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肆;鹿滑(シシスベリ)

 『鹿滑』は、自然が時折見せる神聖の術で築いた城塞、立ち入る者を自らの『神将』を使って拒み跳ね付ける。

 最初に立ちはだかるのは風だった。真正面から吹き付ける風は笠を跳ね飛ばそうとし、蓑を剥ぎ取ろうとした。次第に角度を増すガレ地の脆い岩に、手を掛け這い付く張り、か弱い四つ足の様にのろのろと登る。

 二の将、雨も負けていない。一時は止みそうに思えた雨は、風に助けられ殴り付ける様に振り飛沫き、一粒、一粒が鋭く冷たい矢となって彼らを襲う。既に感覚の失せた手にそれが当たると、掴む岩からもぎ取られ数尺ずり落ち、あわてて岩を掴み直す。顔を上げれば容赦なく打たれ、目を開ける事など考えられない。

 そして風、雨に続くのは大地、斜面そのものだった。脆く崩れ易い軽石の斜面はそれだけで危険な罠、まして今は風雨に曝され尋常ではない。岩は掴む傍から砕け、彼らを支えるのを拒絶し、しがみつく者を無慈悲に谷底へ突き落とそうと仕向ける。

 最後は水だ。既に雨となり彼らを痛み付けた水。それは脆い岩の間を走り、小さな滝の様になり、彼らの足を掬い腕を痺れさせもぎり取ろうとする。

 鹿滑は過酷な自然が容赦なく人を叩き、死の淵へと突き落とす地獄。そこは人が本来立ち入ってはならない神の領域なのだ。

 一時も経った頃、一行は開けたガレ地を越え漸く青銅の太い鎖だけが延々と伸びて行く絶壁に辿り付いた。

「無理だ」

 精も根も尽き果てたイチタが殆ど声にならない呻きを漏らす。

「登れるわけがない」

「登らなくてはならねえ!」

 ヤブは垂直に吹き下ろす風に負けないどら声で言い放つ。

「下がるか?もう遅いわ。下がる途中で谷底へ落ちるに決まってる。留まるか?天気はこのまま変わる気配もなし、ここにいたら落石に頭を砕かれるか芯まで凍えて動けなくなるか、どちらかだな。もう行くしかねんだよ。さあさ、こうしていても山は消えねえぞ。行こう」

 それでもどっしりと根が生えてしまったかの様に座り込む渡人たちを見て、ヤブは少し口調を穏やかに、

「なあ、こいつは正に行くも地獄、引くも地獄だなあ。なら先に行った方がまだまし、ってもんじゃないのか。それによ、ほら、ヒメ、あんたがかわいい尻っぺた付けてるそこんとこの岩の裏、振り返って見てみな。」

 疲労根敗し顔を上げるのも億劫なヒメが、のろのろと辛そうにその岩に囲まれた凹地を覗くと。

「ひぃ!」

 声にならない声を上げてヒメはよろよろと立ち上がる。何だと言う様に立ち上がって覗いたニタも、その肩越しに見たカシラも、あっ、と声を上げ思わず二歩三歩と後摺さる。最後に彼女たちの後ろから、恐々覗いたイチタの見たものは。

 二間四方の空間、岩の欠片と共に白く敷き詰められていたのは様々な部位の人骨だった。されこうべが砕かれ、半分だけの眼窩が空を見上げたり、大腿骨が卒塔婆の様に並んで立っていたり、地獄の河原はさも有りなん、といった光景に誰もが衝撃で疲労を忘れた。吹き抜ける風の鳴き声が今更ながら不気味に響き、岸壁伝いに走り下る水が横殴る雨と相まって、この白骨の吹き溜まりを叩いている。ヒメは目眩に襲われた様に崩れ、あわてて差し出されたニタの腕の中で震える。口に両手を当てて息を荒げるカシラの後ろでは、イチタが妙に無表情で突っ立ち半分傾げた笠も直さない。

「さあさ、残って明日のお天道さんを迎えられなければ、ここで名無しの権兵衛、カラスや犬に食われて骨になる。それがいやなら、そこにある鎖を掴んで登るしかねえ。丈は四十ほど、始めてしまえばすぐさ。おい、ニタさん、あんたが先に行くんだ。続いてカシラ、あんただ。大丈夫、役者が直ぐ後ろから行くからな。役者の後ろがイチタさんでその後ろがヒメさん。最後がおれって寸法だ。さあ、始めるぞ!」

 ヤブはニタに近寄ると、風雨に揺れて岩肌を擦って嫌な音を立てている鎖を指差して、

「いいかい。ちっとしか説明しねえよ、よく聞いとくれ」

 そして鎖の前にニタを連れて行くと呆けた様に見つめるヒメにも、ヤブが何を教えているのか分かる程大袈裟に、身振り手振りも豊かに登攀のコツを伝えるのだった。


 もし晴れていれば、天道は西に傾き始める頃合い、しかし益々ひどくなる様に思える風雨は空を濃灰の下地に変え、その灰の上に走馬灯の様に走り来ては去って行く黒い千切れ雲を掃いて、神聖の地へ入り込んだ人間を威嚇する。振り飛沫く雨は上から下から、そして岸壁からも廻り込み、既にずぶ濡れの身体を叩き続け体温を奪い気合いを挫く。風も負けじと身体をきりきり舞いさせ凍えさせ、意識を失わせ様と企む。

 先を行くニタは、ただひたすら太い鎖を手繰り両足を踏張って身体を引き上げ登って行く。その動きは下のガレ地から見やれば焦れったくなるほどゆっくりだ。

「……右手を……次に左手、五寸刻みに、尺を越えてはいけない……次は右足、探りながら崩さない様……確かめたら身体を引き付け、はいよと!……最後は左足、崩さぬ様に……次に右手を……」

