參;懊悩(まよい)
「あれは役者、だ」
ヤブが紹介すると、麓の小屋から一気にここまでを先回りした役者は笠に手をやり、
「役者だ。どうぞ宜しく」
ヤブが渡人を順番に紹介し、お互い言葉少なに挨拶を済ますと、役者は、
「すぐそこに泉がある。足元に気を付けて水を汲んで」
渡人たちは未だ数珠つなぎのまま、縄を外したヤブから役者が先導に代わって、反対側の斜面にある大岩に挟まれた窪みに溜まった水溜りへ案内される。順番に竹筒へ水を汲む渡人を眺めていると、ヤブがこちらに合図しているのに気付く。小康状態になっている雨を見ると役者は、
「縄は外していいよ、そう、先頭のあんたから」
カシラから順に外した縄を器用に素早く巻き取った役者に、イチタが声を掛ける。
「もう登りはないよな?」
役者は短い呼吸を繰り返すイチタにふと顔を顰めたが、すぐに真顔に戻り、
「暫くは、ね」
役者は渡人たちを泉の横、廂の様に張り出した大岩の影へ誘う。最低限雨風を凌げる岩影、間口は四間、大人が背を屈めて三間奥まで行ける広さ。中は意外と乾燥しており焚き火の跡も見える。過去どれだけの者がここで雨露を凌いだのだろう。
「残念だけど火は点けられないよ。目立つことは出来ない。そうだろ?」
役者は真っ先に焚き火の跡を弄くり出したイチタにそう声を掛けると、
「腹減っただろ、飯だよ」
ぶっきらぼうに濡れた風呂敷包みをカシラに渡し、
「ここで食うんだ、ほら、座っていいから」
渡人たちは大人しく車座となり、やれやれと笠を外し、蓑を外して滴を払う。やがて渡人たちは思い思いに雑穀の握り飯を食べ始めたが、誰もがむっつり黙ったまま食べていた。そんな様子を見守った役者は、
「待っていてくれ」
そう言うなり泉からヤブの待つ坂の上へ駆け上がった。待っていたヤブは渡人たちに話を聞かれぬ様に少し離れた木陰に寄ると、役者から手渡された握り飯を立ったまま頬張った。
「随分手間喰っちまったが」
ヤブが言うと役者は尾根の先、続く山道の先を見晴るかし、
「この様子じゃ、間に合わねえな」
「そうだ。迂回ったんじゃあ明けの刻には間に合わねえよ」
「行くのか、鹿滑」
「アレじゃあ、無理だな」
ヤブは下の方を見やって首を振る。
「では、やっぱり迂回るのかい」
「仕方ねえだろうな」
とは言ったものの、一行が歩き出した後もヤブは迷っていた。迂回か、鹿滑を行くか。雨は昼を回ってからは小雨となっている。しかし、彼らが行く尾根道は時折吹き抜ける様になった風が驚くほどに冷たく、濡れた体から気力も体力も奪って行った。そんな渡人たちの様子では、とてもあの難所を無事に越えられるとは思えない。だが、刻限は迫っていた。
もちろん諦めて引き返す事は出来る。また、先に進んで二日待つ事も出来る しかし、ヤブにはここで引き返しても二日待っても上手く行かないのでは、との思いが湧いて来ていた。それは根拠のある事ではない。親から仕込まれ、『わたしや』を始めて三十年、その経験が教えている。このまま遅れればどちらも危険だと。
「何を考えてる?」
先に立った役者がいつの間にか並んで歩き、ヤブの顔色を窺っている。役者は若いが数え五歳から『わたしや』をやっている。七歳の時から供に付けたヤブは、今では役者抜きではこの仕事を考えられない程にまでなっていた。この三年程は役者もヤブと対等に渡り合うまでに成長し、今回の様に先導もこなすまでになっている。もうすっかり玄人の域に達した役者も、ヤブの不安を感じているのだ。
「行くか、行かねえか迷ってるが」
「『かりびと』か?」
「奴らは馬鹿じゃねえ。追いつかない者は追わない。まあ、俺たちが鹿滑を迂回すれば『雲見の三太』なら追ってくるかも知れねえがな」
「じゃあ『朱ヶ原』か?」
「……」
「なるほどな」
「聞かせてくれ、行けると思うか?」
役者の目付きが鋭くなる。ヤブがここまで迷うのは非常に珍しい。この先、思い掛けないことがある前兆なのかもしれない。役者は素早くそう考えるが、しかし表情は破顔する。
