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伍;狗走(イヌバシリ)

 手は赤く腫れあがり所々赤剥けている。草鞋は鼻緒が切れかかり伸びてしまい、イチタとカシラは実際切れてしまって、巻き脚絆でかろうじてぶる下がっている様な状態、その足も泥に汚れた足袋に滲む赤いものが見えた。腕は重い二本の丸太の様で既に持ち上げる事も出来ず、掴む力も失せてしまい、だらりと両側に垂れ小刻みに震えている。それは脚も同じ、身体を支えるだけが精一杯、背負う荷は僅かなのにその重みで沈むかの如く、がくがくと揺れていた。

 僅かに余力が残っていたヒメが、行き違いのためほぼ十丈毎に造られた二股に割れ再び一つになる鎖を使って消耗し切ったイチタをかわし先に出る。彼女が崖淵を役者に助けられながら越えた後、漸くイチタが半分気を失い掛けながらも崖の淵から身を乗り出した役者と下から肩で突き上げるヤブの力で乗り越え、狭い鞍部へと倒れ込む。続けてヤブが疲れも見せずに崖っ淵を乗り越えると、彼らの苦闘は一旦終わりを告げた。それを合図の様に渡人たちは崩れる様に座り込む。

 風雨は岸壁よりこの尾根の方が余程激しかったのだが、それも今一時は誰もが己の事に精一杯で気に掛ける者はいなかった。ヤブは渡人たちを暫らくそのままにさせた後、

「さあさ、尻を上げて。これでしまいじゃねえ。まだ先がある」

 すると役者が続けて、

「みんな、よくやったやったなぁ。こんな雨ん中、おれたちも尻込みするこいつを登り切った。さあ、これで難しいところはおしまいさぁ。もう半日で着くからな。さあ、元気出して行こう」

 疲れを知らない『わたしや』の態度に、息も絶え絶えのカシラが言う。

「少し休む訳には行きませんか?この、ええ、イチタはこんな場所に来た事がありません。ヒメもです、このまま行ったら死んでしまいます」

 するとヤブは、

「カシラ。誰も好き好んでこんなとこに来る訳じぁあねえよ。おれたちも粋狂でやってるんじゃねえ。これでおまんま喰ってるからな。おれはあんたから金四匁貰って、あんたたちをあちらへ渡すと約束した。渡す駄賃に安全は入ってねえ。それは初めに話してあるな?あんたたちはそれを承知でこんなとこまで来たんだよな」

カシラはうなだれ消え入る声で、

「それはそうですが……」

「こんなにひどいとは、ってか?そうさなぁ、まち育ちのあんたたちは分かるまいよ、ここは山の神サンの領地だからな。下にいらっしゃる殿サンはおれのモンだ、と思ってるんだろうがね。だがな、たとえナンブの殿サンがそう考えようがここいら一帯は神サンのもんさ。おれたちは神サンの庭にのこのこ入って来た邪魔者だな。神サンは早く出て行けと怒ってるのさ。休んでなんかいられねえなぁ。行く行かねぇはあんたたちの自由さ。おれたちは行くよ、あんたたちと一緒に死にたくねえからな」

 ヤブの長広舌にカシラは返す言葉もなく、ただ岩だらけの地面に這いつくばるだけ。イチタ、ヒメはヤブの話すら聞いていない。ただ意識を保つのに必死の有様。ニタだけが頭を上げ呆然とヤブを見やるだけだった。そんな打ちひしがれたがれた渡人に役者のよく通る声が掛かる。

「なあ、ここに一時もいたらあんたら全員生きて帰れねえ。下や崖も恐いが、ここはもっと恐い。なんでヤブが急ぐのか教えてやろうか?」

 役者は思い入れたっぷりに間を置き、カシラの前にしゃがんで、カシラが顔を上げるのを待って、

「この先、尾根道は幾らか登るとずっと下りになる。足を滑らせて落ちたら確かに助からねえが、落ち着いて行けばなんて事はねえ。でもな、それでも人が落ちて死ぬ。鬼が出るからさ」

「オニ?」

 カシラが信じられぬ様に言うと役者は、

「もちろん角の生えた『なまはげ』みたいなのは出て来ねえよ。でも確かにオニはいる。いぬの形してな」

「イヌって……」

「狼、ですか?」

 戸惑うカシラに代わって聞いたのはニタ。役者は頷き立ち上がると声を張る。

「狗は鹿滑を越えて弱った獲物の匂いを嗅いでやって来る。一匹二匹じぁねえよ、群れて後から後からやって来る。見つかったら最後、追い掛けられてこの先の坂で捕まるか、そっから落ちるか二つに一つ、どちらも死ぬ事になる。なあ、カシラさん、どっちがいい?」

 しかしその問い掛けを吟味する間もなく、ヤブがはっと顔を上げ冷たく刺さる横殴りの雨に打たれるのも構わず、辺りをきょろきょろと探った。その動きには明らかに緊迫の色がありありと見え、疲労困敗したイチタですら見やる程。するとヤブは近くの大岩の上へひょいと身軽に駆け上がる。そして笠に手をやり辺りを睥睨へいげいし、何やら耳を傍立てていたが突然、ぱっと飛び降りるなり、

