漆;火縄衆(ひなわしゅう)
往く手は僅かばかりの時を経て闇に沈んだ。渡人たちは大人しく歩いていたがその表情には不安の色が濃い。暮れるに従って雨は小降りとなったが代わりに霧が出始め、役者が点けた強盗提灯も寸尺先に漂う白い霧を照らし出すだけだ。この先何があるのか、渡人たちには全く分からない。
やがて一行は起伏に富んだ細い山道に入り、その歩みは之森を順調に稼いだ時と比べ半分以下になった。先を行くヤブは、ここ暫くは何か自信を失ったかのように路傍をじっと見つめ俯いて歩いていたので尚更だった。
その目印は、知っている者さえも気を付けていなければ絶対に見落としてしまう代物だった。代わり映えのしない山道にある何の変哲もない路傍の石。その角に付けられた僅かな紅色。その石の先、同じような石の肩に蒼色。ヤブは振り返る役者に頷くと、その石と石の間から森に分け入る。
「ここを行くのか?」
イチタが役者に尋ねる。
「いいや。ここで待つ」
ヤブの姿は既に霧の中へ消えた。イチタは不安を滲ませて尚も問う。
「じゃあ、ヤブはどこへ行ったんだ?」
「助っ人を呼びに行ったのさ」
役者はそれ以上何も言わせず、
「さあ、ここで待つよ」
不満顔のイチタに肩を竦めて見せただけだった。
ヤブが分け入った森は直ぐに急斜面となった。霧のせいでその下は見通せない。その急で危なっかしい斜面に刻まれた、あるかないかの獣道を滑り落ちぬように慎重に降りて行く。途中、丁度手掛かりに良い具合に何箇所か山葡萄の蔓が垂れているが、それを無視してひたすら後ろに体重を掛け、足を踏ん張り慌てず急がずに降りて行く。やがて勾配が緩やかになり、人がすれ違えるほどに開けた場所に辿り着いた。
山に慣れ、あの鹿滑や狗走の難所を駆け抜けたヤブが慎重になっていた訳がここで分かる。今降りて来た坂の先ヤブの目の前の草むらに、子供の腕ほどの竹槍が四本毎に組となり五組二列、丁度坂の角度に合う様斜めに並べられている。万が一坂を転げ落ちればその不幸な者はこの槍に串刺しとなる寸法だ。山葡萄の蔓は罠で、それを掴めば蔓はたちまち切れて掴んだ者を中空に離し竹槍の餌食とする。
こんな物騒な用心をした者たちがこの先に住んでいた。
ヤブは竹槍の前を慎重に横切ると、右手に折れた道へは行かず、左手の草むらへ入って行く。小糠雨が続く中、何をしてもずぶ濡れとなる草むらを十間ほど、目の前に楢の大木が現れた。ヤブは辺りを伺い、妙な気配のないことに得心が行くとその木の裏側へ廻り込んだ。その木の根元にはちいさな祠があり、木の精霊を祭っている。供え物を置く石の台は空だった。
「いるな」
合図を見やるなりヤブは一人言を言うとその祠の上、楢の太い枝から下がっていたカズラの蔓を引く。二度引くと休み、再び三度、二度と繰り返すと、待った。やがて。
「名乗れ!」
若い女の声だった。
「『わたしや』のヤブだ」
「笠を取って前に出ろ」
ヤブは笠を取り雨に濡れるに任せ、前に三歩進む。
「笠を被っていいぞ」
突然女が現れる。年の頃は十三、四。笠も蓑も身に付けず、頭から黒い長合羽を羽織っていた。ヤブは挨拶抜きに語りかける。
「ジンはいるか?」
少女もぶっきらぼうに、
「頭は生憎出掛けている」
「なら、ジュウキチは?」
「いないね、一緒に出掛けている」
ヤブは内心舌を打ったが顔には表さず、
「なら、誰がいる」
女は初めてニヤリと笑むと、
「サブとシン、そしてオイラだけさ」
「ノスケもレイもホウタも、」
「みんな出払ってるって、ヤブの旦那。今夜は少々立て込んでいてね。之森を来たんだろう?なら理由は旦那にも分かるはずだ」
「邪魔したな」
ヤブは身を翻し、歩き始めた。
「おい、待ちなよ。案内を頼みに来たんだろ?」
少女はさっとヤブの前に立つと、
「え?わたしやさん。旦那がご機嫌伺いだけでオイラたちのとこに来る訳がないしね。やってやるよ」
「その必要がなくなった」
ぼそりとヤブが言い、少女をかわして先を行く。
「おい、待てったら。せっかちな旦那だな、案内してやるって言ってるだろう?」
「餓鬼の案内はいらん」
「言ったね?これでも頭に筋がいいって言われてんだぜ?」
「半人前に地獄に連れて行かれたんじゃあ割に合わん」
少女は顔を真っ赤にすると、
「半人前?言ってくれるねぇ、いつぞや、お宅の役者を助けたのはどこのどいつだったんでしょうねぇ?え?」
「あれは偶然だ」
「ぐうぜん?」
単語に非難の全てを込めて少女が言い放つ。ヤブは思わず振り返り、
「声がでかい。そう言うところが半人前と言うんだ」
「ああ、すまねえ。分かったよ、お代はツケにしとくから、」
「元々ツケ払いだ。お次は負ける、か?地獄の沙汰も金次第だからな、満額払うさ、親方の案内ならな。お前さんたちはダメだ」
「くそったれ!今夜は出るぜ、山守どもが。どうするんだい?」
「知ってるよ。狗の気配がないものな、それに臭いがしやがる」
「だろ?なあ、足手まといにはならないよ、陰に付いて守ってやっから」
