貳;ヤブ・渡人
雨は止まなかった。
目付きの鋭い男は笠を傾げ、明るくなり始めた空を見る。一面濃淡のない雲に覆われ、振り飛沫く雨は粒の大きな土砂振り、凄まじい音を立てて風景を霞に沈めている。風の無いのが幸いで、重い雨は頑固なまでに垂直に落ちて来る。今日は音を気にしなくてもいいだろう。これなら会話すら出来る。しかも、この振りでは『山守』たちも理由なく湧いては来ないだろう。それでも出るとしたら神は本気という事であり、やっかいな事になる訳だったが。
「さぁ、行くか」
男は一人言つと杉の大木の下、降り飛沫く雨を多少なりとも受け止める葉影に身を寄せ合う渡人たちに目をやる。
「この先、幾らかきつくなるが勘弁してくれ。出来るだけ近道するが足元が悪いから気を付けて、な」
「分かりました、宜しくお願いします」
今日の『渡人頭』は、女人だ。瓜実顔の御目麗しい歳増だが、芯があるのを男は見て取った。この女なら皆を励まし弱音を吐かず付いてくるに違いない。
「なら、用意はいいな?」
男二人女二人の渡人たちは、目付きの鋭い男を見て戸惑う様な素振りを見せるが、すぐに頭の女が率先し、
「大丈夫です、行きましょう」
男は頷くと歩き出したが、
「あ、あの!」
頭に声を掛けられ、直ぐに立ち止まる。
「あなたのことは何とお呼びすれば?」
「ヤブ」
「は?」
「ヤ・ブ、だ」
「ヤブさんですね、私は、」
「名乗るな」
ヤブと名乗った男は押し止める様に手を出す。
「おれには言わないでいい。聞きたくない」
頭が傷付いた様子で肩を落とすのを見た彼は続けて、
「悪く思うなよ。おれは聞かねえ方が助かるんだ。名前を呼ばなくてはならねえ時は、お前さんのことは『カシラ』と呼ぶからね。そっちの兄さんは『イチタ』、そちらは『ニタ』、そこのお姉さんは『ヒメ』、だ。もういいか?行くぞ。急ぐからな」
最初の一時は何事もなく、淡々と物事が進んで行った。古い社の隠れ家を出て裏手に聳える山に入り、地元の人間しか知り得ない獣道に近い山道を行く。
ヤブは時折続くカシラを振り返り、一向がちゃんと付いて来ているか確かめた。その都度カシラは頷いて、笑みらしきものを浮かべ、大丈夫だと無言の合図を送る。
最後尾には若いニタが歩いていたが、その足取りは確かで細身の身体はヤブの見立て通りバネの様にしなやかだ。この様な険しい山道にも慣れている。色白だがお棚の若旦那や坊っちゃんでは無い様だ。逆に年上のイチタは顎が上がり始め、雨で判別つかないがびっしょり汗もかいているはずだ。後々足出纏になるかも知れないが、今の所は遅れずに付いて来ている。ヒメはカシラとそんなに年は離れていない十八、九の娘だが、落ち着いて無難に歩いており、イチタよりは余裕がありそうだ。
そんなことをざっと目にすると、ヤブは何も言わずに、再び登り坂を彼としては精一杯ゆっくりと登って行く。
もう半刻過ぎるとやや平坦な場所に出た。明け染めの頃合いだが、灰色の空は同じ灰色に沈む森を明らかにしただけで、渡人たちを暗闇に沈んだ時より陰欝な気分に沈める。ただし足元が見えて来たのは助かり、イチタやヒメが石や木の根に滑る回数も減って来た。
「ここで休む」
ヤブは山道が大きく右に曲って、岩が二つ三つ転がった空き地を示したが、
「地べたに座ってはいけない。この先歩きたくなくなるからな。辛いならそこいらの岩か木に寄っ掛かるんだな。そう、その要領だイチタさん」
イチタは岩の一つに背中を当て、大きく息を吐くと、腰の竹筒から水を飲み、
「あと、どの位かね、ヤブ」
「次に休むところまでかい?それとも『いわど』までかな?」
ヤブの言い方に皮肉を感じ取ったのだろう、イチタは少々いきり立ち、
「次に休む所までだ」
「一刻ってとこだな。でもって仲間と合流する。さあ、はやく飲んじまいな。イチタさんが飲んだら行くから」
その一刻後。そこまで雨は激しく降っては収まり、再び激しく降っては収まりと一向に止む気配はなかった。渡人たちはむっつりと押し黙ったまま、これも無口なヤブに先導され、よろめく様に斜面を登って来た。
その時、ふとヤブは顔を上げ空気を嗅ぐような仕草をする。振り飛沫く雨に流れるひんやりとした空気を感じるとカシラを振り返り、
「止まれ」
彼女は疲れを滲ませながらも怪訝な表情で、
「どうしました?」
ヤブはそれには答えず、幾重にも巻いて肩から腰へ斜めに襷掛けた丈夫な縄を解き、その端をカシラに渡しながら、
「これを腰紐に通すんだ。一回廻して端っこは後ろのヒメに渡して」
そして縄を次々に後ろの人間へ渡して行くと、一間ほど間隔を空けて全員が縄で結ばれた。ヤブは一人一人に、転んだり止まったりする時は前の人間に声を掛け、前の人間は前の縄を引く様に伝え、自分もカシラの先に伸びた縄の先端を腰に廻して締めた。
するとそれを待っていたかの様に辺りが靄に包まれ出し、彼らが歩き出して二町も行かない内に、前を歩く人間も見え辛くなり、ヤブからはカシラしか見えなくなった。
「いいか、足元をしっかりと見て気を付けてな」
ヤブの声は籠ってカシラにはモゴモゴと聞こえた。
数珠つなぎとなった一行は、牛歩の速度で先を見通せない靄、既にそれを雲と呼んでも差し支えない高度になっていたが、その白い世界の中をひたすらに歩んで行った。白い世界が醸し出す閉所恐怖と孤立感は、嫌が上でも常に渡人たちに付きまとい、雨に打たれ長い登りで消耗した限界に近い体力気力を更に奪い取って行く。イチタは先程から震えが止まらなくなり、不安は心の臓を跳ね上げて喉がカラカラに乾き、仰ぐ二本目の竹筒も空となり遂には笠を伝う雨を手に受け止めて舐める様にしていたが、渇きは一向に治まらない。 呼吸は不規則だったが、それが果てのない登りのためか不安のためなのかイチタにも分からなくなっていた。ヒメは青い顔を幾度も上下して、笠から崩れた髪が雫をしたたらせ、襟足から入る雨が着る物を重く冷たくしていたが、それも気にならなくなっていた。そんな陰鬱な一行が言葉も無く喘ぎながら尾根に達した時、
「止まるぞ、気を付けろ」
ヤブがカシラに声を掛け、数歩前に行くと歩みを止める。カシラはヒメに声を掛け、ヒメはイチタに、イチタは最後尾のニタへと声を掛け全員がヤブの所へ集まった。
「一時ほど遅れたが、この霧じゃ仕方ねえ。ここからもう一人加わる」
その声に応える様に先程よりは薄れ始めた靄、その中から黒い人影が現れ、彼らに近付いた。