 ニタはぶつぶつ呟きながら登っている。直ぐ後に続くカシラも同じ言葉を念仏の様に唱えて登る。それはヤブが全員に一人ずつ口伝えに覚えさせた。

「今教えた呪文を呟きながら、その通りに登るんだ。自分が声を出している事を確かめながらな。自分の声が出なくなったら止まれ。そこで息を整え、はいよ、と一声しっかり出して登り出せ。こいつは辛いが、世の中、終わらねえ事などねえさ。上はやがて見えてくる」

(終わらない事などない)

 ニタもカシラも同じ事を考え、励みとして酷使の連続に悲鳴を上げる手足に鞭打って更に五寸、更に一歩と進んで行った。

 その様子をカシラの後ろから進む役者が見ていた。役者は軽快な足取りとしなる様な身体で難なく付いて来る。一見この不思議な順列、素人を先に行かせ玄人の役者やヤブが先頭に立たないのは、いざとなれば皆が助かる方法だからだ。

 鎖は頑丈で時折、ヤブたち『わたしや』が手を入れて直し補強している。この鎖を手繰り登るしかないのだから順番は関係ない。ならば先の二人の転落に備え役者が行き、その後ろ、イチタとヒメには最後尾のヤブが付く。その方法が最善の策。渡人は全員襷掛けに丈夫な縄を掛けている。その襷の背中、バツの形の真ん中から、これも丈夫な縄が伸びて続く渡人の襷に繋がっている。更にその縄は下を行く役者やヤブが斜め掛けにして、万が一上の二人が転落した時に備える。鎖には一間毎に金輪が付いており、『わたしや』の二人はこの輪に腕を通し、上の二人の縄が張ったら次の金輪へと進んで行く。金輪は鎖毎に岸壁へ打ち込まれており、大人二人位なら暫らくの間体重を支える事が出来た。彼らは詠脈受け継がれて来たこの命綱を頼りに、この世の地獄を渡って来たのだ。

 壁が最大斜度に近付くと、役者は一声、止まれ!と声を掛ける。ニタが襷とは別に腰に巻き付けた帆布で出来た晒し状の布を近くの金輪に通し、教えられた結び方で結び付ける。ニタはそうして安全を確保してから下を振り向いた。

「暫く休もう。この先慎重に行かなくちゃならねえ」

 カシラも教えられた通りに金輪へ結び付けたのを見て満足した役者は、

「なあに、もう半分は登っちまったよ。頑張ったなぁ。ここまでは上出来だ」

 役者のよく通る声にニタは頬を緩めぺこりと頭を下げる。叩き付ける雨は止まってみれば単調な滝飛沫の様で、慣れた今では滑る事だけ気を付ければいい程の存在となっている。カシラも下を見たが、自分が成し遂げて来た事に信じられぬ思いと高所恐怖に思わず目を閉じ、決して二度と振り返らなかろうと思う。

「ほら、しっかりと結べ、おっこちるぞ!」

 ヤブの鋭い声が響き、見やれば直ぐ下、イチタが緩慢な仕草で布を金輪に結ぶところだった。笠に隠された顔は役者にはその半分も伺えないが、のろのろとした動作と反応の鈍さに限界が見て取れる。

「ほーら、上を見てみな、あの鞍の窪みに着いたら後は尾根伝いの道だ。いいか道だぞ?階段でも崖でもねえ、正真正銘の道だ。ほら、あと二十間、一時もしねえ内に着いちまうさ。そうしたらあにさんたちは、おれたちも辛い鹿滑を雨の日に登った、と自慢出来るようになる。もう直ぐだ」

 ヤブの声は駄々子を宥める様に大らかに自信ありげに響く。だが、内心では焦燥と意地が葛藤を繰り広げていた。

 完全に消耗仕切ったイチタ。ヒメも元来彼女が持っている芯の強さだけが最後の砦となって、身体の限界を越えてここまで彼女を引っ張っている。それはカシラも同じはず、イチタと違うのはそれを表に現さない矜持があるからだ。極限の人間観察に長けたヤブには、それが手に取る様に見えた。はっきり言ってこのままでは全員無事に渡すのは覚束ないだろう。それが焦りに通じ、焦りは足を引くだけで失敗を招く早道だ、と言う事も充分に心得る彼の玄人意識に響いている。そうヤブが思った瞬間。

「いいか!全員腹括れ!」

 突然、役者が声を張った。

「ここまで来れば登るか死ぬかだ。止まれば死ぬ。登るしかねえのなら、腹に力入れて死にモノ狂いで気張れ。気張れねぇヤツは皆の足枷になるだけだ。そうなればそいつだけじぁねぇ、全員死ぬぞ。ダメだと思ったら襷を放て。あっと思う間もなく極楽に真っ逆さまさ。大丈夫、後でおれが必ず骨を拾ってあの骨が捨ててあった賽の河原に葬ってやるからな。さあ、どうだ。死ぬか生きるか、死にたいヤツはいるか?」

 雷に撃たれた様に硬直する渡人。風と雨の音が吹き抜ける中、やがてカシラが、

「分かりました。さあ、行きましょう。こうしていても何にもなりません」

 その声は疲労が滲み掠れてはいたが、はっきりと皆に届いた。最初にニタが、続いてヒメ、そして疲労に打ちひしがれたイチタまでがのろのろと晒しの布を金輪から解く。ちらりと振り返ったニタに役者が力強く頷くと、ニタは鎖を握り直し、重い脚を引き上げた。



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