「来やがった!先振れの数匹だ、ここの気配を伺ってるぞ」

 そして彼にしては驚くほど取り乱した様子を見せて、

「悪いがおれは行くよ、じぁあな!」

 言うが早いかさっさと小走りに道を下り、あっという間に皆の視界から去った。役者は、

「さあ、おれもごめんだからな、あの血で真っ赤に染まった大きな口や何でも引き千切る牙で裂かれるのはな。あの涎を垂らした恐ろしく大きな灰色の身体を見たり、唸り声を聞いたが最後、もう逃げられねぇから」

 しかし役者の言葉を最後まで聞かないうちに、

ウォーン

 至極間近で紛れもない狼の声がした。するとイチタがよろめきながらも立ち上がり、なんとか走り始める。更にヒメ、カシラと続き、何故か一瞬戸惑った様子を見せたニタも皆の後を追って走り出す。役者は落ち着いて渡人が落とした振り分け荷を拾い、後を追った。

 彼らが走ったのは岩が所々塞ぐように立つ急坂道。右に左に九十九つづら折りに下り、岩は鹿滑でお馴染みとなった溶岩軽石。渡人たちは息も荒々しく、冷えた空気に盛大に白いものを吐き出しながらよろめき、時折、つまづきながらも坂を下り、やがて、十町余りも行った先、岩もめっきり少なくなり一直線に下る土の坂に変わるまで走り続けた。

 本人も気付かぬまま全員を抜いて先頭を走り下っていたニタの前に、先走って逃げ去ったヤブが現れたのは、その岩場から土の覗く坂に変わったところ、大岩の陰から突如踊り出したヤブは、脇目も振らずに走るニタの前に飛び出し、驚いて、蹴躓けつまづくニタの身体を抱き抱える様にして止めた。

「よく頑張ったな、この岩陰なら安心だ、少し休みなさい」

 そう言って肩を叩くと、二番手に転げ落ちるようにしてよろよろと走って来たイチタを抱き止めに再び道へ飛び出して行く。その後ろ、二人して支え合いながら脇目も振らず下って来たカシラとヒメは、役者が追い付いて止めた。

 渡人たちは、ヤブがその天辺に立って今まで彼らが走り下って来たガレ地の坂道を見やる大岩の陰で、仰向けとなったり拝む形でひれ伏したりと、息も荒く意識も朦朧となりながら己の不幸を呪っていた。


 いつの間にやら風は、音はするものの髪を靡かせ笠を押す程度にまで弱まり、心成しか雨も小降りになった様に思える。役者はその大岩に背中を預け腕を組み、渡人たちが次第に落ち着きを取り戻して行くさまを観察していた。

 ニタが起き上がりカシラも頭を上げるほどに回復すると、役者は岩から離れ、それぞれの元へ、彼らが落としていった振り分け荷やズタ袋をそっと置いた。カシラは役者が自分の膝元へ置いた荷に顔を赤らめ詫びた後、

「あの、大丈夫なのですか、あの……」

 イヌは、と言おうとしたがまだ荒い息が言葉を殺す。役者は話さなくてもいい、と身振りで伝えると、

「イヌは下までは来ない。ここまでくれば大丈夫だろう」

 その綺麗な顔に笑みを浮かべ、

「さ、休んでばかりもいられねえや。そろそろ行こうかね」

 頷いて起き上がるカシラを後に、役者はヒメを助け起こすニタに頷く。岩の縁に頭を預けてぼんやりとしているイチタの許へ行き、まるで子熊を背負うかの様に見えていた背中の熊革の大袋から赤く塗った竹の小筒を取出し、イチタの口に当てた。水をあてがわれたと思ったイチタが無意識にそれを飲み込むと……激しい勢いで咳き込み、思わず上半身を跳ね上げた。