すると竹槍の前に出たヤブが歩みを止め振り返る。
「おいスミ。お前幾つになった」
真顔で眼光が鋭い。
「来月で十五になるよ。それがどうしたい?」
「おれはお前が赤ん坊の時から知っている。レイの背中に負ぶわれて。もちろん赤ん坊の時分から親兄弟の背中で仕事を覚えるのはおれたちも一緒だがね。そんなお前がわざわざ地獄の案内をするってぇのを、みすみすさせとく訳にはいかねえな。今夜はお前の言う通り山守どもがやってくるよ、それもわんさとな。それは地獄さな。お前たちがおれのせいで死んだらお前の頭に恨まれちまう。そうなったらこの先、この『陣ノ森』を越える時には命乞いをしなくちゃならねえわな。『火縄衆』を敵に回したんじゃあ『わたしや』稼業もとんと立ち行かねえ。だからお前さんたちには頼まん」
ヤブは先程降りて来た獣道の脇に下がる蔓をぐいっと引く。
「なら、罠を解いてくれ」
少女スミは暫く腕を組んでヤブを睨むようにしていたが、はあ、と大きく吐息を吐くと、竹槍の下、一見石臼のようなものの取っ手を掴んでぐいぐいと廻した。するとどこか上の斜面から雨の音に混ざって、ざざっ、ざざ、と草を滑る音がする。スミが黙って頷くとヤブは、
「じゃあ、すまなかったな。寝てくれ」
そこでふと何かを思いついたように、
「頭や大人たちが戻って来たら、ヤブと役者が四人連れて森を行った、と伝えてくれ。遅れても構わんから少しでも助太刀して貰えたら助かると、な」
「わかったよ」
ヤブはニヤッと笑うと手を上げて、蔓を握り斜面を登って行った。それを見送りながらスミは一人呟く。
「大人たちだって?オイラも立派な大人だよ、わたしやの」
ヤブが霧の中から突然現れると、反対側の大木の下にいたイチタが身動ぎし、ヒメが驚いた声を上げる。
「なんだ、ヤブか」
しかしヤブは取り合わず鷹揚に手を上げると、
「待たせたな、行くぞ」
「助っ人とやらはどこだ?」
「一緒には行かない。連中は陰を行く。あんたらが見ることもないだろう、そういうもんだ」
それだけ言うとヤブは役者に目配せし、先頭に立った。イチタは何かぶつくさ言い、カシラが慰める様にさあ、と声を掛ける。小糠雨が間断なく降り続くなか、一行は重い足取りで出発した。
「誰だった?」
スミが戸口に掛かる熊の毛皮を捲ると若い男の声が掛かった。まだ声変わりする前の少年の声だ。
「ワタシのヤブだった」
「それで?」
もう一人、奥から声が。これは変声期に特有のがらがら声。
「案内してやるって言ったんだけどな」
「断られたのか?」
と甲高い声。
「ああ。オイラを餓鬼と抜かしやがった」
笑いながら甲高い声の主が奥の暗がりから現れる。歳の頃は十一、二。歳の割にはひょろりと背の高い少年だった。
「餓鬼じゃねえのか?」
「抜かせ。仕事はきちんとこなしてるだろうが」
「で、餓鬼は使えねえ、と奴は言ったのか?」
がらがら声も炉辺の明かりの中に出て来る。こちらは十二、三の精悍な顔立ちの少年だった。肩から綿入れを羽織り、のそりと炉辺に腰を下ろす。スミは雨にすっかり濡れた長合羽を入り口の横にある掛け鍵に引っ掛けると熊の皮で出来たサンダル状の履物を脱いで炉辺に座る。
「オイラたちが死んだら頭が怒るってよ。死ぬもんかよ」
「で、行くのか、スミ」
これは甲高い声。
「行かねえのか?サブ」
スミは甲高い声の主に問う。
「やっぱりな。行くに決ってるよ」
甲高い声のサブは幼さの残る顔を膨らます。スミはもう一人に視線を移し、
「シンは?」
「お前らだけ行かす訳には行かねえだろうが」
ガラガラ声のシンは不敵に笑みを浮かべた。
ヤブたちは次第に急勾配になる山道を無口で進んだ。先頭を行くヤブに役者が後ろから近付く。
「それで?」
役者が後ろを行くカシラに聞かれぬ様、声を落として尋ねる。
「餓鬼どもしかいなかった。之森の山崩れのせいだ」
役者は微かに肩を落とすと、
「火縄衆にとっての聖域だからね。親方さんはみんな連れてったろうな」
火縄衆はこの辺り一帯に住む山の民。狩猟を表の商売として生きている。之森は彼らの神聖な場所であると共に生活に欠かせない火縄銃に使う火薬を得るための硝石を産する。しかも下界の人々との接点でもあった。
「で、餓鬼どもは?」
「シン、スミ、サブの三人だけだ」
役者は苦笑する。
「やっぱり仲良し三人衆か。で、雇ったのかい?」
「いや。餓鬼の案内はいらんと断った」
役者の苦笑は続く。
「その様子だと出て来たのはスミだね?売り込んで断られた時のあいつの顔が浮かぶな」
ヤブは頷いただけで渋い顔を崩さない。
「で、付いて来るだろうね、あいつらのことだから」
「来るだろうな」
役者はニヤリと笑って、
「全くずるいな、え?わたしやさん。一旦断る。見栄を潰された餓鬼どもが頼まれもしないのに付いて来る。追っかけ親方連中も駆け付けない訳には行かなくなる……」
「仕事の内だ、仕事の」
ヤブの年期の入った顔。厳しさはそのままだったが口元が軽く歪んでいた。