「行けるだろ。誰が渡すんだい?え?天下一のわたしやさんよ」
ヤブは苦笑したが、まだ不安は解けない。彼は笠の紐を締め直すと、呟くように返した。
「おれが天下一だと?本当にそうならいいんだがな」
一行は先に起つ役者、最後尾にヤブ、間に渡人と布陣を変えて進む。
尾根は、靄は薄れたものの雨に濡れ滑り易く、気温はどんどんと下がっている。進む一行の荒い息は白い湯気となり、感覚を失いつつある手先足先は痺れて、最早自分のものとも思えない。それでも渡人らは俯いたまま、疲れを見せず着実に歩いて行く役者や、馬子歌を低く口ずさむヤブに助けられ、うねうねと只管に伸びる尾根道を稼いで行った。
「ほら、あれが鹿滑だ」
役者がすぐ後ろを行くカシラに声を掛けた。カシラは疲労と間断ない雨で重くなった首を上げ、目の前の情景を見て息を呑む。それは町育ちの彼女の想像を超えた自然の驚異だった。
千丈の峰。千尋の谷。奇岩にしがみ付く様な松。数条の細い滝が雨に煙って幻の様に白い筋を見せている。尾根はここで断ち切られ、道は二つに別れている。
一つは急角度に逸れて斜面を下る。その先は谷底に流れる急流沿いに前に聳える山々を廻り込み、反対側へ向かう道。もう一つはそのまま斜面へ向かい、中途から岩場と化して道無き道へと姿を変え、そこに古びた青銅の鎖が岩に打ち付けられ止められて、ほとんど垂直に近い様に見える岩壁を遥か頂上まで続いている。
『祈りの森』へ向かう最初の難所、鹿滑。最大斜度七十度のガレ地と岩壁。この山脈の北斜面の一部を為し、壁とその手前のガレ地では何時も止むことのない強風、ここは風の通り道で今も夜来の雨が横殴りに吹き乱れている。ガレ地の岩は崩れ易い溶岩軽石。幾度となく雪崩の様に地滑りが起き、人も獣も区別なく巻き込む。幾多の命を奪って来た岩地獄、山の神の化身、カモシカさえも滑る事からこの名が付いている。
「ここを、行くのですか?」
恐怖の表情を浮かべるカシラにヤブは、
「さあ、どうするね?お前さん次第だ。行くか、廻るか」
カシラを見据えて二者択一を迫る。
「……廻って行っては、いけないのですか?」
すると役者が、
「廻れば三刻(六時間)は余計に掛るよ。そうすれば明日の刻限には間に合わねえ。明けまでに余裕を持って『いわど』へ着くには、あれを超えなくてはならない」
カシラは眉間に苦悩の皺を浮かべながら、鹿滑を見やる。そして、イチタ、ヒメ、ニタの方を振り返り口を開きかけたが、三人に一様、浮かんだ諦めの表情に気付くと掛ける言葉を失った。
カシラたちは只でさえきつい山道をこの風雨の中、登って来た。靄のために自然歩みは鈍くなり、更に時を喰った。既に一刻ほど予定から遅れている。
鹿滑を迂回する道を行くと『いわど』まで半日余計に掛ると役者は言った。この以上時を重ねれば『いわど』が開く刻限までには間に合わない。そうなれば渡人たちは『いわど』が再び開く二日間、高まる危険に晒されて過ごすしかなくなる。その間、追っ手が雇った『かりびと』に迫られ最悪討たれるやも知れない。逃げる者が『わたしや』を雇う様に追う者にも『かりびと』という人狩り専門の狩人がいる。この『藍の森』一帯ではこれら森往きを生業とする者だけが分け入ることが出来る。ここは、その先にある『いわど』の秘密と共に森に生きる者たちの世界なのだった。
カシラたちは追っ手に追われ町を離れ、伝手を頼ってこんな遠くまで逃げ延びた。そして『わたしや』の存在を知らされ、安住出来るという『彼方』を知った。知ったからには後戻り出来ない、と言われた。『渡る』のを止めれば秘密を守るため死んで貰う、と。それを四人、承諾して、だからもうカシラたちには先へ先へと前のめりになり這ってでも行く道しか残されていないのだ。
悩んだ末にカシラは消え入る声で言う。
「シシスベリを……行きます」
と。