「悪かったな」

 さほど悪気もなさそうに役者は言う。

「熊の胆を酒に漬け込んだ気付けさ。目が醒めるだろ?」

「殺す気か?」

 イチタは弱々しく首を振ると、

「なんて味だ」

「なあ、狗の事も心配だけどね、イチタさん」

 役者は何か複雑そうな表情を浮かべた。

「本当は何が一番怖いか知ってるかい?」

 イチタは岩にぺたりと背を付け、阿弥陀になった笠も直さずその下から役者を睨むと、

「この上どんなひどい所へ連れて行く気だ?」

 役者は肩を竦め、

「そんなことじゃねえ。それに別に好きでやってる訳じゃないし。これはあんたたちが望んだことだからね。ま、それはそれとして教えてやるよ」

 ぐいっと顔をイチタへ近付け揺るぎない眼差しをその顔に据えると、役者は高々と言い放つ。

「一番怖いもの。それは、あんた、だ」

「なに!」

「恐いのは自分自身だ、と言ってる。人間てのはね、弱いもんさ、簡単に死んでしまう。獣は案外強い。こんなひでえ場所でもちゃんと生きて行けるからね。けれどもおれたち人間はこんな所、一日一晩だってもちはしねえ。崖から落ちるか、頭に落石喰らうか、はたまた狗に喰われるか。死に方だけは色々ありやがる。そんな中で一番気を付けなきゃならんのは、腹に力が入らなくなることさ。ここんとこに力込めてねえと簡単にドジを踏む。周りに気を配らねえと、落ちてくる石の気配や追っ掛けてくる狗の気配や雷神さんのご機嫌とかを掴み損ねる。あんたたちは、そんな山の神サンのご機嫌は分からねえだろうから、おれたち『わたしや』が代わりに気を配るんだな。でもね、いくらおれたちががんばっても、あんたらが生きることを諦めたらもう助けることもできねえさ。あんたらは腹に力入れて、止めたくなる自分を押さえるだけでいい。それもなくなったら、どうにもならねからな」

 役者の声は穏やかに、朗らかにすら聞こえる。イチタばかりでなく、周りにへばった渡人たちもその言葉を聞いていた。イチタはやがて、真っ直ぐ突き通す様な役者の視線に耐えられず目を逸らし、

「だから私が恐いと言うのかね」

「まあね」

 イチタは岩に手を掛けよろけながらも立ち上がる。

「さあ、どこにでも連れて行け」

 役者はにんまり笑うとイチタの背負い荷を直し、笠を直すと、

「腹に力入れて、な」

 イチタは溜息混じりに、

「ああ。分かった」

 そんなやり取りを、細い目を更に細くして眺めていたヤブは、

「行くぞ」

 岩から飛び降り土の坂の先、風に曝され奇妙に捻くれた松の林に向かって歩き始める。そのヤブが、笠を直しながら役者の方をちらりと見て軽く頷き、役者も笠に手をやって頷くのをニタは見逃さなかった。

 やがて渡人たちは、なんとか自分一人で立ち上がり、役者が荷を整え、この先の道行きに備えさせると、先に松林の縁まで下って待っているヤブに向かって歩き始めた。最後尾に立った役者が、後にする鹿滑の方を一度も振り返らなかった事を確認したニタは歩調を緩め、役者に並ぶ様にして歩く。

 何か、と見やる役者にニタは、

「役者さん。一つ聞いてもいいですか?」

「なんだい」

「狗は群れて襲って来る、と言っていましたよね」

「ん?」

「見つかったが最期、そんな感じで」

「ああ、それが?」

「さっき狗が一声鳴いた」

 役者の目が細められる。

「運がよかったな。年寄りのはぐれ狗だったんだろうなァ」

「なるほど。私は少し南に行った所の拝領で、御狩場を」

「おい、身の上は話さないでくれ、わたしやは聞かねえのが掟だ」

「ああ、済みません。とにかく私は山を知っています。山もですが、あなたの言う狗も知っている。あやつらは賢い。見たところ、ここには獣の糧となるものが見当たらない。水場一つなさそうだ。だからあやつらめの餌となるものはここにはほとんどないことになる。ここはあやつらの狩場としてはとっても難しい場所なんですよ。もっと下に行けばいくらでも楽に獲物が手に入るのに」

「弱った二本足は楽な獲物ではねえか?」

「そうですかね?あなたはお若いのに過酷な経験をなさっているから、そんな飢えで行き場を失った狼しか知らないのかも知れないが、本来、狼は人間の匂いがしたら一目散に逃げるもの。獲物が大怪我でもして血の匂いをさせていれば別ですが、狼は決して一匹では複数の人間は襲いませんよ」

「ふうん、そうかい」

 役者の素っ気無い態度にニタは苦笑した。彼が初めて浮かべた笑みに、役者はまじまじとその細面を見る。役者も紛れなく美形だが、こうして改め見るとニタも優男振りでは負けてはいない。ただ、過酷な現在の状況がそんな浮かれた印象を打ち消しているのだ。今、思わず笑ったニタの表情が普段の彼を垣間見せる。直ぐに真顔になったニタは、前を向いて口を閉じた役者に尚も話し掛けた。

「勘違いしないで欲しいが、私はあなたたちを非難しているのではないですよ。感謝しているのです。あそこで『狗』が出なかったら、もう誰も動けなくなっただろう。ありがとう」

 役者は片手で制し、

「それ以上しゃべるな、カシラがいぶかしがってる」

 なるほど、ヒメと肩を組み合ったカシラが立ち止まりこちらを見ている。するとニタは、

「なんでもない。さあ、行って」

 カシラにそう言うと役者に深く頭を垂れ、ニタは、早足でカシラの許へ急ぎ離れた。役者はニタが充分に離れると吐息を吐き、熊革の袋を背負い直すと誰にも聞こえない呟きを洩らした。

「狗ではなくて、親爺くまにするんだったか」



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