壹;役者
「おおい」
「おお、来たか」
「おはよぅさん。今日は何人だ?」
「四人だ」
「多いな」
「ああ、多い」
「ガキはいるのか?」
「いない」
「ならいい」
燻された様に黒ずんだ蓑から、ぽたり、ぽたりと雨雫が零れる。炭団の様に真っ黒に日焼けした顔が深い皺を刻み、充血した細い目は射抜く様に鋭い。その目が空を見遣る。
漆黒の闇とは正にこのことだ。今、二人のいる『鵺の森』は昼でも暗い。この明け方まで一刻半を数える頃合いでは相手の顔も見えない。しかも昨夜来、雨が降り続いている。
「止まねえな」
年下の相手がぽつりと呟く。
「ああ、止みそぅにねえな」
年上の色黒が頷いた。
「こりゃ鹿滑の坂、無理だな」
「難しいな。いざとなったら裏手へ廻るしかねえな」
「そうなりゃ最低二刻は余計にかかるなぁ」
年下はちらっと暗い空を見遣ると、
「『かりびと』は?」
「まだ動いてねえ。今度の渡人は相手より二日ほど先行しているらしい」
「誰の話?この前みたいなのはもう沢山だよ」
「岩館の婆だ」
「ならいい」
「早く発つしかねえだろう」
「『あかり』を用意するか?」
「そうだな。おめえのとこから例の強盗持ってこい」
「なら、おれは先行くよ」
「頼む」
打ち合せを済ますと、眼光鋭い男はするりと離れ、闇の中へと消える。
その片割れ、対照的に色白、夜目にも際立つので顔に泥を塗り付けた若者は女どもが色目を使う程の美少年、数え十九で仲間からは『役者』と呼ばれていた。
暗闇の雨の中、どうしたらそんなに早く滑らず静かに移動出来るのか、驚く様な早さで役者は沢までの獣道をひた走る。やがて流れ下る水音がすると走るのを止め、今度は沢伝いに時折、足が痺れる程冷たい沢の水に浸かりながら下流を目指し下って行った。
半時も下ると沢は小川となり、水音も穏やかに変わる。行く手に二本の目立つ松の木が現れると役者は川から外れ、自然に出来た堤を超えるとそこは畑になっていて、今は青菜が育っていた。
雨足は一時的に弱まり視界は開けて、足元が漸く見える程の明るさがある。役者は青菜の間を泥を跳ね上げながら走り抜け、その先の小屋の戸を微かに二回叩く。そのコツコツと言う音は雨音に紛れ、一間も離れれば聞こえないものだったが直ぐに用心棒が外され、戸がカタリ、と寸尺開く。役者はさっと開け、辺りを伺って誰も見ていないことを確認すると、音も無く忍び込み後ろ手に戸を閉めた。
薄暗い小屋の中は竃から覗く炎だけが明かりになっている。その僅かな光で見える小屋の内部は、タタキの先にたった一間の板の間があり、あまり使われる様子のない囲炉裏があり、その奥に微かに見える壁にはこの小屋には場違いに見える桐の箪笥が一棹、浮かび上がって見えている。
役者はそんな小屋の様子を見遣ると笠の顎紐を解き、水滴を振り落とす。と、その白い項に白い二本の腕がすっと伸び、役者はぐいっと引かれると、たちまち暖かい身体に包まれた。唇に湿ったものが押し当てられたかと思うと思い切り吸われる。
「おいおい、止めねえか」
役者はしがみ付く女を突き放すと、
「悪いが遊んでる暇はねえんだ。直ぐに発つ」
「なんだあんた、今日は随分急ぐんだね」
「雨が上がらねえ。『渡人』を連れて行くんじゃあ、濡れた鹿滑の坂越えはしんどいからな。少しでも早く行くに超したことはねえんだ。おい、あの強盗取ってくれ」
「あいよ」
女が三和土を奥に行き、壁に掛っていた強盗提灯と携帯用の火口箱を取って来ると、役者は、
「めし、出来てるか」
「待ってな」
女は竃の上の鍋から、雑穀で作った汁物を椀によそって差し出す。
「渡人の握り飯はそこにあるから」
女が示す先に丸太を輪切りにしただけの台があり、その上に竹で編んだ小さな籠が二つ、風呂敷の上に置いてある。役者は汁物を掻っ込みながら頷き、笠を竈の前に立て掛け火に翳し、蓑も取らない姿のまま竃の火で冷えた身体を暖める。
女の作った汁物は、ただ単純に僅かな栄養補給が出来るだけの代物、世辞にも美味いとは呼べなかったが身体は暖まる。役者はあっと言う間に食べ終わると、
「なら、行くよ」
「はいよ」
役者は女の作った弁当を風呂敷に包んで背負うと、女が強盗と火口箱と燧石の入った黒い熊皮の袋を差出し、役者は強盗提灯を弄って動作を確かめた。
「油は三本、袋に入れてある」
役者は火口箱と油紙に包まれた幾つかの塊を確かめ熊皮に戻すと、
「なら行って来る」
「気いつけてな」
「はいよ」
すると役者は、ふと女の顔を繁々と眺める。女は首を傾げ、
「どうした」
役者の手が彼女の顔に伸び、突然女は期待に胸が高鳴る。少しだけ慰めてくれる気になったのか?女が溜め息を吐いて右手を下に延ばそうとした刹那、役者は女の頬を擦り、
「お前、俺と同じ顔になってら。さっきお前が顔をくっ付けるから」
女の顔に付いた泥を優しく拭った役者がそう言うと、女は何故か怒って、
「早く行け、この甲斐性なし!」
突き飛ばされ、目の前でぴしゃりと戸を閉められた役者は、
「ったく、なんだってえんだ」
ぶつくさ言いながらも直ぐに表情は改まる。役者は畑を抜け川へ戻り、もう一度未だ暗闇に包まれた山の中へと消えて行った。