた少女、スミは銃身をすっと左に流し新たな標的を認めると、再び引き金を軽く絞った。